神様が見えないゆえ、勝手気ままに高慢不遜な生活をし必ず報われます

8月27日

「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」ガラテヤ6:7

 神様は目が見えないのでもなく、耳が聞こえないのでもありません。私たちに、神様が見えないゆえ、勝手気ままに高慢不遜な生活をするとき、有形無形、ことごとく知っておられて、信賞必罰、必ず報われます。罰せられると、神様は厳しい非情無慈悲な方とつぶやきますが、実は自業自得であって自分がまかなければ刈り取ることもないのです。神様をいつも意識して、御心に従うよう努めましょう。(KE)

神様を信頼しないがゆえに思いわずらうからです

8月26日

「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」マタイ6:31

 イエス様は繰り返しこのことを語っています。つまりは生活のこと、体のこと、命(肉体)のことで思いわずらうなと。神様は私たちが思いわずらうことを嫌われます。なぜなら、神様を信頼しないがゆえに思いわずらうからです。神様は私たちの「お父さん」ですから、子供になりきって信頼することが幸いです。人の親ですら、わが子に最善をしようとするではありませんか。(KE)

私たちにとって幸いと言えることも、不幸なことも、それもこれも神様のみこころによるのです

8月25日

「イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。」エレミヤ18:6b

 神様は全能者であり、万物の創造者であります。私たちの生活のすべてが神様の定められた道筋に従って動いています。それによって、神様はみこころを行っているのです。私たちにとって幸いと言えることも、不幸なことも、それもこれも神様のみこころによるのです。陶器師はそれぞれの目的にかなう器を造ります。同様に、私たちを神様の目的にかなうものにしようと、日々、わざを進めているのです。(KE)

「心砕け、へりくだる」者と共に住んでくださるのです

8月24日

「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす』。」イザヤ57:15

 神様は聖なる方、高き所におられるゆえ、私たち人間とはまったく次元が違ったものです。共に住むなど到底不可能なことです。しかし、ただ一つ、「心砕け、へりくだる」者と共に住んでくださるのです。ヨセフ・マリヤの謙遜のゆえに神様は共に居て下さったのです。(KE)

イエス様を信じると言いながら少し困難にあたると主を忘れています

8月23日

「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。」マルコ14:50

 イエス様が捕らえられたとき、それまで寝食を共にしてきた弟子たちは皆離れてしまい、イエス様は一人になりました。弟子たちを忘恩無情だと非難するのは簡単ですが、自分の身に置き換えると、容易に非難できません。今でも、イエス様を信じると言いながら、少し困難にあたると主を忘れています。まず自分自身の弱さ、狡猾さをしっかり知り、認めて、真実な者にしていただこうではありませんか。死に至るまで、忠実にイエス様に従いましょう。(KE)

荒野やさばくを変えて緑豊かな輝いたオアシスにするのは神様のわざです

8月22日

「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ』。」イザヤ40:3

 「荒野」「さばく」がどんなところか、実感がわきませんが、索漠として潤いのない不毛の地を想像します。それは私たちの心の風景でもあります。荒涼とした望みのない生活を送る私たちに、神様に対する姿勢、態度を整えるようにと呼びかけておられます。荒野やさばくを変えて緑豊かな輝いたオアシスにするのは神様のわざです。神様に働いていただくように、まず私たちの心と思いを神様へ向けましょう。(KE)

神様は涙ながらの祈りに答えずにおれません

8月21日

「引き返して、わたしの民の君ヒゼキヤに言いなさい、『…わたしはあなたの祈を聞き、あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやす。三日目にはあなたは主の宮に上るであろう』。」列王下20:5

 病気になって死にかかっていたヒゼキヤ王は激しく泣いて主に祈りました。その時、神様は心を変えて、預言者イザヤにこの言葉を語らせたのです。神様は「涙を見た」と言われます。神様は憐みに豊かな方です。涙ながらの祈りに答えずにおれません。私たちも主の慈愛と憐みを信じて、涙を流し祈ろうではありませんか。(KE)

ただ、一方的な恵みに感謝するほかないのです

8月20日

「彼は拝して言った、『あなたは、しもべを何とおぼしめして、死んだ犬のようなわたしを顧みられるのですか』。」サムエル下9:8

 ダビデ王は親友ヨナタンの遺族を恵もうと、彼の子メピボセテを探して王宮に住まわせ、王の食卓で食事をさせました。彼は自分を「死んだ犬」と譬えていますが、足が不自由で歩けませんでした。ダビデ王の破格の厚遇に彼は何も応える術がありません。ただ、一方的な恵みに感謝するほかないのです。神様の恵みもまたしかりです。神の子とされた私たちはどれほど感謝しているでしょうか。(KE)

神様を抜きにして生きる人生は真に楽しむことができません

8月19日

「だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。」伝道2:25

 人がこの世に生を受けたことすら、自分の計画やわざによるものではありません。神様なくしてあり得ない事です。しかし、人はそれを忘れて、自分の計画と力、知恵で生きているかのように思い違いをしています。神様を抜きにして生きる人生は真に楽しむことができません。食べることに代表される生活全般のために、艱難辛苦を耐え、重き荷を負うがごとく生きなければならないのです。あなたは心軽やかに今日の一日を生きていますか。(KE)

私たちが神様の怒りをうけるような態度をとっているのです

8月18日

「あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。」ローマ2:5

 神様は人を裁く冷血漢のごとく思われがちです。勿論、義なる方ですから、罪をいい加減になさいません。しかし、決して滅ぼそうというのではなく、私たちが神様の怒りをうけるような態度をとっているのです。“自業自得”とはこのことです。どんな小さな罪をも悔い改め、柔らかい心になってへりくだりましょう。主は豊かな赦しを与えてくださいます。(KE)