神様が与えるもので、人のではないのです

7月8日

「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである』」。マルコ10:27

 永遠の生命を求めてきた青年、彼は主が言われることを出来ないと分かって、去っていきます。彼は自分には出来ると自負していました。どんなに有能であっても、人は神様を越えることはできません。ましてや永遠の命は神様が与えて下さるものであって、人の努力や熱心な行いによるものではないからです。人には出来ない事をしっかり自覚することから、事がはじまるのです。(KE)

今日の通読箇所

エステル記 5章

ルカによる福音書16章

曖昧な態度では、神様の力を頂けません

7月7日

「イエスは彼に言われた、『もしできれば、と言うのか。信じる者には、どんな事でもできる』」。マルコ9:23

 病気の子を持つ父親がイエス様のところに癒しを願いました。父親は「できれば」と頼みました。そのとき言われた主の言葉です。主を求めるに、できればよし、できなければ他に、という曖昧な態度では神様の力を表して頂くことが出来ません。この方による他、頼る者はないと心を定めるならば、主は全能の力を発揮してくださいます。(KE)

今日の通読箇所

エステル記 4章

ルカによる福音書15章

信仰に立つには、時を待つことに尽きます

7月6日

「神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である」。ヘブル10:38

 慌てる乞食は貰いが少ないと、世間でも言われます。どういうわけか、人はせっかちで、我慢できないようです。信仰に立つにはどんなことも神様の為さることと、その時を待つことに尽きます。神様にお任せしますと言いながら、まだか、まだかと急き立てるのは、神様を信頼できないゆえです。徹底して任せきってしまえば、どんなにか楽になるでしょう。(KE)

今日の通読箇所

エステル記 3章

ルカによる福音書14章

神様は人の心や思いに、報われるのです

7月5日

「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。エレミヤ17:10

 人は目に見える姿かたちによって、評価し、判断します。しかし、神様は外目には分からない人の心や思いを見ておられ、それについて報われるのです。神様の目をごまかすことは出来ません。しかも、見るだけではなく、必ず報われる方です。他人からどのように見られるかを気にせず、心を見ておられる方がおられることを自覚しておきましょう。(KE)

今日の通読箇所

エステル記 2章

ルカによる福音書13章

砕けた悔いた心には、神様がいるのです

7月4日

「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす」。イザヤ57:15

 神様は義なる方、また聖なる方であって、汚れた者、罪人等と交わることは決してありません。ただ一つ、罪人が神様の恵みを受ける道は「心砕け、へりくだる」者となることです。あなたが砕けた悔いた心となるなら、そこに神様がいてくださるのです。頑なで高慢な者とならないで、心低くして謙遜に主を求めようではありませんか。(KE)

今日の通読箇所

エステル記 1章

ルカによる福音書12章

神の限りなき愛に、何をもって報いますか

7月3日

「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」。第一コリント6:20

 イエス・キリストの救いとは何であるか、簡潔に表した言葉です。私たちはサタンの支配の下に置かれて、死んだものでした。神様は私たちを愛するゆえに、御子の命を代償としてサタンの支配から解放されたのです。無償の限りない愛に何をもって報いることが出来ましょう。贖われたわが身をもって感謝賛美を捧げて主の栄光をあらわそうではありませんか。(KE)

今日の通読箇所

ネヘミヤ記 13章

ルカによる福音書11章

神様は暴君のようで、愛に溢れた方です

7月2日

「だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか」。ローマ11:34-35

 神様は唯我独尊、孤高の方です。ご自分がなさる時、誰彼に相談することはなく、また教えを乞う事もいらないのです。それゆえ、何事もご自身で立案実行なさるのです。まるで暴君のように思えますが、神様は同時に愛に溢れた方です。一方的な愛を注いで、私たちに最善の道を備えてくださいます。この方に導かれているなら、大安心です。(KE)

今日の通読箇所

ネヘミヤ記 12章

ルカによる福音書10章

主はどんな時も私達の味方となったのです

7月1日

「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに適し得ようか」。ローマ8:31b

 神様に敵対していた私たちのために、独り子さえも惜しまず、十字架に滅ぼされた方が、何を惜しむことがあるでしょうか。また主はどんな時でも私たちの側に立つ味方となって下さったのです。だからこそ、主に一切を任せて、先の事は分からなくても、今日一日を精いっぱい主と共に生きようではありませんか。(KE)

今日の通読箇所

ネヘミヤ記 11章

ルカによる福音書9章

求められる喜びは「主にあって」です

6月30日

「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」。ピリピ4:4

 誰でも喜んでいたいと願います。しかしそれが出来ません。多くの人が求める喜びは自分の願いや思う所がかなえられることです。その結果、事情や境遇に左右されて、喜べない事ばかりになってしまいます。主が求められる喜びは「主にあって」です。死んでいた者が主によって生かされ、今日も生きよと命を与えて、共に歩んでくださる主を喜ぶのです。今日もあなたは一人で生きているのではありません。(KE)

今日の通読箇所

ネヘミヤ記 10章

ルカによる福音書8章

主が喜ばれるかと思うことが大切です

6月29日

「主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい」。エペソ5:10

 今、自分がしようとしていることは、主が喜ばれることだろうか、と一瞬でも自分の思いを探ってみることが大切です。具体的な事の良し悪しを判断するのではなく、主の御心を知ろうとするのです。主の御心を求める時、御霊はあなたに必ず思いを与えられます。何事においても、主の喜ばれることを選び取ろうではありませんか。(KE)

今日の通読箇所

ネヘミヤ記 9章

ルカによる福音書7章