私たちもイエス様によって生きるのでなければ命がありません

10月19日

「すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。」マルコ1:18

 イエス様の弟子たちは辺境の地、ガリラヤ湖畔の漁師たちです。イエス様が彼らを招かれると、即座に従いました。「網」を捨てるとは彼らにとって命の源を絶つことにほかなりません。イエス様に命を懸けたのです。それはまたこの世の肉の糧による生活ではなく、天から与えられる命のパンによって生きる者となることです。私たちも同様にイエス様によって生きるのでなければ命がありません。肉は人を生かすことができないからです。(KE)

「主のために」「主のもの」となりきるのです。具体的な生活のありようが自ずから変わります。

10月18日

「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」ローマ14:8

 イエス様を信じて生きる時、生きる目的が変わります。かつてはすべてが自分を中心に回っていましたが、イエス様の十字架によって新しい命に生きるものとなりました。「主のために」「主のもの」となりきるのです。そうすると、具体的な生活のありようが自ずから変わります。自分の利益を求めず、人の毀誉褒貶に動かされない、真に自由な生き方になります。(KE)

人は被造物であり、どのような取り扱いを受けても当然です

10月17日

「なにゆえあなたはわたしを胎から出されたか、わたしは息絶えて目に見られることなく、胎から墓に運ばれて、初めからなかった者のようであったなら、よかったのに。」ヨブ10:18-19

 これはヨブの言葉ですが、これほど絶望的な嘆きはありません。長い人生のなかで、人はかならずこのような心境に落ち込みます。確かに、その思いは理解できますが、そこに神様の主権、絶対者に逆らおうとする自我の力が働いています。所詮、人は被造物であり、どのような取り扱いを受けても当然です。今あるは神様の慈しみ、憐れみです。(KE)

「よいこと」であっても、それをすべきかどうか主に問う事がなによりも大切です

10月16日

「ダビデが重ねて主に問うたところ、主は彼に答えて言われた、…」サムエル上23:4

  ダビデはサウル王に命を狙われ、逃亡しているとき、ケイラの村が敵に襲われて助けを求められたのです。彼がまずしたことは「主に問う」ことです。自分のいのちも危ういとき、人助けができる状態ではありません。また、常識的に「よいこと」であっても、それをすべきかどうか主に問う事がなによりも大切です。彼は確信が得られるまで繰り返し主に問います。人の言葉、世の習い、自分の損得、欲得に動かされず、主に問うてください。(KE)

自分はどこにも不義(罪)はないと言い張ることがまさに罪そのものです

10月15日

「しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」ヨハネ9:41b

 生まれながらの盲人が、イエス様の言葉に従い、シロアムの池に行って洗ったとき、目が見えるようになりました。当時の宗教家たちはそれが安息日であったことを口実に、自分たちを義なる者としてイエス様を不義なる者と非難したのです。自分はどこにも不義(罪)はないと言い張ることがまさに罪そのものです。人は誰一人「義人」はいません。自らのうちにある不義、罪咎を認めて、イエス様の言葉に従うことが救いです。(KE)

イエス様は十字架の死を目前にして、これこそ自分の生きる道であることを確信しました

10月14日

「しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。」ヨハネ12:27c

 人はしばしばこんなはずではなかったと、今ある状態を嘆きますが、別の道を選べばよかったかと言えば、それは単なる空想にすぎません。今、現在の私たちはそれがどんな状況であっても、これ以外にありえないのです。神様がそのように導いておられるからです。イエス様は十字架の死を目前にして、これこそ自分の生きる道であることを確信しました。私たちも与えられた今の状態を神様からのものであると信じて感謝しましょう。(KE)

神様の存在を認め、神様を畏れて、尊び敬うことを取り戻さねばなりません

10月13日

「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった。善を行う者はない。」詩篇53:1

 神無き世界は無秩序と混とんが満ちて、倫理も道徳も、神様の作品としての人の尊厳も失われてしまいます。その結果、悪がはびこり、暴虐が世に満ちて、罪の支配するところとなります。それは社会的な現象にとどまらず、個人の心の中にまで及びます。現代はまさにそのような時代ではないでしょうか。まず、神様の存在を認め、神様を畏れて、尊び敬うことを取り戻さねばなりません。(KE)

み言葉は覚えるものではなく、食べるものです

10月12日

「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。」エレミヤ15:16ab

 聖書の言葉、み言葉は覚えるものではなく、食べるものです。私たちの日々食べる食物は鑑賞して楽しむものではなく、食べて活力にするためです。同様に、み言葉は信じて生活の隅々に浸透させるとき、言葉は消えてもその中にあるいのちと力が具体的な行動や言動、思考や態度に現れてきます。そのとき、み言葉が喜びや楽しみをもたらします。(KE)

聞いたことに支配され、心のしなやかさを失い、堅くなってしまいます

10月11日

「また彼らに言われた、『聞くことがらに注意しなさい』。」マルコ4:24a

 現代は情報社会と言われています。真贋を問わず、多量の情報があふれていますから、気づかないうちに聞いています。人の心は磁石のようなもので、いろんな情報を引き付けてしまうのです。その結果、聞いたことに支配され、心のしなやかさを失い、堅くなってしまいます。だから、聞いたり見たり読んだりすることがらに十分注意しなければなりません。心に取りついた言葉や情報はパンだねのように膨らんできて、平常心を失わせます。(KE)

神様がなさるのですから、できないことはありません

10月10日

「神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか。」使徒26:8

  キリスト教にとってつまずきの石と言われることの一つは、イエス様の復活です。死人がよみがえったなどと言うから信じられないと、多くの人は言います。しかし、人のすることではなく、神様がなさるのですから、できないことはありません。神様を信じるなら、当然、イエス様を死からよみがえらせることだってありえるのではないでしょうか。問題は何を信じるかです。(KE)