あばら家に住もうと、心が満ち足りて燃えているなら、天国の生活です

「たとい人は百人の子をもうけ、また命長く、そのよわいの日が多くても、その心が幸福に満足せず、また葬られることがなければ、わたしは言う、流産の子はその人にまさると。」伝道6:3

 人の幸・不幸は物の豊かさや、恵まれた境遇などによるものではありません。山海の珍味を食べ、豪華絢爛たる豪邸に住もうと、心に満足がなければ地獄も同然です。また、その日暮らしで寒風吹き抜けるあばら家に住もうと、心が満ち足りて燃えているなら、天国の生活です。与えられた状況・境遇に満足する心は神様の愛に満たされるときです。(KE)

謙遜になり、御心にしたがったとき、「恵まれた女」となったのです

8月16日

「御使がマリヤのところにきて言った、『恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます』。」ルカ1:28

 神様の御子であったイエス様が世に降り、人となった目的は、私たちの罪を清め、神様と共に生きる者とするためです。マリヤさんはとんでもない事態に引き込まれましたが、主が共におられることの恵みを体験させられました。マリヤさんが共におられる神様は「なんでもできないことはない」全能者であることを認めて、謙遜になり、御心にしたがったとき、「恵まれた女」となったのです。あなたもこの恵みを得て下さい。(KE)

怒りや憤り、失望や落胆を繰り返すのは神様への怒りです。

8月15日

「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。」ヨブ22:21

 人が不安になり、苛立ち、わけのわからない焦燥感に悩み、怒りや憤り、失望や落胆を繰り返すのは、心の奥にある闇がなせるわざです。根本の原因は造物主なる神様への怒りです。周囲の事情・境遇を変えてみても、そこから逃れることができません。自分を義なる者とする自我が底岩のように頑強に神様を押しのけているからです。神様の前にへりくだって、罪を悔い改め、主の十字架による和解を信じるとき、全き平安が得られます。(KE)

私たちの日々の生活も神様の御手によるものですから、不思議があって当然です

8月14日

「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」イザヤ43:19

 人のすることはどんなに新しいといっても、どこかに古いものを引きずっています。しかし、神様のわざは破天荒なものです。「荒野に道」、「さばくに川」というように、人知を越えた事態です。私たちの日々の生活も神様の御手によるものですから、不思議があって当然です。後ろを振り返らず、備えられた未知の領域へ踏み出しましょう。そこに祝福と恵みがあります。(KE)

それはイエス様の十字架の死を自分の死であると信じた結果です

8月13日

「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。」第二コリント4:8-9

 使徒パウロはよみがえったイエス様を信じることで、それまでの自分と違う新しい命に生きる者となりました。それはイエス様の十字架の死を自分の死であると信じた結果です。だから、生きているのはオマケの人生であり、イエス様の命に生かされていると信じました。それがこの言葉のようにどんなことにも動じない、タフな生きざまとなったのです。あなたはいかがですか。(KE)

望みも、喜びも、平安もなく、つぶやきと苛立ち、憤りと不安や焦りに囲まれています

8月12日

「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」ヨハネ1:9

 かつてギリシャの哲学者が輝く太陽のもと、提灯を灯して「暗い、暗い」と言いながら街中を歩いたとの故事があります。彼は人の心の闇を指摘したのでしょう。現代も闇に覆われた時代ではないでしょうか。物質的な豊かさを誇り、きらびやかな光に満ち、どこにも暗闇などないように見えますが、望みも、喜びも、平安もなく、つぶやきと苛立ち、憤りと不安や焦りに囲まれています。この闇を取り除くには「光」が必要です。イエス様こそ、この光です。(KE)

心が頑なになったとき、出来るだけ早く素直に忠告を聞き入れ、すぐに心をかえることが大切です

8月11日

「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい。」ヘブル3:13

 心が頑なになるとき、そのきっかけは実にたわいもない、面子やプライドなど、小さなことではじまります。そこから争いや対立、憎しみ合うことになってとんでもない結果を招きます。それはまさに罪のしわざです。そうならないために、心が頑なになったとき、出来るだけ早く素直に忠告を聞き入れ、すぐに心をかえることが大切です。遅くなると厄介です。(KE)

私たちに最善の事を思い図ってくださるのです

8月10日

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」ピリピ4:6

 思いわずらうとき、私たちが神様を忘れているときです。神様は私たちのお父さんですから、子供である私たちが喜んで、望みに輝いていることを願っているばかりか、独り子の命すら惜しまないほどに愛しておられるので、私たちに最善の事を思い図ってくださるのです。“祈れ”“求めよ”と勧めてくださいます。このような素晴らしい宝を腐らせてはなりません。(KE)

弱さや疲れを覚えるとき、エネルギーの源なる神様に求めようではありませんか

8月9日

「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」イザヤ40:31

 私たちは神様から与えられたもので生きているに過ぎません。燃料の切れた車は単なる箱であって、無用の長物です。同様に、神様からあらゆる力が供給されなければ何もできない無力なものです。弱さや疲れを覚えるとき、エネルギーの源なる神様に求めようではありませんか。主は求める者に惜しみなく力を注いでくださいます。(KE)

イエス様を信じる私たちは孤独ではなく、見えない主が私たちの内に宿っておられます

8月8日

「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」第二テモテ2:8

 “福音”とは“良きおとずれ”ですが、それはイエス様ご自身のことです。イエス様は私たちの罪の犠牲として神様の呪いを受け、死んでくださいました。しかし、よみがえって、いつもどこにでも私たちと共に居て下さるのです。イエス様を信じる私たちは孤独ではなく、見えない主が私たちの内に宿っておられます。今日もこの方と語らい、交わり、問いかけ、聞きつつ生きるのです。(KE)