信仰と不信仰との間にたって、心が割かれる思いになります

4月5日
「イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、『恐れることはない。ただ信じなさい』」。マルコ5:36

会堂司の娘が瀕死の状態でした。イエス様は求めに応じて出かけましたが、間に合わずに娘は死んだ。これ以上イエス様でも何もできない、と不信仰に囚われる。そのとき、イエス様は周囲の人々の言葉を「聞き流して」、イエス様に徹底して信頼することを勧めます。信仰と不信仰との間にたって、心が割かれる思いになります。まさにそこが勝負どころです。誰のことばを聞き流して、誰の言葉を信じるのですか。(KE)

失望や落胆する時こそ全能の神様を親しく知る時です

4月4日
「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る」。詩篇121:1-2

長い人生の旅路にあって、しばしば試練や患難に遭い、失望・落胆することがあります。お先真っ暗と思える時、あなたはどうしますか。その時こそ、万物の創造者、全能の神様を親しく知る時です。孤立無援、出口のない袋小路にはまった時こそ、うつむいた頭を上に向けようではありませんか。天地を自在に操る神様に心が定まるとき、明るい将来が開けます。(KE)

昼は雲の柱、夜は火の柱を置いて、導かれたのです

4月3日
「昼は雲をもって彼らを導き、夜は、よもすがら火の光をもって彼らを導かれた」。詩篇78:14

エジプトの地で奴隷の生活を強いられたイスラエルの民は、長年の祈りに応えて、神様はモーセを指導者として選び、ついにエジプトからカナンの地を目指して旅立ちます。当時はコンパスも、地図もない時代。彼らが迷わないように、昼は雲の柱、夜は火の柱を置いて、導かれたのです。40年に及ぶ旅路に同行してくださったのです。その主は、ご聖霊によって、今も私たちを永遠の命の住まいへと導いておられます。(KE)

自分が引き受けざるを得なくなったときが主に従う時です

4月2日

「彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた」。マタイ27;32

クレネ人シモンはイエス様の連行される場に偶然いました。力尽きて倒れ込む主の代わりに、彼が十字架を負うたのです。図らずも引き受けざるを得なかった彼にとって、迷惑千万だったと思います。しかし、主が担って下さる十字架は、本来私たちが負うべきものでした。今与えられた事態が気に入らなくても、自分が引き受けざるを得なくなったとき、それが主に従う時です。なぜなら、私達が負うべき十字架を主は担って下さったのですから。(KE)

神様のご愛と恵みに感謝することを忘れないように

4月1日
「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」。イザヤ51:1b

いよいよ今日から新しい年度が始まります。学生たちは進級、進学、就職など、会社員などは新しい部署や責任者への昇進昇格など、春の新緑に包まれ初々しい気風がみなぎっています。この時に「初心忘るべからず」と世間では言います。何事も初めの謙遜・感謝、初々しい気持ちを忘れるなと言うことです。神様もどんな境遇から救い出されたかを決して忘れるな、また神様のご愛と恵みに感謝することを忘れないようにと諭されます。(KE)

苦しみを通して、神様のご愛を深く知ることが出来ました

3月31日
「見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、わが幸福のためであった」。イザヤ38:17a

 ヒゼキヤ王の言葉です。彼は死に至る病を免れて、寿命を15年延ばされたのです。彼は病に罹り、神様に訴えて、泣いて祈りました。主はその涙を見て憐れみ、願いを叶えてくださったのです。しかし、病が癒されることもですが、なによりもこの苦しみを通して、神様のご愛を深く知ることが出来ました。苦しい事も、悲しい事もまんざら捨てたものではありません。そこから得るものがあるのです。(KE)

まず「立ち返れ」と言われます

3月30日
「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」。イザヤ30:15

思いがけない事態に遭遇すると、人は狼狽し、落ち着きを失い、やみくもに右往左往します。まことに情けない姿です。その原因は神様との関係が崩れているからです。まず「立ち返れ」と言われます。万物の創造者と被造物なる自分。今、目の前の事態も神様によらないものはないとの姿勢を確かにすることこそ、肝要なことです。(KE)

今、あなたは何を頼りとしていますか

3月29日
「あなたがたは鼻から息の出入りする人に、たよることをやめよ、このような者はなんの価値があろうか」。イザヤ2:22

人は自分一人では立つことが出来ません。何かに、また誰かに寄りかかって立とうとします。その結果、多くの場合、頼ったことによって手痛い目に遭い、悲惨な結果になります。今、あなたは何を頼りとしていますか。どんなに身近な肉親であれ、いざと言うときにはなんの力にもなりません。あなたを限りない愛をもって愛してくださる神様こそ、信頼して不足のない方です。(KE)

人を神様の栄光を輝かす者にすることでした

3月28日
「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います」。詩篇92:4

神様は私たちが悲しんだり、嘆いたり、苦しむ姿を喜ばれる方ではありません。人を造られた目的は、神様の栄光を輝かす者にすることでした。
しかし、人が罪の故に神様の栄光を受けられなくなった結果、不幸と言われる事態が人を苦しめるのです。もう一度、神様の見えない愛の手を信じて、一切を主にゆだねる信仰に立とうではありませんか。世の浮き沈みをも楽しめる者になってください。(KE)

この世での死ですべてが終わるのではありません

3月27日
「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる」。第一コリント15:51

この世での死は、肉体の死、生物的な死です。それですべてが終わるのではありません。それぞれの魂(霊魂)は、それを授けた神様のもとに集められ、しばらくの眠りに就くと言われています。しかし、それとても永遠に眠り続けるのではありません。終末のとき、ラッパの響きと共に目覚めさせられ、栄光の姿に一瞬にして変えられるのです。それを信じ切るとき、身体的な死は新しい世界への目覚めの時でもあります。(KE)