2月25日
「彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。」レビ1:4
旧約聖書の時代、律法の定めに従い動物(牛や羊)を犠牲として神様に奉げました。それは自分自身を神様に奉げる代償行為です。私に代わってイエス様が神様の罰と呪いを受けてくださったと同じです。だから、犠牲を奉げようとする人はその犠牲の動物と同体であることを証しするために手を置きました。私たちも十字架に命を奉げたイエス様と一つになろうではありませんか。(KE)
2月25日
「彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。」レビ1:4
旧約聖書の時代、律法の定めに従い動物(牛や羊)を犠牲として神様に奉げました。それは自分自身を神様に奉げる代償行為です。私に代わってイエス様が神様の罰と呪いを受けてくださったと同じです。だから、犠牲を奉げようとする人はその犠牲の動物と同体であることを証しするために手を置きました。私たちも十字架に命を奉げたイエス様と一つになろうではありませんか。(KE)
2月24日
「主がサウルを離れて、ダビデと共におられたので、サウルはダビデを恐れた。」サムエル上18:12
サウル王は神様の言葉に背いて、捨てられました。それは直ちに王位から退けられたというのではありません。王位にありましたが、神様の祝福が得られなくなり、心に恐れが生じるようになったのです。これは神様を離れた魂の姿です。彼は疑心暗鬼に囚われ、不安にさいなまれて、安眠をも失います。身分や生活は変わらなくても、神様から離れたとき、人は必ず悪しき霊力に支配され、闇に引き込まれます。ご用心!(KE)
2月23日
「ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った。」歴代下26:16a
ウジヤ王は16歳で王位につき、52年間も世を治めました。彼は神様を畏れ、神様の喜ばれることをすべて行いました。そのために、神様は彼の治世に繁栄をもたらし、恵みを与えてくださったのです。国は栄え、強くなったとき、失敗しました。神様の恵みであることを忘れ、自分を誇る、高慢な者となったのです。私たちも同じ過ちを犯します。人に対してではなく、常に神様の前に身を低くして、感謝しつつ謙遜を貫きたいものです。(KE)
2月22日
「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。」ヨハネ12:26ab
イエス様と共に生きようとするなら、イエス様のおられる所にとどまらなければなりません。イエス様は私たちの召使いではありませんから、自分のところに呼びつけることはできません。むしろ、私たちがイエス様に仕える者ですから、主人の行くところがどこであろうと、そこについていかなければ役に立ちません。今日も、主に従う僕になりましょう。(KE)
2月21日
「たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである。」ルカ12:15b
人は生きるために、有形無形を問わず、いろんな物を沢山蓄えます。日本は戦後無一物になり、そこから生きるために物質的な豊かさを求めました。その結果、拝物主義、拝金主義が横行するようになり、少しでも欠乏するとパニックに襲われます。物に代表される外的な生活条件は恒久的なものではなく、脆くも壊れ、失われるものです。地震や洪水に見舞われる時、人は何によって生きるものであるか、問われます。(KE)
2月20日
「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」ピリピ4:13
パウロは有能な人物でしたが、常に自分の無力さを認めていました。具体的に「弱さ」を持っていました。しかし、イエス様の救いによって、全能者である神様との和解を体験し、神様の絶大な力に助けられる幸いを味わったからです。確かに、私たちも自分が弱くても、それを十分に補い、溢れるばかりの力を使えるなら、どんなにか心強いことでしょう。自分の弱さ、無力さを嘆くことはいりません。神様の力が注がれるのですから。(KE)
2月19日
「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」イザヤ53:3
イエス様について語られた言葉です。主は神の御子でありながら、人の世に降り、決して罪を犯したのではありませんが、私たちの罪を負って、罪びととなってくださいました。しかも十字架によって命を捨ててくださったのです。それはあなたのためです。それなのに、彼を尊ばず、侮り、嫌い、捨てています。あなたはイエス様にどのように報いていますか。(KE)
2月18日
「自分は真実だという人が多い、しかし、だれが忠信な人に会うであろうか。」箴言20:6
人は概ね自己中心であり、自分を正しい尺度としていますから、自分を客観的に評価することができません。自分は真実であり、正しい者であり、間違いのない者だと自負します。その物差しで計るから、どんな人でも合格点に及びません。他の人も同じように自分流の計りや物差しを持っていますから、当てになりません。間違いのない尺度は神様の言葉を通して照らされる光です。常に、みことばによって、自分の心と思いを探っていただきましょう。(KE)
2月17日
「ダビデはナタンに言った、『わたしは主に罪をおかしました』。」サムエル下12:13a
ダビデは王位につき、全権を掌握したとき、心にすきができました。その結果、忠臣ウリヤを激戦の地で殺し、彼の妻を横取りしたのです。神の人ナタンはダビデ王に向かって、その罪を断罪しました。そのとき、悔い改めたダビデ王の言葉がこれです。ダビデ王は部下に悪い事をしたと言ったのではなく、神様に対して罪を犯したと告白しました。まさにこれが悔い改めです。誰かれに対してではなく、神様にまず罪を認めることが幸いな道です。(KE)
2月16日
「神は言われた、『ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである』。」出エジプト3:5
モーセはホレブの山で野火のごとく燃えている柴が燃え尽きないのを見て、不思議に思って近づいた時、神様の声を聴きました。「足からくつを脱ぎなさい」と。裸足になるのは奴隷になることでした。神様はモーセに絶対服従を求めたのです。モーセに期待するところがあり、神様の偉大なわざを始めるためです。私たちを用いて事をなそうとしておられる神様は、徹底的に従う者を求めています。(KE)