徹底して神様のみ手に委ねたのです

1月6日

「しかしダビデはアビシャイに言った、『彼を殺してはならない。主が油を注がれた者に向かって、手をのべ、罪を得ない者があろうか』。」サムエル記上26:9

 ダビデは先王サウロに命を狙われていました。偶然にも敵対するサウロをうつ絶好の機会にあたって、部下は王を殺害しようとしました。ダビデは神様が任命したのだから、人の手によって事を計ってはならないと止めました。彼は神様を畏れる人でした。徹底して神様のみ手に委ねたのです。神様を信じるとはこのようなことではないでしょうか。(KE)

聖書は一貫して神様が私たちを愛しておられることを告白しています

1月5日

「主は彼の前を過ぎて宣べられた。『主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、』」出エジプト34:6

 聖書を通して語られる神様は戦好きな“軍神”ではなく、閻魔大王のような怖い神様でもありません。聖書は一貫して神様が私たちを愛しておられることを告白しています。まるで愛する恋人を慕うがごとく、“愛しているよ”と呼びかけておられます。その究極の愛を示したのがイエス様の十字架です。こんなにまで求めて下さる神様に無関心でいることができるでしょうか。(KE)

それでは決して心安らかになりません

1月4日

「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。」ヨブ22:21

 幸福とは物質的な豊かさや境遇に恵まれることではありません。心の平安です。平安を得ようと富や権力、地位や名誉を求めますが、それでは決して心安らかになりません。心の安心は造り主なる神様との関係によって生まれます。自分を絶対的なものとする限り神様を認めることができず、常に苛立ち、焦り、不信感に囚われて不安に駆られます。神様は十字架を立てて、赦しの手を差し伸べておられます。悔い改めて主に帰りましょう。(KE)

神様に立ち返り、悔い改めて救われることを願っておられるのです。

1月3日

「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」第二ペテロ3:9b

 神様の本意は人を裁き、滅びに陥れることではなく、なんとしても滅びる者がないようにとのことです。そのために最後の審判と言われる終末を遅らせておられるのです。その間に様々な事を通して神様に立ち返り、悔い改めて救われることを願っておられるのです。神様のみ思いを知って、新しい命に生きる者となり、滅び行く魂のためにとりなしてください。(KE)

私たちは主にお会いする準備ができているでしょうか

1月2日

「これらのことをあかしするかたが仰せになる、『しかり、わたしはすぐに来る』。アァメン、主イエスよ、きたりませ。」黙示22:20

 イエス様は弟子たちの見ている前で、携えられて天に戻っていきました。そのとき、御使が同じ有様で再び天から下って来られると伝えました。イエス様自身も「また来る」と語っています。それは終末のとき、主は裁く者として来られますが、私たちは主にお会いする準備ができているでしょうか。そのときがいつであるか分かりませんが、“主よ、速やかに来たりたまえ”と待ち望みましょう。(KE)

神様の約束が果たされるとは全く思われない中で信じ続けたことに尽きます

1月1日

「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。」ヘブル11:8

 2021年を迎えました。おめでとうございます。アブラハムは信仰の父と呼ばれる人物ですが、そう呼ばれるのは、置かれた境遇、与えられた条件など、どれを見ても神様の約束が果たされるとは全く思われない中で信じ続けたことに尽きます。世に残す大事業をしたわけではなく、ただ神様を信じ続けるだけの生涯、それを神様は喜んでくださったのです。(KE)

艱難や試練を通して、神様を知り、み心を悟るからです。

12月31日

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」詩篇119:71

 今年もいよいよ最後となりました。苦しみや不安、艱難を味わう一年であったと思います。不幸なことは人生にとってマイナスだと思いがちです。だから、「良い事」と言われると、意外に思います。しかし、艱難や試練を通して、神様を知り、み心を悟るからです。不幸な目にあうと、人は謙虚になり、自分の力の限界、弱さを知ります。またそのような境遇でなければ得られないものがあります。(KE)

創造者である神様の栄光を輝かせることです

12月30日

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」エペソ2:10a

 そもそも人は神様に造られたものであったのですが、造物主の意図に反して堕落し、制作者の面目を失わせてしまったのです。神様は古いものを全て取り払い、新しいものを作ろうとなさいました。イエス様の十字架とよみがえりを信じて生きるとき、その人は神様の新しい作品となるのです。新創造の目的は創造者である神様の栄光を輝かせることです。神様のみ心に従って生きることが、主の喜ばれることです。(KE)

必ず帰るべき永遠の住まいがあります

12月29日

「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。」第二コリント5:1

 私たちの地上での生活は一時的なものであって、旅先にあるようなものです。“幕屋”とはテントのこと、仮設の住まいです。そこにいつまでも滞在するものではありません。必ず帰るべき永遠の住まいがあります。そこは私たちの故郷であり、神様によって備えられた建物があります。そこが私たちの旅の目的地、ゴールです。(KE)

与えられた賜物を感謝して、主に喜ばれることを努めようではありませんか

12月28日

「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。」第一コリント12:27

 イエス様に救われた者たちは“キリストのからだ”というべき集合体の一員となったのです。からだには様々な働きをする肢体が備わっています。それぞれの役割、かたち、部位は全く違いますが、一つでも欠ければからだ全体が不調になります。救われた者たちも決して同じものはありません。比較したり、優劣を競うのは無意味です。それぞれが与えられた賜物を感謝して、主に喜ばれることを努めようではありませんか。(KE)