イエス様だけになる。これが不可欠です。

5月20日

「娘よ、聞け、かえりみて耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家とを忘れよ。」詩篇45:10  

昔は結婚する娘に親が「ここはもう帰る場所ではない」と言ったものです。嫁ぐ以上、相手の家を自分の家とするためです。実家や親兄弟を切り捨てなければ、嫁として自立できません。イエス様と私たちの関係も同じです。キリストの花嫁となった者は、この世から、肉の生活から離れて、イエス様だけになる。これが不可欠です。そうでなければ、信仰による困難があると、すぐにイエス様を離れ、以前の自分に戻ってしまいます。(KE)

思いを与え、願いを起こさせます

5月19日

「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。」ピリピ1:6

 神様は私たちにみこころをなそうとしています。だから、思いを与え、願いを起こさせます。しかし、そのような神様からの促しを聞き流し、拒んでいます。私たちが神様のみ思いに心を委ねるなら、全ての必要を満たし、力と知恵を与えて良きわざを完成させてくださいます。人は自分の努力や力では何も良いわざができません。(KE)

しかし、知らないゆえに、貴重な時間を無為に過ごしてしまいます

「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。」詩篇39:4

 自分の人生がいつまでであるかを人は知りません。それは幸いなことです。もし、何時終わるか知っていたら、到底平静ではおれないでしょう。しかし、知らないゆえに、貴重な時間を無為に過ごしてしまいます。終わりの近いことを知ると、人生の目的を意識し、それを探求するようになります。あなたの人生を実り豊かにするには常に死の時を自覚することです。(KE)

人にはもう一つ大切なものがあります 神様から与えられた霊です

5月17日

「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。」伝道12:7

 人の体は地のちりによって造られたとあります。確かに、火葬されると残るものは灰だけです。これが人の全てだとしたら、なんと空しいことでしょうか。しかし、人にはもう一つ大切なものがあります。神様から与えられた霊です。霊があればこそ、人が人として生きることができるのです。それは決して消えてなくなるものではなく、神様のもとへかえっていきます。やがて終末のとき、全ての霊は神様のまえで裁きを受けると定められています。(KE)

今日も十字架の恵みによって赦され、生かされています

5月16日

「こうしてサウルは主にむかって犯した罪のために死んだ。すなわち彼は主の言葉を守らず、また口寄せに問うことをして、主に問うことをしなかった。」歴代上10:13-14a

 サウル王はアマレク人との戦いで神様の命令を守らなかったために、神様から見放され、霊媒師に頼るようになりました。ペリシテ人との戦いのなかで、彼は死にましたが、その死は罪の結果でした。罪の支払う報酬は死であるとありますが、罪のゆえに死ぬべき私たちは、今日も十字架の恵みによって赦され、生かされています。感謝です。(KE)

勤勉に励めば何事も上手くいくものと思いがちです

5月15日

「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」箴言3:6

 日々の生活は全てのことが人のわざ、計画によるものに思われます。だから、人が努力し、勤勉に励めば何事も上手くいくものと思いがちですが、現実はそのようになりません。努力しても報われず、思いや願いは程遠いものになります。それはものの見方の根本が間違っているからです。有形無形を問わず、万物は神様のみわざによります。神様の許しが無ければ人は何もなしえないことを認めて、神様のみ手に委ねることが大切です。(KE)

彼の手ににぎられたとき、強力な武器となりました

5月14日

「彼はろばの新しいあご骨一つを見つけたので、手を伸べて取り、それをもって一千人を打ち殺した。」士師15:15

 大力サムソンと言われますが、神様の霊が彼に臨むとき、力が与えられたのです。ペリシテ人との争いのなかで、神様の力に満たされたサムソンは手近にあった「ろばのあご骨」を握って敵を倒しました。この骨は脆いものですが、彼の手ににぎられたとき、強力な武器となりました。私たちも神様の力に満たされ、振り回されるとき、思いがけない働きをすることが出来るのです。(KE)

事情・境遇が良くなると、心が神様から離れて、世の営みに没頭します

5月13日

「わたしは荒野で、またかわいた地で、あなたを知った。しかし彼らは食べて飽き、飽きて、その心が高ぶり、わたしを忘れた。」ホセア13:5-6

 「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」と言いますが、私たちも神様をすぐに忘れます。「荒野」「かわいた地」とは困難や苦しみ、悲しみのときです。そんなとき、片ときも忘れず神様を呼び求めますが、事情・境遇が良くなると、心が神様から離れて、世の営みに没頭します。まことに忘恩の徒です。絶えず、神様に立ち返って、その憐みとご愛を感謝したいものです。(KE)

しかし、神様は公平な方、義なる方です

5月12日

「おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。主はとこしえにこのような人を捨てられないからである。」哀歌3:30-31

 世にあってしばしば体験することですが、不当な苦しみに会ったり、他人から誤解されたり、曲解されたりします。そのとき、なんとかそれをとり除こうともがきます。誰彼にと味方を求め、同情を期待しますが、失望するだけです。そうなると四面楚歌、出口の無い孤独を味わいます。しかし、神様は公平な方、義なる方です。神様はあなたのことを全て見ておられます。(KE)

私達のなすべきことはすべての賞賛、誉れ、栄光を神様に帰することです

5月11日

「主よ、栄光をわれらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください。」詩篇115:1

 人は賞賛や誉れ、名誉を得たいと願いますが、本来、人の力や知恵で何かが出来るのではありません。ただ、神様の憐みと許しによって、知恵や力が与えられ、幾らかのことがなしえるに過ぎないのです。だから、私達のなすべきことはすべての賞賛、誉れ、栄光を神様に帰することです。そうすることで、自分の無知無能を認め、謙遜になることができます。(KE)