私たちの心の姿は命が消えかけた状態です

5月29日
「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ』」。イザヤ40:2

 荒野、砂漠など、受ける印象は決して好ましいものではありません。無味乾燥、潤いもない、生命の乏しいところでしょう。これは私たちの心の姿です。情熱は失せ、愛は冷ややかになり、生きる命が消えかけた状態です。しかし、万物の創造者、全能の神に対する姿勢を整えて、神様を尊び、敬うとき、命が輝き、生きる喜びがあふれてきます。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 24章

マタイによる福音書20章

み言葉を共に味わうことは幸いなことです

5月28日
「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました」。エレミヤ15:16ab

 今日も主のみ言葉を与えられ、共に味わうことは何と幸いなことでしょうか。預言者エレミヤは読むだけではなく、御言葉を食べたのです。私たちもただ読むだけではなく、心の碑に刻むとき、喜びとなり、楽しみとなるのです。世には様々な楽しみがありますが、御言葉が与えてくれる喜びや楽しみほど純度の高いものはありません。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 23章

マタイによる福音書19章

道を備えて歩ませてくださるのは神様です

5月27日
「主よ、わたしは知っています、人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることができないことを」。エレミヤ10:23

 人は成長するにつれて、支えていたものが外れて、独り立ちしていきます。そうなると、自分の日々の歩みは自分で選び、決めるものだと思い上がってしまいます。見えるところは自立のようですが、決してそうではありません。ものみな生かし、道を備えて歩ませてくださるのは神様であって、自分ではないことをはっきりさせておきましょう。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 22章

マタイによる福音書18章

主を求めるのは、幸いなことでしょう

5月26日

「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ」。詩篇42:1

 手負いの鹿は最後の水を求めて、危険をもいとわず流れを捜すと言われます。それほどの渇きをもって、主を求めているでしょうか。片時も離れることができないほどの渇望を抱いて、主を求めるならばどんなに幸いなことでしょう。憂鬱な心、無気力な心、何も楽しめない心を癒し、活力を与えてくれるものは、御言葉を通して注がれる主の命です。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 21章

マタイによる福音書17章

どのように実現されるのか分かりません

5月25日

「そして言った、『わたしは、そこに行ったのち、ぜひローマをも見なければならない』」。使徒19:21b

 パウロはローマに出かけて福音を語りたいと願っていました。ただ、それがどのように実現されるのかまったく分かりません。彼はエルサレムで捕らえられ、カイザリヤの地で軟禁されてしまいます。到底、ローマどころではありません。しかし、ローマ市民として皇帝カイサルによる裁判を求めて上訴し、その結果、囚人としてローマへ護送されたのです。神様のみわざは想像を超えたものだと痛感します。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 20章

マタイによる福音書16章

彼らのように主に仕える道があります

5月24日
「キリスト・イエスにあるわたしの同労者プリスカとアクラとに、よろしく言ってほしい」。ローマ16:3

 使徒パウロは「ローマ人への手紙」の最後16章にまるで映画の終りに流れるエンドロールのように、多くの人の名が記されています。そのうちの夫妻アクラとプリスカの名を初めに記して、感謝を表しています。彼らはローマで迫害に会い、コリントに来ていた時、パウロと出会い、彼の伝道活動を支援しました。直接伝道できなくても、彼らのように主に仕える道があります。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 19章

マタイによる福音書15章

背後に神様の御手があったのです

5月23日
「ペテロはついて出て行った。彼には御使のしわざが現実のこととは考えられず、ただ幻を見ているように思われた」。使徒12:9

 ペテロは捕らえられて獄屋の奥深くに閉じ込められました。厳重な警戒がされた中、彼を助けるものがいました。聖書はそれを「御使のしわざ」と語っています。恐らく、彼を救おうとする人々がいたのでしょうが、その背後に神様の御手があったのです。そこに霊が働きます。人のわざではなく、主のなさる事と信じる。今日、あなたに主が遣わされる御使いはどなたでしょう。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 18章

マタイによる福音書14章

神様をまことに小さなものとしています

5月22日
「イスラエルの神、救主よ、まことに、あなたはご自分を隠しておられる神である」。イザヤ45:15

 神様は目に見えず、声も聞こえません。それゆえ、主の存在を信じるほかありません。もし、見たり聞いたりできるならば、そのことに捉われて、神様をまことに小さなものとしてしまいます。人の五感を通して理解し尽くせるような神様であれば、信頼するに足りません。私たちには見えず聞こえずですが、神様はあなたを今日も見守って導かれます。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 17章

マタイによる福音書13章

人は自分の力を誇示する者となりました

5月21日
「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた」。イザヤ43:7

 神様が私たちを創造されたのは、わたしたちが満足するためではありません。神様はご自分の栄光のため、その偉大さを表そうと造られたのです。しかし、すべての人は神様の栄光を奪い取って、自分を誇り、自分の力を誇示する者となりました。それは神様への反逆の大罪です。神様を畏れて、主に栄光をお返しし、あなたの生き様を通して神様を証してください。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 16章

マタイによる福音書12章

命が溢れる沃野に変えることができます

5月20日
「わたしは、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れをそそぎ、わが霊をあなたの子らにそそぎ、わが恵みをあなたの子孫に与えるからである」。イザヤ44:3

 神様の為さることをすべて推し量ることはできません。神様は人の計画や思いをはるかに超えた事をなさるからです。しかも神様は荒涼とした不毛の地である私たちの心を、命が溢れる沃野に変えることができます。神様の霊が宿るからです。(KE)

今日の通読箇所

歴代志 下 15章

マタイによる福音書11章