人は身勝手に“よい”“悪い”を決めて、それに縛られてしまいます

7月13日

「すると、声が二度目にかかってきた、『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』。」使徒10:15

 創世の時、神様は万物をみ心のままに造られました。その結果を見て、「よし」とされたのです。しかし、人は身勝手に“よい”“悪い”を決めて、それに縛られてしまいます。使徒ペテロもそのような律法に囚われていましたが、不思議な幻を通して、どんなものも神様がきよめておられることを悟りました。これによって福音が当時の異邦人社会に伝えられることになったのです。あなたも自分の思いに捕われていませんか。(KE)

“主の言葉”を軽んじることは、神様ご自身を軽んじることです

7月12日

「どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。」サムエル下12:9a

 ダビデ王はバテシバにしたことを神の人ナタンに指摘されました。神様が問題にされたのはその行為ではなく、背後にあるダビデの心を咎めたのです。“主の言葉”を軽んじることは、神様ご自身を軽んじることです。確かに彼女の夫ウリヤにしたことも罪ですが、それを生み出したのは神様に対するダビデの高慢な心でした。人は現れた行為を問題にしますが、神様の求められることはあなたが主をどこに置いているかです。(KE)

神様の定められた手続きに従うとき、具体的な結果を得ます

7月11日

「すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。」民数21:9b

 エジプトから救い出された神の民は荒野の旅路に堪えがたくなり、神様とモーセにつぶやきました。神様は火のへびを送って彼らを懲らしめたのです。民は悔い改めてモーセに取り成しを願い、その結果、神様は青銅でへびを造り、竿にかけるよう命じました。仰ぎ見たものは死を免れました。ばかげたことに思われようと、神様の定められた手続きに従うとき、具体的な結果を得ます。主の十字架もまた同様です。仰ぎ見る者は生きるのです。(KE)

畏敬という言葉によって表された思考や感情、情緒が失われたように思われます

7月10日

「愚かで、悟りもなく、目があっても見えず、耳があっても聞こえない民よ、これを聞け。主は言われる、あなたがたはわたしを恐れないのか、わたしの前におののかないのか。」エレミヤ5:21-22a

 “畏敬”あるいは“畏敬の念”という言葉は、近頃使われない言葉の一つではないでしょうか。言葉がなくなるにつれて、それによって表された思考や感情、情緒が失われます。神に対する人の感覚が鈍感になり、神様に抱く思いが変わったように思われます。今こそ絶対者であり、全能者なる神様への真剣な心を取り戻すときです。(KE)

王までなったダビデは神様に対して「あなたはわたしの主」と言っています

7月9日

「わたしは主に言う、『あなたはわたしの主、あなたのほかにわたしの幸はない』と。」詩篇16:2

 これもまたダビデの信仰告白です。彼は無名の羊飼いから、王にまでなった成功者ですが、彼は決して絢爛豪華な王宮に住むから幸いだと言ったのではありません。しかも王たるものは自分以外に主なるものはいないはずですが、彼は神様に対して「あなたはわたしの主」と言っています。富国強兵や福祉安寧に腐心するわけでもなく、ひたすら神様に仕えることを努めました。その結果、繁栄や平和がもたらされるのです。(KE)

誰も彼の側に立つ者なく、悲しみを慰めてくれる者もいないとき、唯一の拠り所は神様でした。

7月8日

「しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた。」サムエル上 30:6c

 ダビデがまだサウル王から逃げていた時、アマレクびとによって町が襲われ自分の愛する家族を失いました。その結果、町の人々からダビデは恨みを買い、孤立無援・四面楚歌の状況に落ちたのです。これは彼にとって厳しい試練でした。誰も彼の側に立つ者なく、悲しみを慰めてくれる者もいないとき、唯一の拠り所は神様でした。人に頼るのではなく、境遇によるのでもなく、いつ、どこにあっても支えてくださる神様に信頼するほど幸いはありません。(KE)

私たちにはいろんな意味で力がありません

7月7日

「汝の能力(ちから)は汝が日々に需(もと)むるところに循(したが)はん。」申命記33:25(文語訳)

 子供の頃に覚えた文語訳によるみことばです。そもそも私たちにはいろんな意味で力がありません。あるとすれば邪悪なサタンのちからでしょうか。正しい道を選びとって生きる力は神様から注がれるものです。その力がなければ燃料が切れた車のようで、無用の長物と化してしまいます。神様からの力は蓄えることができないので、日々求めなければ得られません。今日も神様のもとに来て、上からの力に満たされましょう。(KE)

この世の思い、肉の思いは私たちに強く迫ってくるからです

7月6日

「こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。」ヘブル2:1

 聖書のことばを通して語られる神様のみ思いは、この世のさまざまな声にかき消されてしまいがちです。なぜなら、この世の思い、肉の思いは私たちに強く迫ってくるからです。一方、聖霊が語ってくださる御声は優しく細いものです。一陣のさわやかな風が吹くごとく、御霊がみ思いを開いてくれた瞬間、しっかりと受け止めて心に留めるように努めましょう。(KE)

この世に遣わされた者となり、主キリストに仕えるしもべとなるのです

7月5日

「そして、あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし、彼によって父なる神に感謝しなさい。」コロサイ3:17

 イエス様を信じて救われると、目に見える境遇が大変化するわけではありません。しかし、私たちの立っている場所が変わります。この世に遣わされた者となり、主キリストに仕えるしもべとなるのです。それぞれの家庭や職場、地域社会へキリストの名代としておかれています。私たちの一挙手一投足、全てがキリストの代わりにしていることを自覚しましょう。(KE)

人の思いわずらいはほとんど明日のこと将来のことばかりです

7月4日

「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」マタイ6:34

 人の思いわずらいはほとんど今のことではなく、明日のこと将来のことばかりです。どんなに苦しくつらくても、今その中にあるとき思いわずらいません。今の事態ですから、それに対処するのに手一杯です。しかし、次にどうなるか、ここから思いわずらいや心配、不安が生じます。こればかりはどんなに考えてもわかりません。明日をつくられるのは神様ですから。(KE)