自分の人生であっても自分で決めることができないのです

1月11日

「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。」エレミヤ29:11a

 人の一生は誰が計画し、持ち運んでいるのでしょうか。考えると不思議としか言うことができません。自分の人生であっても自分で決めることができないのです。しかし、神様はご計画を持っておられると言われます。このみ言葉につづいて、「将来、希望、平安」を与えようとすると語っています。私たちの人生を全てご存知で、それぞれに幸いな道を備えて下さるとの約束です。今日も神様のみ手に導かれて参りましょう。(KE)

神様と私たちの関係は鏡に映った自分の姿のようなものです

1月10日

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。」ヤコブ4:8a

 “神に頼むほど落ちぶれていない”などと豪語する人がいますが、確かに神様を頼るには謙遜にならなければできません。心を低くして神様に近づくなら、神様はそれに応じて近づいて下さいます。神様と私たちの関係は鏡に映った自分の姿のようなもので、近づけば鏡の中の自分も近くなり、離れると距離が広がります。神様の傍近くにいることが幸いなことです。神様もそれを願っておられるのですから、近づこうではありませんか。(KE)

まさに神様の配材でした

1月9日

「そこで、アクラというポント生れのユダヤ人と、その妻プリスキラとに出会った。」使徒18:2a

 パウロがコリントの町に来たとき、一組の夫婦に出会いました。彼らはローマに居た時、イエス様の救いに与った者でしたが、迫害に会ってコリントへ逃れていたのです。彼らはパウロを自宅に留め、伝道のわざを助けました。まさに神様の配材でした。彼らはさらにエペソへパウロと同行し、その地に留まり、エペソでの伝道に大層尽力しました。神様はパウロの同労者として備えられたのです。あなたも神様が用いておられます。(KE)

主の十字架は信じる私たちに生きる力と望みを与えてくれます

1月8日

「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」第一コリント1:18

 イエス様はすべての人の罪をあがなう生贄として、十字架によって神様の呪いと刑罰を受けてくださいました。当時の人々は救い主の無能無力な姿に失望しました。ローマ帝国に革命を起こすと期待したからです。しかし、かつての帝国は跡なく消えましたが、主の十字架は信じる私たちに生きる力と望みを与えてくれます。主の十字架こそわたしの救いであると信じるとき、新しい力に満たされます。(KE)

中途半端な信仰にでは何も得ることができません

1月7日

「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。」黙示録3:15

 日本人は和をもって貴しとする風潮があり、何事も旗色を鮮明にすることを避けます。信仰に対しても同じ態度をとろうとします。熱心に信仰を求めるより、つかず離れず、中途半端な信仰に安住しようとします。しかしそれでは何も得ることができません。真剣に主を求め、一途に信じて神様により頼むなら、神様は真実な方ですから、必ずそれに応えてくださいます。(KE)

徹底して神様のみ手に委ねたのです

1月6日

「しかしダビデはアビシャイに言った、『彼を殺してはならない。主が油を注がれた者に向かって、手をのべ、罪を得ない者があろうか』。」サムエル記上26:9

 ダビデは先王サウロに命を狙われていました。偶然にも敵対するサウロをうつ絶好の機会にあたって、部下は王を殺害しようとしました。ダビデは神様が任命したのだから、人の手によって事を計ってはならないと止めました。彼は神様を畏れる人でした。徹底して神様のみ手に委ねたのです。神様を信じるとはこのようなことではないでしょうか。(KE)

聖書は一貫して神様が私たちを愛しておられることを告白しています

1月5日

「主は彼の前を過ぎて宣べられた。『主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、』」出エジプト34:6

 聖書を通して語られる神様は戦好きな“軍神”ではなく、閻魔大王のような怖い神様でもありません。聖書は一貫して神様が私たちを愛しておられることを告白しています。まるで愛する恋人を慕うがごとく、“愛しているよ”と呼びかけておられます。その究極の愛を示したのがイエス様の十字架です。こんなにまで求めて下さる神様に無関心でいることができるでしょうか。(KE)

それでは決して心安らかになりません

1月4日

「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。」ヨブ22:21

 幸福とは物質的な豊かさや境遇に恵まれることではありません。心の平安です。平安を得ようと富や権力、地位や名誉を求めますが、それでは決して心安らかになりません。心の安心は造り主なる神様との関係によって生まれます。自分を絶対的なものとする限り神様を認めることができず、常に苛立ち、焦り、不信感に囚われて不安に駆られます。神様は十字架を立てて、赦しの手を差し伸べておられます。悔い改めて主に帰りましょう。(KE)

神様に立ち返り、悔い改めて救われることを願っておられるのです。

1月3日

「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」第二ペテロ3:9b

 神様の本意は人を裁き、滅びに陥れることではなく、なんとしても滅びる者がないようにとのことです。そのために最後の審判と言われる終末を遅らせておられるのです。その間に様々な事を通して神様に立ち返り、悔い改めて救われることを願っておられるのです。神様のみ思いを知って、新しい命に生きる者となり、滅び行く魂のためにとりなしてください。(KE)

私たちは主にお会いする準備ができているでしょうか

1月2日

「これらのことをあかしするかたが仰せになる、『しかり、わたしはすぐに来る』。アァメン、主イエスよ、きたりませ。」黙示22:20

 イエス様は弟子たちの見ている前で、携えられて天に戻っていきました。そのとき、御使が同じ有様で再び天から下って来られると伝えました。イエス様自身も「また来る」と語っています。それは終末のとき、主は裁く者として来られますが、私たちは主にお会いする準備ができているでしょうか。そのときがいつであるか分かりませんが、“主よ、速やかに来たりたまえ”と待ち望みましょう。(KE)