それぞれ託されたものを用いて収穫した僕達は、主人から称賛されました

11月14日

「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。」マタイ25:21

 これはタラントの譬えです。主人がしもべたちにそれぞれタラントを預けて出かけました。やがて帰宅した主人は僕たちと清算したのです。主人の意図を知ってそれぞれ託されたものを用いて収穫した僕達は、主人から称賛されました。これは私たちのことです。主人である神様が清算されるときが来ます。しっかり、主人の意図に従って喜ばれたいものです。(KE)

何をよりどころにして生きるかが人生のあり方を決めることになります

11月13日

「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」第二コリント5:7

 「歩く」とは生活することです。日々、何をよりどころにして生きるかが人生のあり方を決めることになります。目で見るところ、理解できる範囲、多数の趨勢など、様々な条件に左右されながら生きていますが、ただそれだけであれば、実に小さなものでしかありません。もう一つ、目に見えないもの、神様を信じて無なる地平、未知なる空間へ踏み出す時、人生の風景は激変します。あなたも神様のみわざを体験する冒険へ踏み出しましょう。(KE)

常に神様を恐れ、神の義を渇き求めようではありませんか

11月12日

「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」マタイ5:6

 不義や不正がはびこり、悪が跋扈(ばっこ)する世にありますが、だからといって、義を求める者が空しくなることはありません。ソドムの町にいた義人ロトのように、世に染まらず、流されず、常に神様を恐れ、神の義を渇き求めようではありませんか。神様はそのようなものたちを見捨てません。定められた時がくるなら、神様は必ず報いてくださいます。(KE)

置かれたところ、与えられたことのなかで徹底して従いました

11月11日

「しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。」創世記45:5

 神様のご計画、みわざはいかに大きなものでしょうか。ヨセフは兄弟の反感を買い、売られてエジプトへ来ました。その後、さまざまな苦難を経てエジプトの宰相となり、飢饉のため苦しむ家族を救う先立ちとなったのです。ヨセフは神様のみ手を信じて、置かれたところ、与えられたことのなかで徹底して従いました。すべてのことを導かれるのは神様であると信じたからです。(KE)

実際は何ひとつ確実なものはありません

11月10日

「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。」ヤコブ4:14

 自分のことはなんでも自分で決定できるかのように錯覚しています。実際は何ひとつ確実なものはありません。創造者なる神様のみ手に支配されているからです。明日が、来年がどんな日になるのか、皆目分りませんが、神様は明確な目的と計画で私たちを導いておられます。主がなさるわざを信じてゆだねようではありませんか。(KE)

人々が救われるその時を忍耐して待っておられるのです。

11月9日

「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」第二ペテロ3:9

 始まりがあれば、必ず終わりもあります。この宇宙も、世界も、やがて滅び失せるときがきますが、それがいつであるかわかりません。ただ神様の思いはすべての人々が救われることを願って、その時を忍耐して待っておられるのです。主のみ思いを無駄にしないで、主のご期待に応えようではありませんか。(KE)

試練を通るとき、不純物、汚れたものが心の内外から削り取られます

11月8日

「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」ヘブル12:14

 「きよい」とはどんなことでしょうか。簡単に言えば、混じりけがない、純粋であることです。それを人のこころに当てはめてみると、言葉と行動、思いと言葉がちぐはぐで、雑多な感情や情念にかき乱されているとき、「きよい」と言えません。試練と言われる困難や苦しみ、悩みを通るとき、不純物、汚れたものが心の内外から削り取られます。試練を逃げないで、自分を磨きましょう。(KE)

むしろ、私たちが神様のもとに立ち返ることを切に待っておられます

11月7日

「あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。」ヨエル2:13bc

 創世のはじめより、これほど人を愛し、慈しみ、顧みてくださる神様がどこにおられるでしょうか。神様は祟ったり、罰をあたえるだけの過酷で無情な方ではけっしてありません。むしろ、私たちが神様のもとに立ち返ることを切に待っておられます。それは神様を離れているかぎり、幸いがないことを知っておられるからです。また、神様のもとこそ、いのちがあふれているのです。(KE)

自分で思い煩うことをやめ、神様のみ手にすっぽりと命まで預けましょう

11月6日

「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。」エレミヤ32:27

 聖書は一貫してすべてが神様によって造られたものであることを語り続けています。そこには人の知恵や力、計画やわざなど、微塵も入る余地はありません。神様のなさることが人の目には粗雑にして、大ざっぱで隙間だらけに見えますが、神様のなさりようは緻密にして精巧、無駄も、失敗も、過剰なことも、何一つありません。自分で思い煩うことをやめ、神様のみ手にすっぽりと命まで預けましょう。楽になりますよ。(KE)

私たちはもっぱら主人の憐れみを待つほかありません

11月5日

「見よ、しもべがその主人の手に目をそそぎ、はしためがその主婦の手に目をそそぐように、われらはわれらの神、主に目をそそいで、われらをあわれまれるのを待ちます。」 詩篇123:2

 神様と私たちの関係は創造者と被造物との関係でありますが、同時に主人と僕でもあります。僕である私たちはもっぱら主人の憐れみを待つほかありません。主人の恵みを受ける値打ちも資格もない者ですが、今日も、しもべとなりきって、主の憐れみをいただくものとなりましょう。(KE)