3月12日
「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである。」エレミヤ17:10
人の見る所は外側に現れたものばかりですが、神様は「心を探り、思い」を試みられます。しかも、ただ見ておられるだけではなく、それぞれに従ってきちんと報われます。だから、人の評判を気にするよりも、神様の評価を常に意識することが大切です。神様から受ける報いは大きく、いつまでも残るものだからです。(KE)
3月12日
「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである。」エレミヤ17:10
人の見る所は外側に現れたものばかりですが、神様は「心を探り、思い」を試みられます。しかも、ただ見ておられるだけではなく、それぞれに従ってきちんと報われます。だから、人の評判を気にするよりも、神様の評価を常に意識することが大切です。神様から受ける報いは大きく、いつまでも残るものだからです。(KE)
3月11日
「わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。」詩篇16:8
聖書には多くの人物が描かれていますが、ダビデほど神様に愛され、また神様を信頼した人はありません。彼は生涯を貫いて神様を第一とし、どんな境遇にあっても神様の主権を敬い、尊んでいます。彼も人としての弱さを持っていますから、失敗することも多々あります。しかし、そのようなとき、神様への悔い改めと立ちかえりは見事と言うほかありません。(KE)
3月10日
「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。」ヨハネ6:44a
イエス様の救いを得るのは人の努力や決断によるのではありません。父なる神様が私たちを主のもとに引き寄せてくださったからです。実はすべてのことがそうなのです。主権者なる神様が事を定め、運び、完成されるのです。だから、自分が努力した結果、何事かがなし得たなら、それは自分の手柄ではなく、神様が許して、させてくださったからです。常に、主を主として、自分が謙遜になることが幸いなことです。(KE)
3月9日
「イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、『恐れることはない。ただ信じなさい』。」マルコ5:36
現代は情報過多の時代です。便利であると同時に、心が疲れます。聞いたり見たりすることで、振り回されるからです。イエス様は「聞き流して」おられます。そうでなければ、余分な知識に邪魔されて、平安を失い、恐れが生じて正しい道を踏み外すからです。「恐れ」はサタンが使う強力な武器です。それによってどれほど多くの貴重な時間が無駄になったことでしょう。情報や知識ではなく、神様を信じましょう。(KE)
3月8日
「また、悪魔に機会を与えてはいけない。」エペソ4:27
悪魔とは私たちを神様から引き離そうとする勢力、力です。それをサタン、悪魔、悪の霊などと呼びますが、いずれにしても神様に反抗する心へ変えてしまう力です。まるで健康な体をむしばむウイルスのようなものです。それだけに、油断しているとすぐに蔓延します。高慢になったり、世間の声に耳を傾けたり、聖書以外の様々な知識などを通して悪魔はやってきます。「光の天使のごとく擬装する」とも言われています。やられたと思ったら、すぐに悔改めて主に立ちかえりましょう。(KE)
3月7日
「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。」第二コリント7:10
救われた者にも、そうでなくても、悲しみは等しくあります。ただその悲しみによって何を得るかが問題です。神様を信じて悲しみに会うとき、それは大いなる恵みです。しかし、信仰なくして悲しみにあうと、「死」ともいうべき闇に沈んでしまい、得るものはありません。悲しみだろうと、悩みだろうと、どんなことも自分の肥やしにしてしまう信仰者のダイナミックな生き方をしようではありませんか。(KE)
3月6日
「そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。」第二コリント5:15
イエス様の救いは私たちの生きる目的を変えてしまうものです。人は生まれながらに自分のために生きるものとなっています。それが諸悪の根源である自己中心な生きざまに落ち込むのです。イエス様を信じるとき、生きる目的がよみがえった主のためにいきるものとなります。イエス様と言うプリズムを通して自分を受容するのです。(KE)
3月5日
「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』。」ルカ23:34
イエス様が十字架に掛けられたとき、最初に語った言葉です。ここに十字架の目的がはっきり示されたのです。イエス様は罪の赦しのために捧げられた犠牲となられたのです。その功績のゆえに、滅びるべきものが生かされるのです。主は常に父なる神様の右に座して、私たちのためにとりなして下さっています。十字架こそが私たちのいのちの道です。赦されている自分であると自覚しましょう。(KE)
3月4日
「そこで、イエスは彼に言われた、『あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる』。」マタイ26:52
ゲツセマネの園にイエス様を捕らえようと群衆がやってきました。イエス様のそばにいた者が剣を抜いて切りかかりました。主はそれを止めて言われた言葉です。剣を取ることはイエス様の道とは相反する道です。しかし、当時の多くの人々は剣の道(革命や内戦)を望んでいたでしょう。そのため、十字架上のイエス様の姿に失望し、怒りを抱きました。主は父なる神様の壮大なみわざにゆだねておられたのです。(KE)
3月2日
「イエスを裏切ったユダが答えて言った、『先生、まさか、わたしではないでしょう』。イエスは言われた、『いや、あなただ』。」マタイ26:25
人は愚かな者で、自分が何をしているか、それがどんな結果になるかを悟ることができません。ユダもはっきり主から指摘されながら、まだ気づかないのです。これほどあからさまに言われていながら、やってしまうのはユダばかりではありません。神様から細い声で警告を聞きながら、それを聞き流して、自分の感情や欲望に支配される姿こそユダであり、私たちです。(KE)