しもべのなすべきことは主人を喜ばせることです

7月2日

「主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。」ルカ12:47

 イエス様を信じた時から、私たちはイエス様に仕える“しもべ”となったのです。しもべのなすべきことは主人を喜ばせることです。ですから、私たちは常にそのことを心がけています。主人の心を知りながら従おうとしないしもべは、不忠実で怠惰なしもべと嫌われます。主は寛容で、慈愛に富んだ方ですが、だからといって軽んじ侮ってはなりません。心を引き締めて今日も主に仕えましょう。(KE)

イエス様の言いつけに全く従ったからです

7月1日

「母は僕たちに言った、『このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい』。」ヨハネ2:5

 カナの村の婚宴でぶどう酒が不足したとき、しもべ達はイエス様の指示に従い、水をくみ、料理頭のところへ持っていきました。ところが、それは最上のぶどう酒となっていました。驚くようなわざがなされましたが、その秘訣はしもべ達が母マリヤさんから命じられた通り、イエス様の言いつけに全く従ったからです。主のことばに従うとき、みわざが行われます。(KE)

義のゆえに「破れ口」に立ってとりなす者を求めているのです

6月30日

「わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。」エゼキエル22:30

 親は憎しみではなく愛のゆえに子供を叱るとき、ひどいことをしたいとは決して思いません。振り上げたこぶしを止めてくれるものを願っています。神様も同じくなんとしても許したいと願っていますが、義のゆえに「破れ口」に立ってとりなす者を求めているのです。あなたの一言の祈りが神様の怒りを消し去るのです。(KE)

苦難は人を謙遜にして深い自省の念に導きますが、それが過ぎると元にもどって高慢になります

6月29日

「るつぼによって銀をためし、炉によって金をためす、人はその称賛によってためされる。」箴言27:21

 “るつぼ”や“炉”は貴金属を高熱によって溶かして不純物を取り除き、純度をたかめるために使われます。人もまた同様に試練によって清められますが、人にとっての試練は苦しみや悲しみよりも物事が順調で得意満面のときです。確かに、苦難は人を謙遜にして深い自省の念に導きますが、それが過ぎると元にもどって高慢になります。しかし、称賛や順境はその人の本音を暴き出します。(KE)

神様の声に聴き従うとき、必ず「幸いを得る」のです

6月28日

「われわれは良くても悪くても、われわれがあなたをつかわそうとするわれわれの神、主の声に従います。われわれの神、主の声に従うとき、われわれは幸を得るでしょう。」エレミヤ42:6

 「良くても悪くても」従います。これこそ神様の手に委ねることです。良い事には従うが、悪い事には従えないというなら、選択決定権を自分が握って神様を軽んずることです。どんなことでも、神様の声に聴き従うとき、必ず「幸いを得る」のです。これは体験しなければ知り得ないことですから、決断をつけて主の声に従いましょう。(KE)

神様は眼光鋭く、心の隅々を知りつくされます

6月27日

「主は言われた、『この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである』。」イザヤ29:13

 二枚舌だとか、裏と表などといって、人は表面を繕って本音を隠し、事を計ろうとします。このやり方が神様にも通用すると思っているなら、とんでもない事です。神様は眼光鋭く、心の隅々を知りつくされます。真実とは表裏一体本心で勝負することです。神様に対する姿勢をしっかりと整えましょう。(KE)

「天にある」とは神様のものとして生きることを表しています

6月26日

「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。」ピリピ3:20

  人が本来帰属する場所を表すのが国籍です。「天にある」とはイエス様を信じる者がこの世のものとして生きるのではなく、神様のものとして生きることを表しています。もはやこの世の民ではなく、神様の民であって、この世に派遣されているのです。やがて、イエス様は私たちを御国にある故郷へ帰るようにと迎えに来て下さるのです。天のふるさとを望みつつ、今日も前進!(KE)

神様のわざはもっと日常的であり、身近なことです

6月25日

「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います。」詩篇92:4

 “神様のわざ”と言うと、不思議な現象や超自然的事態であると思われがちです。しかし、神様のわざはもっと日常的であり、身近なことです。私たちが元気に目覚め、当然のように営む生活のすべても、神様のわざです。まず、私たちの存在自体が神様のわざによるのですから、そのほかのことはもちろんのことです。人は勝手に良かった、悪かったと言いますが、私たちを楽しませるための御業です。(KE)

そこにはしっかりとした神様のみ思いが貫徹されています

6月24日

「主はそのみこころにかなう事を、天にも地にも、海にもすべての淵にも行われる。」詩篇135:6

 神様のみこころ、み思いはあまりに深く、その真意を知りつくすことができません。人の目に“どうして?”と見える事態や事柄でも、そこにはしっかりとした神様のみ思いが貫徹されています。神様は全宇宙、天にも地にもすべての事をみこころのままに導き、無駄がありません。今、あなたは最悪と思える状況にあっても、そこに御心にかなうことが行われていると信じるとき、その信仰に必ず応答してくださいます。(KE)

正しい価値観や倫理など、学校教育と違う訓練が必要です

6月23日

「むちを加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる。」箴言13:24

 幼児・児童虐待を勧めているように聞こえる昨今ですが、本当に子を愛するなら、自立して身を処する生活力を習得させるのは当然のことでしょう。それには幼いときからの家庭教育、正しい価値観や倫理など、教科教育(学校教育)と違う訓練が必要です。感情や情動によらず、神の愛に根差した親子の愛が家庭の土台になければ、虐待(溺愛をふくめて)の温床となります。(KE)