10月12日
「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。」エレミヤ15:16ab
聖書の言葉、み言葉は覚えるものではなく、食べるものです。私たちの日々食べる食物は鑑賞して楽しむものではなく、食べて活力にするためです。同様に、み言葉は信じて生活の隅々に浸透させるとき、言葉は消えてもその中にあるいのちと力が具体的な行動や言動、思考や態度に現れてきます。そのとき、み言葉が喜びや楽しみをもたらします。(KE)
10月12日
「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。」エレミヤ15:16ab
聖書の言葉、み言葉は覚えるものではなく、食べるものです。私たちの日々食べる食物は鑑賞して楽しむものではなく、食べて活力にするためです。同様に、み言葉は信じて生活の隅々に浸透させるとき、言葉は消えてもその中にあるいのちと力が具体的な行動や言動、思考や態度に現れてきます。そのとき、み言葉が喜びや楽しみをもたらします。(KE)
10月11日
「また彼らに言われた、『聞くことがらに注意しなさい』。」マルコ4:24a
現代は情報社会と言われています。真贋を問わず、多量の情報があふれていますから、気づかないうちに聞いています。人の心は磁石のようなもので、いろんな情報を引き付けてしまうのです。その結果、聞いたことに支配され、心のしなやかさを失い、堅くなってしまいます。だから、聞いたり見たり読んだりすることがらに十分注意しなければなりません。心に取りついた言葉や情報はパンだねのように膨らんできて、平常心を失わせます。(KE)
10月10日
「神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか。」使徒26:8
キリスト教にとってつまずきの石と言われることの一つは、イエス様の復活です。死人がよみがえったなどと言うから信じられないと、多くの人は言います。しかし、人のすることではなく、神様がなさるのですから、できないことはありません。神様を信じるなら、当然、イエス様を死からよみがえらせることだってありえるのではないでしょうか。問題は何を信じるかです。(KE)
10月9日
「見よ、わたしはあなたを練った。しかし銀のようにではなくて、苦しみの炉をもってあなたを試みた。」イザヤ48:10
試練や困難を好む人はいません。それが無ければよほど楽に違いないと思いますが、しかしそうなると人は成長することができません。不純物を取り除いて、純金を得るには炉の中で溶かされ、精錬されます。高温の炎で吹き清められることが不可欠なのです。神様は私たちのうちにある宝が埋もれたまま失われることのないよう、恵みのわざを備えておられるのです。(KE)
10月8日
「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。」マタイ10:29
すずめほどありふれた値打ちの無い鳥はいません。そのような小さな存在にも神様のみこころがなされているのです。ましてや私たちに対して神様は最大の関心を払っておられます。神様の許しがなければどんなこともなしえません。また、神様のみこころであればできない事はありません。(KE)
10月7日
「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」ヨハネ6:63
肉体を生かすいのちは朽ちていくものです。人生の様々な境遇にあって、生きる喜びや望み、感謝や平安などを与えてくれる真のいのちこそ、イエス様です。主のことばはイエス様のよみがえりの命と霊を与えてくれます。心に響くみ言葉を握って、信じていくとき、周囲の状況がどんなであっても、いのちの輝きを持ち続けることができます。(KE)
10月6日
「人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。」ヤコブ1:20
人は感情の動物とも言われます。怒りは激情の発露で、生きている限り避けることができませんが、ただ、己の義を振りかざして、神様に成り代わる怒りはサタンのわざです。私たちに求められているのは、神様の裁きに委ねて、神様の報いを待ち望むことです。不当な苦しみを受けても、正しい裁きをなさる方に一切を委ねたイエス様にならって、神様の義を求めようではありませんか。それによって神様のみわざがなされるのです。(KE)
10月5日
「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。」エレミヤ33:3
神様は私たちに“求めよ”“祈れ”と繰り返し語っておられます。かつては神様と人とは直接交わることが許されませんでした。しかし、イエス様のご犠牲のゆえに、いつでもどこででも、直接呼び求めることができるのです。これはなんと幸いな恵みでしょうか。神様がこのように勧めて下さるのですから、遠慮なく、躊躇せず、神様に呼び求めようではありせんか。答えてくださいます。(KE)
10月4日
「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」イザヤ43:19
人は自分で理解し納得する範囲のことしか考えることができません。一方、神様はそのような人の思惑を超えていろんなことを起こされます。自分の想像を超えているために、神様のわざを拒み、恐れや不安をいだきますが、自分の殻を打ち破って、神様のわざを信じるのが信仰です。愛なる神様のご計画は私たちにとって最善にして最高のものです。(KE)
10月3日
「そこでイエスは言われた、『あなたも行って同じようにしなさい』。」ルカ10:37b
強盗に襲われた瀕死の人を助けたサマリヤ人の譬え話をとおして、イエス様は同じようにせよと言われます。とかく人は高尚な説をとくのは熱心ですが、多くの場合、それを実行するとなると見る影もありません。何事も実行には多少とも自己犠牲を伴います。犠牲を伴わない発言は偽善です。有言実行は信仰においても不可欠です。みことばを聞くだけ、語るだけに終わらせず、自分の足で歩いたところが自分のものとなるのです。(KE)