神様は私たちが自ら主に打ち明けることを待っておられます

6月12日

「わざわいなるかな、おのが計りごとを主に深く隠す者。彼らは暗い中でわざを行い、『だれがわれわれを見るか、だれがわれわれのことを知るか』と言う。」イザヤ29:15

 神様は人の目に見えません。まるで存在しないかのようです。そのため、人は神様を侮り、自分の思いのままに事を進めようとします。神様はすべてお見通しですが、私たちが自ら主に打ち明けることを待っておられます。ご存じだから、言わなくてもわかるだろうというのは神様を軽んずることです。神様は今日もあなたに目をとめておられます。(KE)

自分は頼りがいのあるものだといえますか

「主 に寄り頼むは人にたよるよりも良い。主に寄り頼むはもろもろの君にたよるよりも良い。」詩篇118:8-9

 神様は鼻から息の出入りするものに頼るなと言われます。まさに人ほど頼りないものはありません。まずは自分を省みてください。自分は頼りがいのあるものだといえますか。ましてや他人ならばいよいよ頼りないものです。だから人に頼っても役に立ちません。権力者や実力者と言われる「もろもろの君」も、所詮人であり、栄枯盛衰を繰り返しているのです。永遠に変わらず不動のものは神様以外にありません。(KE)

分岐点は、絶対者なる神様を畏れる心が有るか無いかによります

6月10日

「このアハズ王はその悩みの時にあたって、ますます主に罪を犯した。」歴代下28:22

 人の真贋が明らかになるのは悩みにあったときです。悩みによって自分を省み、神様の前に歩みを正しくするのか、それとも自暴自棄に落ちて、“毒を食らわば皿まで”とばかりにますます荒んだ生活になるのか、どちらかになります。その分岐点は、絶対者なる神様を畏れる心が有るか無いかによります。アハズ王は神様をないがしろにして、神殿を破壊し、偶像に香をたくなどしました。その末路はあわれです。神様を畏れる者となってください。(KE)

この世を忘れて、主に仕えることを願っています

6月9日

「娘よ、聞け、かえりみて耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家とを忘れよ。」詩篇45:10

 イエス様の救いを受けた状態を花婿と花嫁に例えています。花婿はイエス様、花嫁は私たちです。かつては、花嫁は自分の実家や両親・兄弟を忘れて、花婿の家風に染まるようにと、白い衣装を纏いました。イエス様の花嫁である私たちは、何とかして花婿の性質・性情に似るように、この世を忘れて、主に仕えることを願っています。身辺多様な問題の連続ですが、神様のわざにすっかり委ねて参りましょう。必ず、結果が出ます。(KE)

さまざまな不安や心配は造り主なる神様を忘れた結果です

6月7日

「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。」マタイ6:26

 人は万物の霊長などと自慢しますが、実際の生活ぶりはその言葉とは程遠いものです。常に、さまざまな不安や心配など、心をかき乱されて、ひと時も安心がありません。それは造り主なる神様を忘れた結果です。自分の力と知恵で生きていると思いあがるのは罪です。主はすべての必要を満たして下さいます。(KE)

それは神様がさせて下さって、必要を備えてくださったからです

6月7日

「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。」詩篇127:1

 家を建てるにも、町を守るにも、人の力と努力によるものだと思っています。しかし、人のわざに見えますが、実はその背後に神様の導きと許しがあります。どんなこともすべて、神様の支配のもとにあるのであって、人は何もなしえないのです。できるとしたら、それは神様がさせて下さって、知恵も知識も、財も時間も、必要を備えてくださったからです。(KE)

それは神様に抗う自分があるからです

6月6日

「わたしの生れた日はのろわれよ。母がわたしを産んだ日は祝福を受けるな。」エレミヤ20:14

 大人も子供も自分の誕生日を祝うのはうれしい事です。“おめでとう”と祝福を受けます。しかし、そう言える人ばかりではありません。み言葉のように自らの出生を厭い、呪うとはまことに不幸の極みです。それは神様に抗う自分があるからです。確かに、筆舌に尽くしがたい困難や苦しみに遭うと、そう思うのも無理からぬことでしょうが、神様の摂理を信じ、この世に生を与えた方を尊び敬うことが、人としての道です。(KE)

自分を神様の下に置くとき、すべてが適材適所にはめられて順調に進みます

6月5日

「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。」イザヤ55:8

 神様と人との関係は創造者と被造物であって、両者は決して同じ平面に立つことができません。神様は絶対的に上なる方であり、私たちは下にあるものです。この秩序が崩れると、様々な不都合なことが生じてきます。常に、自分を神様の下に置くとき、すべてが適材適所に嵌(は)められて順調に進みます。神様の思い、道が私たちの人生に貫かれるとき、価値ある人生となります。(KE)

それは神様を畏れない結果です

6月4日

「恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。」ルカ12:5ab

 人は「恐れ」に囚われると、弱くなり、想像できない醜態を見せます。それは神様を畏れない結果です。どんなことも神様によらないものはありません。この言葉に続いて、すずめ一羽ですら神様のゆるしなく、地に落ちることはないと言われています。まさに神様の支配にあり、この方こそ万物を裁かれる方です。まず、恐れるべきものを恐れるとき、他のものを恐れなくなります。(KE)

救いを完成させるのは神様です

6月3日

「主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。」第一コリント1:8

 神様の救いは完全なものですから、ひとたび救われた者を必ず完成させてくださいます。人は自分の力やわざで救いを完成することができません。それをなさるのは神様です。私たちのなすべきことは、ただ主のみことばを信頼して、御霊の導きに従う事を努めるだけです。これはぼんやりしていてはできません。常に自覚して、励むことが大切です。(KE)