5月30日
「悲しみは笑いにまさる。顔に憂いをもつことによって、心は良くなるからである。」伝道7:3
悲しいことや悩みにあうことは嫌なことです。なんとか避けようと努めますが、そのような不幸と思われる事態は決して無駄なことではなく、むしろ人を造りかえる大きな力です。悲しみや悩みを知らない人よりも、それらを通って、神様と対話して自分の内面を清くされた人々のほうが、はるかに美しく、深みがあり、魅力的です。だから、そのような事態に会うとき、逃げないで、避けないで正面から受け止めてください。(KE)
5月30日
「悲しみは笑いにまさる。顔に憂いをもつことによって、心は良くなるからである。」伝道7:3
悲しいことや悩みにあうことは嫌なことです。なんとか避けようと努めますが、そのような不幸と思われる事態は決して無駄なことではなく、むしろ人を造りかえる大きな力です。悲しみや悩みを知らない人よりも、それらを通って、神様と対話して自分の内面を清くされた人々のほうが、はるかに美しく、深みがあり、魅力的です。だから、そのような事態に会うとき、逃げないで、避けないで正面から受け止めてください。(KE)
5月29日
「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる。」 歴代下16:9a
神様が求めておられるものは一心になって信頼する者です。しかし、私たちは二心、三つ心で、あれもこれもと手を伸ばすので、神様は失望されます。人と人との関係でも同様です。頼りにするのはあなただけと言われるとき、無力な者であっても何とかしようとします。そのような純一な心を求めておられるのです。(KE)
5月28日
「主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。」 詩篇104:24
天地創造のわざは今もなお繰り返され、続いています。目にするもの、手でさわるものなど全てが神様のわざによるのです。それらは人の知恵や知識を越えた摂理によって存在しています。人は“どうして”と問いますが、答えを得ることができません。なぜなら、神様のわざだからです。不条理に思える現実も神様の造られたものです。(KE)
5月27日
「主は恵み深く、なやみの日の要害である。彼はご自分を避け所とする者を知っておられる。」ナホム1:7
「要害」とは敵から身を守るための「城」です。そこに隠れこむとき、安全でいられます。あなたにとっての「要害」は何でしょうか。「窮鳥懐に入る」と言う言葉があるように、ふところに飛び込まれるなら、敵対する者でも保護します。ましてや、恵み深い神様はあなたの「避け所」となってくださいます。悩みや艱難にあうとき、遠慮なく主のふところに飛び込みましょう。神様はあなたを愛しておられるのです。(KE)
5月26日
「また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。」マタイ6:7
祈りは大きな力であり、慰めであり、望みです。祈ることが出来るのはどれほど幸いなことかわかりません。しかも、神様は私たちに祈ることを許し、求めてくださるばかりか、喜ばれます。ただし、神様を信頼して祈るのでなければ聞かれません。信頼していれば、言葉は少なくても、思いは十分伝わります。あなたも短い一言でも声を出して祈ってみませんか。(KE)
5月25日
「あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。」イザヤ40:28
神様はどのような方であるか、人によって理解が違っているかもしれません。しかし、神様をどのような方と信じるか、それが信仰の形となります。神様を小さなものとするなら、その規模の信仰になるでしょう。神様は誰に比べ、何に例えようとするのかと問われます。あなたの信じる神様はどのような方でしょうか。(KE)
「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る。」詩篇20:7
現代では「戦車」「馬」に代えて、「学歴」「家柄」「偏差値」あるいは「預金残高」などを入れてみてはどうでしょうか。あなたは何に置き換えますか。いずれにしても、それらのものは遅かれ早かれ色あせて力をなくしてしまいます。しかし、神様に罪を許され、神様のものとなって、この方に信頼するなら、鬼に金棒どころではありません。神様を味方とする生涯、これほど痛快なものはありません。(KE)
5月23日
「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」 詩篇55:22
ある人は人生を譬えて、「重き荷を負うて坂道を登るがごとし」と言いました。まさにこの譬えのように多くの人々は大なり小なり重荷を負いながら生きるものと思っています。しかし、神様が人を創造されたとき、重荷を負わせようとしたのではなく、人は罪ゆえに荷を負う者となったのです。神様に立ち帰って正しい者としていただき、神様に一切の荷を委ねて身軽になろうではありませんか。(KE)
5月22日
「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。」第二コリント5:1
「地上の幕屋」とは私たちの体、肉体であり、それを支える生活です。これはやがて壊れ、消え去ります。それは幕屋に内住する私たちの霊が永遠の家に移るためです。目に見える外なる人が滅びても、霊はそれを授けた神様のもとに帰るのです。そのことを自覚して生きるとき、あなたの生き方が変ります。(KE)
5月21日
「互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」コロサイ3:13
「ゆるす」ことほど困難なことはありません。最大の原因は自分を正しいとする心です。自分がどれほど罪深く、ゆるされなければならないものであるかを知るなら、決して責めることはできません。罪を犯した女を責め立てる人々に、主はまず罪なきものが石を投げよと言われました。主の十字架にゆるされた者であることを忘れてはなりません。(KE)