そのためには神様に導かれ、守っていただかねばなりません

7月3日

「主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください。」詩篇141:3

 “口は災いの元”ともいいます。何気ない言葉が人を傷つけたり、怒りを引き起こすからです。しかし、言葉を制御するのは困難なことです。自分の意志で気をつけていてもできません。語るべきことを語り、言わないでいいことを言わない。こうなりたいものですが、そのためには神様に導かれ、守っていただかねばなりません。一時の感情の吐露に任せると“後悔先に立たず”です。今日も、祈りつつ御霊に導かれつつ語る者となってください。(KE)

今日も、主に導かれて生きていることを忘れないで、主に信頼してください

7月2日

「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」イザヤ46:4

あなたの人生はあなたの努力と知恵、計画とわざで進んでいくのではありません。あなたを造られた神様が、あなたの人生を備え、導き、命の限りを定められるのです。今日も、この主に導かれて生きていることを忘れないで、主に信頼してください。神様はみわざをあなたの上になされるからです。持ち運んでくださる主に期待しましょう。(KE)

喜べない現実を導き、支配し、与えておられる神様に目を向けることです

7月1日

「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。」ピリピ4:4

 誰でも喜んでいたいと願います。しかし、現実の事柄、境遇、状況にあって喜べないでいます。状況や境遇の変化によって喜ぼうとしてもできません。そのような条件はすぐに変わるからです。「主にあって」と言われます。それは喜べない現実を導き、支配し、与えておられる神様に目を向けることです。主はあなたのために命を捨てて愛してくださる方、その方があなたを支えておられることを信じるのです。そうすると喜べます。(KE)

主を自覚するとき、あなたの道も整えられるのです

6月30日

「わざわいなるかな、おのが計りごとを主に深く隠す者。彼らは暗い中でわざを行い、『だれがわれわれを見るか、だれがわれわれのことを知るか』と言う。」イザヤ29:15

 神様を侮る、ないがしろにするとはまさにこのような態度のことです。人に見られなければ、だれにもわからないと思うとき、人の道が乱れます。あなたを絶えず見ておられる主を自覚するとき、あなたの道も整えられるのです。いつも、神様の前に責められる所の無い者となってください。(KE)

あなたはどうやって眠りを取り戻すでしょうか

6月29日

「わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。」詩篇4:8

 夜、ぐっすり休むことができるのはさいわいなことです。心に思い煩いや、気がかりなことがあると、眠れなくなります。そのようなとき、あなたはどうやって眠りを取り戻すでしょうか。確かに、薬を用いて眠ることも必要ですが、それは安眠というには程遠いものです。不眠の原因を取り除かなければなりませんが、それには神様を幼子のように信頼して、心を空っぽにして主に委ねることです。(KE)

すべてのことの背後で、主はご愛のみ手をもって導いてくださったのです

6月28日

「『主は今に至るまでわれわれを助けられた』と言って、その名をエベネゼルと名づけた。」サムエル上7:12

 今年も六ヶ月が過ぎ、七月になります。振り返ると、思いがけない出来事に出会い、様々な問題や試練のなかを過ぎてきました。そのときは気がつきませんでしたが、すべてのことの背後で、主はご愛のみ手をもって導いてくださったのです。祭司サムエルはエベネゼルと名づけた石を立てて、神様への感謝とみわざを記念しました。あなたも今日までの旅路を導かれたのは主であると告白し、感謝しましょう。(KE)

あなたが人知れず抱いている罪を自覚するなら、主の赦しを感謝して受けようではありませんか

6月27日

「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ。」マタイ9:2

 文語訳聖書では「子よ、心やすかれ」となっています。“安心せよ”とイエス様が語っておられるのです。今日、あなたの罪が赦されている!なんという驚きでしょうか。しかし、赦された歓喜を味わえるのは、罪を認める人だけです。自分を正しいとするかぎり、このみことばは無縁です。あなたが人知れず抱いている罪を自覚するなら、十字架の主を見上げて、主の赦しを感謝して受けようではありませんか。(KE)

“信じる”とは信頼する、信用することです

6月26日

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」ヨハネ14:1

 この世にあって、心を騒がせ、思い煩うことの多い日々を送っています。しかし、神様はそのようなことを喜ばれる方ではありません。私たちが喜び、感謝し、望みに輝いて生きることを願っています。そのためには神様を信じ、イエス様を信じること、これが全てです。“信じる”とは信頼する、信用することです。今、どのような事態にあっても、万物を力あるみ手で支え、導かれる神様を信じて、主の愛のわざを期待しましょう。(KE)

賢い人とは神様を尊び、敬い、信じる人のことです

6月25日

「だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。」エペソ5:17

 「愚かな者」とは学歴や偏差値に関係したことではなく、神様を畏れ敬わない人、“神などいるものか”と思っている人のことです。そういう人は世間の知恵や知識を頼りとして歩みます。一方、賢い人とは神様を尊び、敬い、信じる人のことです。毎日のどんなことにも、主のみこころを求め、神様の導きを求め、確信して生活する人のことです。あなたは愚かな者にならないでください。(KE)

イエス様を信じるとはまさに死んだ気になることです

6月24日

「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。」第二コリント4:10

 世間でも「死んだ気になって」と言って、人を励まします。確かに、死を恐れなければ、大胆で勇ましくなれます。と言って、死ぬことはできません。しかし、イエス様を信じるとはまさにそのようになることです。死んだわけではないけれども、あなたの死ぬべきところを身代わりとなって、十字架に死んでくださったと信じるとき、主の命に生かされて勇気と力を得ることができます。(KE)