12月7日
「善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。またあなたがたが言うように、万軍の神、主はあなたがたと共におられる。」アモス5:14
神様が共にいてくださるとは、私たちを導き、守り、恵むためです。共にいていただくには善を求め、へりくだった者となり、神様に聞き従うことが条件です。“善”とは道徳的、倫理的善行ではなく、神様のみこころに適う道です。高き所にいます神様は、へりくだって砕けた心で御心に従うとき、命を与え、生きる者として下さいます。(KE)
12月7日
「善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。またあなたがたが言うように、万軍の神、主はあなたがたと共におられる。」アモス5:14
神様が共にいてくださるとは、私たちを導き、守り、恵むためです。共にいていただくには善を求め、へりくだった者となり、神様に聞き従うことが条件です。“善”とは道徳的、倫理的善行ではなく、神様のみこころに適う道です。高き所にいます神様は、へりくだって砕けた心で御心に従うとき、命を与え、生きる者として下さいます。(KE)
12月6日
「あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。」ヨエル2:13bc
神様が私たちに絶えず求めておられることは、「神に帰れ、主に帰れ」ということです。まずへりくだって神様を求めることです。私たちの不幸はすべて神様を離れて、自分勝手に生きているからです。しかも、神様は限りない豊かな赦しと愛に満ちている方です。神様に帰ろうとしないのは、神様に咎められ、責められることを恐れるからです。しかし、主は決してそうではありません。(KE)
12月5日
「それゆえ、主は待っていて、あなたがたに恵みを施される。それゆえ、主は立ちあがって、あなたがたをあわれまれる。」イザヤ30:18ab
神様は私たちを恵もう、助けようと思っているのですが、私たちの方が神様を信頼しようとしないのです。人は頑なでうぬぼれ屋ですから、神様に頼らず、自分や人の力と知恵で思い通りにやろうとして行き詰まり、失敗します。神様は恵むためにそうなるのを待っているのです。お手上げになって、神様を呼び求めると、間髪を入れず、救いの手を伸べてくださいます。はやく主を求めてください。(KE)
12月4日
「わたしは驚きあわてたときに言った、『すべての人は当にならぬ者である』と。」詩篇116:11
なにか思いがけない事態に当たった時、この人ならと思っていた人から意外な反応を得て、ガッカリし、驚きあわてることがあります。こころ密かにその人を頼りにしていたからです。そもそも人を当てにすることが間違いのもとです。翻って、自分を考えるなら、他者から当てにされて応えられる自信はありません。自分ができない事を他人もできないのです。頼るべきものは神様以外にないことを自覚しておきましょう。(KE)
12月3日
「そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、『エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい』。」使徒1:4
イエス様がよみがえられたのち、弟子たちに命じられたのは「父の約束を待て」でした。それは聖霊を与えるとの約束です。それを受けなければ神様に従うことができません。何よりも必要不可欠なものです。また、“待つ”ことが必要です。いつまでとの期限はありません。いただくまで待つのです。聖霊が働かれるとき、事態が一気に動きます。(KE)
12月2日
「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」第一コリント1:18
十字架(復活を含めて)について語られた聖書の言葉は多くの人たちにとって信じがたい、躓きの石とも言われます。もし十字架の死と復活がなければ、私たちの信仰は無意味なものであり、滑稽です。しかし、「十字架の言」を自分のこととして信じるなら、よみがえった主のいのちと力が満ちてきます。イエス様を信じるとは十字架を信じることにほかならないからです。(KE)
12月1日
「イエスは彼に言われた、『たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい』。」ヨハネ21:22
よみがえられた主はペテロに三度私を愛するかと問われ、その後、「あなたはわたしに従ってきなさい」と言われました。主が求めておられるのは、誰彼ではなく、あなたです。つい、周囲を見て“あの人は?”と気になります。しかし、他者がどうであれ、「あなたは」と言われます。“神様と私”こそが信仰の中心です。(KE)
11月30日
「そのとき、イエスは彼らに言われた、『恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい』。」マタイ28:10
ガリラヤは彼らの生活の場であり、初めてイエス様に出会ったところです。主は彼らに新しい出会いと使命を与えるためにそこへ行くことを命じられたのです。あなたがよみがえった主に会うことができるのはどこでしょうか。神殿でも、深山幽谷の地に遁世することでもありません。雑事に追われ、人事の錯綜する日々の生活こそ“ガリラヤ”です。(KE)
11月29日
「ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。」ヨハネ13:30
最後の晩餐といわれる過越しの食事の席で、イエス様は自分を裏切る者がいると公言されました。そのうえでユダに食物を与えて、裏切るものが彼であると指摘したのです。彼は名指しされると、すぐにその場を離れ出て行きました。まさにアダムとエバが主の顔を避けて茂みに身を隠す如く、ユダは夜の闇へと消えていきます。これはユダの話ではなく、光よりも闇を愛した私たちのことです。しかし、主の死はそのためです。ただ只、感謝!(KE)
11月28日
「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」ピリピ2:8
イエス様は神様のひとり子として神の位にあった方です。そのような方が父なる神様の願いに応えて人の世に降ってこられたのです。考えると、途方もないことです。神が人となるとは!ただ、そこにあるのは“従順と謙遜”を具現した姿です。その結果、神様は御子を死のどん底から引き上げ、すべての名にまさる名を与えて神様の栄光を現されたのです。神様の前に自らを低くし、み心に全く従うことこそ私たちの使命です。(KE)