一旦事がおこると、怒り、妬み、悪心、思い煩いなど、様々な悪が湧き出て手に負えません

10月22日

「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」エレミヤ17:9

 心ほど当てにならない不確かなものはありません。“女こころと秋の空”などと言いますが、女性のみならず、すべて人の心は自分のものでありながら、自分ではどうにもできません。平穏無事で何事もない時には気がつきませんが、一旦事がおこると、怒り、妬み、悪心、思い煩いなど、様々な悪が湧き出て手に負えません。そのような心を治めるには神様の力によらなければできません。(KE)

私たちの浅知恵で理解できないのは当然です

10月21日

「主はそのみこころにかなう事を、天にも地にも、海にもすべての淵にも行われる。」詩篇135:6

 人の見るところ、思うことは限りあるもので、目先のことしかわかりません。一方、神様のご計画、み思い、なさる業は、広大無辺、私たちの到底及ぶものではありません。世界は神様のご支配の下で万物が動いています。ですから、私たちの浅知恵で理解できないのは当然です。私たちの周囲には不条理、不当、理不尽と思える事態や事柄が多々ありますが、そこにも主のみこころがあり、人知を越えた業があるのです。(KE)

命を守るものはみ言葉です

10月21日

「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。」ルカ21:33

 宇宙から帰還する宇宙船は大気圏に突入すると、高温の火炎に包まれた火の玉になります。しかし、特殊なタイルで保護されているので火に焼かれず、乗員も安全に守られます。み言葉はまさに宇宙船のようなもので、それにより頼む私たちは滅びることなく、安全が保障されているのです。多くの人は緊急時に備えてあれこれ方策を立てますが、大地震や津波が来れば一瞬にして消えてしまいます。命を守るものはみ言葉です。(KE)

私たちもイエス様によって生きるのでなければ命がありません

10月19日

「すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。」マルコ1:18

 イエス様の弟子たちは辺境の地、ガリラヤ湖畔の漁師たちです。イエス様が彼らを招かれると、即座に従いました。「網」を捨てるとは彼らにとって命の源を絶つことにほかなりません。イエス様に命を懸けたのです。それはまたこの世の肉の糧による生活ではなく、天から与えられる命のパンによって生きる者となることです。私たちも同様にイエス様によって生きるのでなければ命がありません。肉は人を生かすことができないからです。(KE)

「主のために」「主のもの」となりきるのです。具体的な生活のありようが自ずから変わります。

10月18日

「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」ローマ14:8

 イエス様を信じて生きる時、生きる目的が変わります。かつてはすべてが自分を中心に回っていましたが、イエス様の十字架によって新しい命に生きるものとなりました。「主のために」「主のもの」となりきるのです。そうすると、具体的な生活のありようが自ずから変わります。自分の利益を求めず、人の毀誉褒貶に動かされない、真に自由な生き方になります。(KE)

人は被造物であり、どのような取り扱いを受けても当然です

10月17日

「なにゆえあなたはわたしを胎から出されたか、わたしは息絶えて目に見られることなく、胎から墓に運ばれて、初めからなかった者のようであったなら、よかったのに。」ヨブ10:18-19

 これはヨブの言葉ですが、これほど絶望的な嘆きはありません。長い人生のなかで、人はかならずこのような心境に落ち込みます。確かに、その思いは理解できますが、そこに神様の主権、絶対者に逆らおうとする自我の力が働いています。所詮、人は被造物であり、どのような取り扱いを受けても当然です。今あるは神様の慈しみ、憐れみです。(KE)

「よいこと」であっても、それをすべきかどうか主に問う事がなによりも大切です

10月16日

「ダビデが重ねて主に問うたところ、主は彼に答えて言われた、…」サムエル上23:4

  ダビデはサウル王に命を狙われ、逃亡しているとき、ケイラの村が敵に襲われて助けを求められたのです。彼がまずしたことは「主に問う」ことです。自分のいのちも危ういとき、人助けができる状態ではありません。また、常識的に「よいこと」であっても、それをすべきかどうか主に問う事がなによりも大切です。彼は確信が得られるまで繰り返し主に問います。人の言葉、世の習い、自分の損得、欲得に動かされず、主に問うてください。(KE)

自分はどこにも不義(罪)はないと言い張ることがまさに罪そのものです

10月15日

「しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」ヨハネ9:41b

 生まれながらの盲人が、イエス様の言葉に従い、シロアムの池に行って洗ったとき、目が見えるようになりました。当時の宗教家たちはそれが安息日であったことを口実に、自分たちを義なる者としてイエス様を不義なる者と非難したのです。自分はどこにも不義(罪)はないと言い張ることがまさに罪そのものです。人は誰一人「義人」はいません。自らのうちにある不義、罪咎を認めて、イエス様の言葉に従うことが救いです。(KE)

イエス様は十字架の死を目前にして、これこそ自分の生きる道であることを確信しました

10月14日

「しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。」ヨハネ12:27c

 人はしばしばこんなはずではなかったと、今ある状態を嘆きますが、別の道を選べばよかったかと言えば、それは単なる空想にすぎません。今、現在の私たちはそれがどんな状況であっても、これ以外にありえないのです。神様がそのように導いておられるからです。イエス様は十字架の死を目前にして、これこそ自分の生きる道であることを確信しました。私たちも与えられた今の状態を神様からのものであると信じて感謝しましょう。(KE)

神様の存在を認め、神様を畏れて、尊び敬うことを取り戻さねばなりません

10月13日

「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった。善を行う者はない。」詩篇53:1

 神無き世界は無秩序と混とんが満ちて、倫理も道徳も、神様の作品としての人の尊厳も失われてしまいます。その結果、悪がはびこり、暴虐が世に満ちて、罪の支配するところとなります。それは社会的な現象にとどまらず、個人の心の中にまで及びます。現代はまさにそのような時代ではないでしょうか。まず、神様の存在を認め、神様を畏れて、尊び敬うことを取り戻さねばなりません。(KE)