神様の側にたつとき、いのちと平安が与えられます

12月28日

「なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」ローマ8:5-6

 「肉」と「霊」と言われていますが、肉とは神様に反する力であり、霊とは神様の側に立つ思いです。両者は相反する存在で、私たちが神様を知らず、認めず生きていた時代は肉の生活です。今は肉にありながらも、神様の霊、御霊が宿っておられるので、霊に生きていると言えます。神様を抜きにした生活は命を失ったものであり、神様の側にたつとき、いのちと平安が与えられます。(KE)

生きる目的は神様がなそうとされる創造のわざが滞りなく完成されるよう努めることです

12月27日

「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた。」イザヤ43:7

 人が生きる目的は神様の栄光のためです。しかもその目的を達成されるのは神様であって、私たちではありません。私たちはただ目の前の一歩、今日の一日を神様に導かれ備えられたものと信じて歩むだけです。ですから、生きる目的は神様がなそうとされる創造のわざが滞りなく完成されるよう努めることです。具体的な結果はどうなるのかわかりませんが、今日も主のわざによることを信じましょう。(KE)

あまりに身近なので大切さがわからなくなっているのではないでしょうか

12月26日

「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。」使徒17:28a

 神様は私たちと離れて存在する方ではありません。一番密接な関係である家族すら、隔たりがあります。しかし、神様はまさにすぐそばに、否、神様のうちに生活しているのです。私たちは大気に包まれて生きていますが、そのように神様は私たちの命にかかわる存在であります。あまりに身近なので大切さがわからなくなっているのではないでしょうか。意識するとしないとに係わらず、今日も命を注いでみ手に握って持ち運んでおられます。(KE)

信じるほかない道を備えられたのですから

12月25日

「彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。」イザヤ53:2

 色とりどりの電飾に華やぐ世間のクリスマスと違って、イエス様は貧しいものとなり、家畜小屋の桶に寝ている幼子となって世に来てくださったのです。誰一人、それが神のみ子、救い主であることに気がつきません。まさにこれこそ神様らしいわざと言えるのではないでしょうか。人の思いと期待を裏切って、信じるほかない道を備えられたのですから。(KE)

あなたは主を心のどこに置こうとしているのでしょうか

12月24日

「初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。」ルカ2:7

 イエス様のご降誕にまつわる記事には、主に対するこの世の態度が象徴的に語られています。この言葉もその一つです。「余地がない」とは、イエス様を神様から遣わされた救い主と信じられない人の姿です。何にもまして、真っ先に迎えるべきかたでありながら、他のものが優先されているのですから。あなたは主を心のどこに置こうとしているのでしょうか。余地はつくるものです。(KE)

苦しみを通して神様を敬い尊ぶことを学んだのです

12月23日

「『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。」ヨブ42:3

 どんなに人が知者だと言っても、神様の知恵、知識に勝る人はいません。それを知りながらも、自分の知り得ることが最善にして最高のことだと誇り、理解できないことに不平不満をいだき、いらだちます。ヨブは塗炭の苦しみを通して神様を敬い尊ぶことを学んだのです。自分の無知を認め、知者である神様にゆだねること、これが人の生き方です。(KE)

私たちもイエス様が示しておられる望みを持つことができます

12月22日

「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」ヨハネ16:33bc

 生きている限り「なやみ」がなくなることはありません。しかし、悩みがあっても、それを超えて望みを持つことができれば、悩みも苦にならないでしょう。イエス様は悩みや苦しみを通りぬいて「死」の闇にも光があることを復活によって表してくださいました。イエス様を信じて生きるとき、私たちもイエス様が示しておられる望みを持つことができます。もはやどのような悩みも困難も希望への入り口となります。(KE)

神様が受けられるいけにえは「砕けた魂」です

12月21日

「わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもってそのみ前に行くべきか。」ミカ6:6

 神様を礼拝するにあたって、人はなんらかの犠牲を払って恭順の思いを表すことが求められます。しかし、どのような捧げ物が喜ばれるかわかりません。おそらく、自分の身体を祭壇に捧げようとも、穢れた値打ちのないものを神様は喜ばないでしょう。神様が受けられるいけにえは「砕けた魂」と詩篇にあります。砕けた悔いた心となり、その心から捧げられたものこそ貴いものです。(KE)

むしろ主に喜ばれることに精力を尽くします

12月20日

「すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。」第一コリント6:12

 私たちはキリストに従う以外に、なにものにも支配されません。だからと言って、気ままで放縦になることではなく、むしろ主に喜ばれることに精力を尽くします。それこそが本当の意味での自由だからです。人は常に何かにすがりますし、なにが益になるかも知り得ません。ゆえに、ただイエス様にすがり、知恵を与えてもらうのです。(KE)

信仰に立つとは自分をこえた領域に踏み出すことです

12月19日

「イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』。」ヨハネ20:29

 私たちは目で見て、耳で聞き、手で触りなど、五感を通していろんな事象を理解し、納得しようとします。その結果、わからないこと、理解できないことを出来るだけ排除します。自分が確かだと言えないものは信じようとしません。信仰に立つとは見えない世界、理解を越えた世界、自分をこえた領域に踏み出すことです。ただ、めくらめっぽうにではなく、神様のことばを信じて未知の世界へ踏み出すのです。(KE)