「十字架の言」を自分のこととして信じるなら、よみがえった主のいのちと力が満ちてきます

12月2日

「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」第一コリント1:18

 十字架(復活を含めて)について語られた聖書の言葉は多くの人たちにとって信じがたい、躓きの石とも言われます。もし十字架の死と復活がなければ、私たちの信仰は無意味なものであり、滑稽です。しかし、「十字架の言」を自分のこととして信じるなら、よみがえった主のいのちと力が満ちてきます。イエス様を信じるとは十字架を信じることにほかならないからです。(KE)

他者がどうであれ、「あなたは」と言われます

12月1日

「イエスは彼に言われた、『たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい』。」ヨハネ21:22

 よみがえられた主はペテロに三度私を愛するかと問われ、その後、「あなたはわたしに従ってきなさい」と言われました。主が求めておられるのは、誰彼ではなく、あなたです。つい、周囲を見て“あの人は?”と気になります。しかし、他者がどうであれ、「あなたは」と言われます。“神様と私”こそが信仰の中心です。(KE)

あなたがよみがえった主に会うことができるのはどこでしょうか

11月30日

「そのとき、イエスは彼らに言われた、『恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい』。」マタイ28:10

 ガリラヤは彼らの生活の場であり、初めてイエス様に出会ったところです。主は彼らに新しい出会いと使命を与えるためにそこへ行くことを命じられたのです。あなたがよみがえった主に会うことができるのはどこでしょうか。神殿でも、深山幽谷の地に遁世することでもありません。雑事に追われ、人事の錯綜する日々の生活こそ“ガリラヤ”です。(KE)

これはユダの話ではなく、光よりも闇を愛した私たちのことです

11月29日

「ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。」ヨハネ13:30

 最後の晩餐といわれる過越しの食事の席で、イエス様は自分を裏切る者がいると公言されました。そのうえでユダに食物を与えて、裏切るものが彼であると指摘したのです。彼は名指しされると、すぐにその場を離れ出て行きました。まさにアダムとエバが主の顔を避けて茂みに身を隠す如く、ユダは夜の闇へと消えていきます。これはユダの話ではなく、光よりも闇を愛した私たちのことです。しかし、主の死はそのためです。ただ只、感謝!(KE)

ただ、そこにあるのは“従順と謙遜”を具現した姿です

11月28日

「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」ピリピ2:8

 イエス様は神様のひとり子として神の位にあった方です。そのような方が父なる神様の願いに応えて人の世に降ってこられたのです。考えると、途方もないことです。神が人となるとは!ただ、そこにあるのは“従順と謙遜”を具現した姿です。その結果、神様は御子を死のどん底から引き上げ、すべての名にまさる名を与えて神様の栄光を現されたのです。神様の前に自らを低くし、み心に全く従うことこそ私たちの使命です。(KE)

彼が主に憐みを願ったとき、イエス様と共にあるみ国へ招かれました

11月27日

「イエスは言われた、『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』。」ルカ23:43

 イエス様は二人の犯罪人と共に十字架にかけられました。そのひとりはイエス様に悪態をつき、もう一人はそれをたしなめ、自分たちがやったことの報いをうけるのは当然だと認めました。その上、彼は、イエス様は何も悪いことをしたのではないと弁護しています。彼が主に憐みを願ったとき、イエス様と共にあるみ国へ招かれました。まさにへりくだる者に賜る恵みです。これは今もかわりません。(KE)

神様のなさるわざは終りまで見通すことができません

11月26日

「イエスは彼に答えて言われた、『わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう』。」ヨハネ13:7

 過越しの食事の席で、イエス様は立ち上がり、手拭いを腰にまいて、弟子たちの足を洗い始めました。突然のことであり、不可解な弟子たちに言われた言葉です。確かに、神様のなさるわざは終りまで見通すことができません。しかし、人はなんとか先のことを知りたいと思います。その結果、焦ったり、戸惑ったり、落胆します。神様のわざは振り返ってみるとよく分かります。(KE)

私たちはそれらの言葉を信じるのです

11月25日

「復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。」マタイ22:30

 人が死んだのちどうなるか誰も知りません。しかし、聖書にはそのことに言及した記事が幾つかあります。私たちはそれらの言葉を信じるのです。死後の世界にあって、家族・親族がそろい、この世での生活が再現されると思いやすいのですが、イエス様はそのように言われません。卑しい肉体は失われ、霊の体によみがえり、御使いのごとく神様に仕えるものとかえられるのです。(KE)

義人だと自称する人々は永遠に救われません

11月24日

「人々はみな、これを見てつぶやき、『彼は罪人の家にはいって客となった』と言った。」ルカ19:7

 取税人のかしらであったザアカイの家にイエス様が泊まられたときのことです。人々に嫌われ憎まれたザアカイは罪人である自分の家にイエス様が来られたことによって、悔い改めて新しい人生を生きることになりました。しかし、義人だと自称する人々はイエス様に来ていただくことができないばかりか、永遠に救われません。この真理は今も変わりません。罪人を招いて救うためにイエス様はこの世に来られたのですから。(KE)

私たちは受けた恵みをただ感謝するのみです

11月23日

「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。」第一コリント4:7bc

 私たちのいのちをはじめとして、生活全般にわたってすべてのもの、健康も、働く力も、有形無形、どんなものも神様からいただいたものです。人はなにも誇ることはできません。自分の力や知恵で得たものではないからです。神様の許しが無ければ何ひとつ有りえないことですから、私たちは受けた恵みをただ感謝するのみです。たとえ自分の意に添わなくても。(KE)