主がよみがえられたことによって、新しい命が注がれました

4月11日

「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。」第一コリント15:14

 神の御子であるイエス様が世に降られたのは私たちの罪をあがなう犠牲となるためでした。しかし、ただに死んで終わりならば、罪から解放された者たちは正しく生きる命を得ることができません。主がよみがえられたことによって、新しい命が注がれ、「あがない」のわざが完成します。もし、よみがえらなかったとしたら、私たちの信仰はまことにむなしいことになります。(KE)

いろんなことを通して、私たちの願いや思いと違った道を歩ませるのです

4月10日

「また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで『これは道だ、これに歩め』と言う言葉を耳に聞く。」イザヤ30:21

 神様は私たちと共に居て、助け守ってくださる方ですが、同時に、神様のみこころを行わせようとなさいます。そのために、いろんなことを通して、私たちの願いや思いと違った道を歩ませるのです。時には苦しいと思うことや悲しいことにも導かれますが、どんなときにも共に居て、道を教え、最終目的地まで運んでくださいます。神様の言葉を聞くとき、先が見えなくとも、信じて従いましょう。(KE)

今、抱えている問題がどんなであれ、神様の御手によってなされていることを信じましょう

4月9日

「イエスは彼に答えて言われた、『わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう』。」ヨハネ13:7

  最後の晩餐の席で、イエス様は立ち上がって、弟子たちの足を洗われました。弟子たちはなぜなのかわかりません。神様の業を初めから知り尽くすことができないからです。同様に、私たちもしばしば不安と恐れに悩みます。しかし、後になってこの事だったかと気づくとき、神様の深い思慮、行き届いた配慮を知って驚きます。今、抱えている問題がどんなであれ、神様の御手によってなされていることを信じましょう。結論はもっとあとです。(KE)

神様の愛を受けて応答するとき、「愛し愛される」関係が出来るのです

4月8日

「わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。」箴言8:17

 神様はまずひとり子を賜ったほどに私たちを愛してくださいましたが、しかし、「愛」は一方的な思いだけでは成り立ちません。神様の愛を受けて応答するとき、「愛し愛される」関係が出来るのです。また、求めなければ神様に出会うことができません。どんなことにも共通することですが、求めない限り、そこにあっても気がつかないし、無きに等しいのです。神様を愛し、求めてください。(KE)

人の知識や学識で探求しても知ることができないのが神様であります

4月7日

「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。」ローマ1:20

 神様は人の目に見えず、声も聞こえず、姿形も定かでないゆえ、多くの人々が疑います。しかし、被造物である人間が神様を知り得るとするなら、それは神様ではありません。人の知識や学識で探求しても知ることができないのが神様であって、人はただ「信じる」しかないのです。理屈抜きに信じてみると、手ごたえを感じます。(KE)

命に至り、実を結ぶ道だからです

4月6日

「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」ヨハネ12:24

 イエス様は神の位を捨て、人の世にくだり、十字架に死なれました。しかし、そのゆえにどんなに多くの人々が救われたことでしょうか。私たちもまたそのように生きることを、求められています。なぜなら、それが命に至り、実を結ぶ道だからです。自分に死ぬとは神様のみ手にまったくゆだねることです。そのとき、神様が生かして下さいます。(KE)

神様の取り扱いは“平等”ではなく一人ひとりです

4月5日

「多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。」ルカ12:48b

 世間では“平等”ということがいわれます。しかし、聖書をとおして教えられるのは、皆が同じようにという“平等”はなく、神様の取り扱いは一人ひとりです。右の人に求められることが左の人にも同じようにとはなりません。神様がそれぞれの個人に与えられた役割やタラントは同じではありませんから、比べあうこと自体無意味です。あなたにはあなたにだけ与えられたもの、求められるものがあります。(KE)

事を始めようとするとき、まず自分の心に問いかけてみてください

4月4日

「自ら良いと定めたことについて、やましいと思わない人は、さいわいである。」ローマ14:22b

 これは自分の行動についての一つの評価基準です。事を始めようとするとき、確信が持てるのかどうか、まず自分の心に問いかけてみてください。事態や事が過ぎても心に引っかかるものを感じるときがあるからです。自分自身が「よし」と定めなければ、いつまでも心が晴れず、治りにくい傷口のごとく苦い思いが滲み出てきます。確信をもって決断し、晴れやかな心で生きようではありませんか。(KE)

人にとって不幸と思えることも、神様のみ手によるわざです

4月3日

「さて、散らされて行った人たちは、御言(みことば)を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。」使徒8:4

 聖霊が下ったのち、エルサレムに教会ができて、多くの人々がイエス様を信じる者となりました。そのころ、大迫害が起こり、クリスチャンたちは散らされました。しかし、その結果、地中海沿岸各地に福音がのべ伝えられ、教会が誕生しました。人にとって不幸と思えることも、神様のみ手によるわざですから、決して無駄に終わりません。すべてに神様の深い摂理があります。(KE)

信仰は主に「すべてありのまま」を言い表すことで揺るがないものとなります

4月2日

「その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。」マルコ5:33  

長年病に苦しんだ女がイエス様に触れて、すっかり癒されました。イエス様はそのことを人々の前で語らせたのです。女の人は隠しておきたかったでしょうが、イエス様はむしろ「すべてありのまま」を告白することで、彼女の信仰を不動のものとしてくださったのです。私たちの信仰も主に「すべてありのまま」を言い表すことで揺るがないものとなります。(KE)