心の目が開かれると、肉眼に見えていたもののなかに主を見ることができます

9月16日

「彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が、見えなくなった。」ルカ24:31

 よみがえったイエス様はエマオへ行く弟子たちと共に歩いて行かれましたが、彼らはそれが主であることがわからなかったのです。一緒に食事をしているとき、彼らの目が開かれました。今、イエス様を肉体の目でみることはできません。しかし、心の目が開かれると、肉眼に見えていたもののなかに主を見ることができます。ある種の神秘的体験のようですが、肉眼に見えないものを心眼で見る経験は一般的です。(KE)

全能者であり、万物の創造者ですから、ちっぽけな期待では失礼です

9月15日

「あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。」詩篇81:10b

 人になにかを期待する時、相手の力を計ります。出来そうもないことを期待するわけにいきません。ところで、神様に対してはどうでしょうか。案外、神様に対しても同じように考えているのではないでしょうか。神様でもこれは無理だろうと。もしそうであれば大間違いです。神様に期待するにあたって、相手は全能者であり、万物の創造者ですから、ちっぽけな期待では失礼です。ここは口を大きく開けて、待ち望みましょう。主は応えてくださいます。(KE)

それは人の心に神様を畏れる思いが無くなったからです

9月14日

「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。」箴言17:1

 “衣食足りて礼節を知る”と古来言われてきましたが、現代の社会を見ていると、とてもそうとは思えません。家庭も社会も、衣食が余るほど物質的には人類最高の豊かさを誇っています。しかし、それに比例して人の心は冷え、争いが絶えず、平穏は失われて、礼節が消えてしまいました。それは人の心に神様を畏れる思いが無くなったからです。貧しくても豊かでも、神様の恵みを感謝する者でありましょう。(KE)

神様が全てを見ておられたことに驚き、また喜びました

9月13日

「そこでハガルは自分に語られた主の名を呼んで、『あなたはエル・ロイです』と言った。」創世記16:13a

 「エル・ロイ」とは「汝は見たもう神なり」という意味だそうです。女主人にいじめられて荒野を放浪していたハガルは神様に出会いました。誰も知らないと思っていたとき、神様が全てを見ておられたことに驚き、また喜びました。神様はあなたに目をとめておられます。それは懲らしめようとの監督者の目ではなく、良きことをしてあげたいとの愛に満ちたまなざしです。私たちもこの方に目を向け、呼び求めましょう。(KE)

神様の言葉を素直に受け入れて信じると、やがてそれが成長して実を結ぶのです

9月12日
「また、良い地にまかれたものとは、御言(みことば)を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである。」マ タイ13:23  
イエス様が語られた種まきの譬えですが、ここで言われる「種」とはみことばです。神様の言葉を素直に受け入れて信じると、心の深層にとどまって、やがてそれが成長して実を結ぶのです。そのために、みことばに絶えず触れていることが必要です。なにかのときに、聖霊は忘れていたみ言葉を思い起こさせてくれます。(KE)

主の十字架はすべての罪や咎、穢れを清めてくださったのです

9月11日

「すると、声が二度目にかかってきた、『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』。」使徒10:15

 旧約時代、律法に従って食べるものにもきよいものと穢れたものの区別があり、長年厳格に守られていました。しかし、イエス様は十字架によって律法の終りとなり、区別や差別を一切取り除かれたのです。それは人に対する差別をも消し去ってくださいました。主の十字架はすべての罪や咎、穢れを清めてくださったのです。あなたのみならず、あなたが嫌いな人のためにも主はいのちを捨てて愛しておられるのです。(KE)

イエス様に救われた私たちもまたこの世から選びとられた者です

9月10日

「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。」ヨハネ17:16

 イエス様は父なる神様と共におられ、天に属する方です。主は私たちの罪をあがなう犠牲として人の世に降り、人とまったく同じものとなってくださいました。しかし、世にありながら世のものとして生きたのではありません。イエス様に救われた私たちもまたこの世から選びとられた者です。今、世にあるのは主と同様に神様の使命を与えられ、それぞれの持ち場立場に派遣されているのです。このことを自覚しておきましょう。(KE)

羊は戦う力も、鋭い牙や角も、駆け回る俊足もありません。私たちはまさにこのような羊です。

9月9日

「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。」詩篇23:1-2

 神様と私たちの関係を羊飼いと羊にたとえています。羊は戦う力も、鋭い牙や角も、駆け回る俊足もありません。また、自分で牧草や水場を探すこともできません。彼らを守り導く牧者が居なければ命をまっとうできないのです。私たちはまさにこのような羊です。イエス様はご自分を「良い羊飼い」と語っています。主を牧者として、主の言葉を聞き分ける従順な羊になりましょう。(KE)

避けられないのであれば、むしろ試練を正面から受け止め、積極的に生きることが幸いです

9月8日

「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」ヤコブ1:12

 人は生きている限り、困難や苦しみなど試練といわれるものを避けることができません。それは神様が私たちに与えておられる恵みでもあります。試練を通らなければ得られないものがあるからです。避けられないのであれば、むしろ試練を正面から受け止め、積極的に生きることが幸いです。神様は試練の中でどのように生きるかを見ておられ、それに必ず報いて下さるのです。(KE)

神様は豊かな慈愛をそそぎ、御心を全うしてくださるのです

9月7日
「主は正義と公平とを愛される。地は主のいつくしみで満ちている。」詩篇33:5
「天網恢恢租にして漏らさず」と、世間でも言いますが、神様は活きておられ、必ず「正義と公平」を行う方です。私たちの目には不正がはびこり、不義が横行して神様はどこ におられるのだろうかと思われる現実があります。しかし、私たちの思うところがどうであれ、神様は被造物を愛して豊かな慈愛をそそぎ、御心を全うしてくださるのです。さま ざまな悪と見えることの中にも主の義が貫かれ、慈しみが行き渡っていることを信じましょう。(KE)