1月13日
「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」ローマ12:15
これはすばらしい言葉です。自分もこうありたいと思いますが、しかし、このように出来るでしょうか。どんな美しい言葉でも、行えないなら、絵に描いた餅にすぎません。共に喜び泣くには、自分を捨てて、相手の立場になりきる愛がなければできません。主の十字架を見上げて、主のご愛に応えましょう。(KE)
1月13日
「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」ローマ12:15
これはすばらしい言葉です。自分もこうありたいと思いますが、しかし、このように出来るでしょうか。どんな美しい言葉でも、行えないなら、絵に描いた餅にすぎません。共に喜び泣くには、自分を捨てて、相手の立場になりきる愛がなければできません。主の十字架を見上げて、主のご愛に応えましょう。(KE)
1月12日
「ノアはすべて神の命じられたようにした。」創世記6:22
大洪水の滅びから救われたノアが神様の恵みにあずかった秘訣はこの言葉に尽きます。今日、あなたが祝福と救いを受ける道もここにあります。あなたに神様が命じておられることは何でしょうか。神様が語っておられる言葉に耳を傾け、それに従ってください。(KE)
1月11日
「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。」マタイ7:24
家を建てようとする人は地盤の堅固な所を選びます。そうでなければ、家は長続きしません。人生も同じことです。あなたの一日は何を土台としていますか。世の習慣・しきたり、人の言葉に信頼する限り、失望に終ります。キリストの言葉を信じて、その上に一日の生活を築いてください。(KE)
1月10日
「死んだはえは、香料を造る者のあぶらを臭くし、少しの愚痴は知恵と誉よりも重い。」伝道10:1
どんなに犠牲・献身をして事をなしても、最後に一言愚痴ったり、つぶやいたりすれば、それまでの努力や勤勉は一瞬にして無に帰してしまいます。そうならないためには、人からの賞賛、誉、報いを期待しないで、神様からの報いを望むことです。人がどのように評価しようと、神様は全てをご存知であることを信じましょう。気づかないうちに、つい愚痴やため息が出てきます。(KE)
1月9日
「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。」エペソ4:26
怒ること、憤ること自体は必要なことでもありますが、そのために罪を犯すようであれば、神様の前に正しいこととは言えません。憤るときも、何日も続けていることは主がお許しになりません。心をいつも神様のみ手にゆだねて、コントロールしていただきましょう。(KE)
1月8日
「岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」雅歌2:14
これは神様からの愛するあなたへの呼びかけです。神様は私達が呼び求め、顔を向けることを願っておられます。下向きになり、悩みや悲しみ、問題の中に顔を埋めていないで、上を見上げ、神様を求めて下さい。愛する人は愛する者の声を聞き、顔を見たいと、切に願うものです。(KE)
「悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。」第一ペテロ3:9
神様が人を造られた目的の一つは、人を通して神様の恵み、祝福を注ぐためです。あなたを召して、神様を信じるものとしてくださったのは、あなたが受ける祝福が、溢れて、他の人々へ注がれるためです。どんな人に対しても、惜しみなく祝福を祈って上げようではありませんか。それは神様のみ心ですから。(KE)
1月6日
「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。」イザヤ55:6
今でなくてもいい。神様を信じることぐらいいつでもできると、多くの人は思うことでしょうが、こればかりは思い通りにいかないものです。神様と出会うチャンスは僅かだからです。今日、主があなたの近くにいらっしゃる時、祈って呼びかけて下さい。必ず、主がおられることを経験させてくださいます。神様のご愛、恵み、力、智恵など、味わったら幸いです。(KE)
1月5日
「語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。」ルカ24:15
イエス様は墓に葬られましたが、死の中からよみがえられました。しかし、誰もそれを信じることができませんでした。エマオへ行く二人の弟子達に、主は近づいて語ってくださいましたが、二人には主であると気が付きません。今も、よみがえった主はあなたに近づき、一緒に歩いておられます。みことばを信じて、心の目を開かれるとき、主を見ることが出来ます。(KE)
1月4日
「さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」第一ペテロ2:24
人は大なり小なり、罪をもって生きているものです。一点の曇りもない人はいません。その罪科を負って下さったのが、主イエス・キリストです。自分の足らなさ、意地悪な心、ゆがんだひねくれた心、全てを許して下さるために、今日も十字架が立てられているのです。(KE)