アブラハムもただ神様のことばを信じて踏み出したのです

8月16日

「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。」 ヘブル11:8

 信仰によって生きるとき、それはある種の“賭け”のようなものです。見えないものを信じて、みことばに従うのですから、かなり冒険的であり、無謀なことに思われます。アブラハムも神様から召されたとき、ただ神様のことばを信じて踏み出したのです。いつまでも、見えるもの、計算できるものばかりに頼っていると信仰に立てません。あなたも神様の真実に賭けてみませんか。(KE)

主が歩まれた道を同じようにたどることを努めていくなら、必ず報われます

8月15日

「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。」第一ペテロ2:21

 私たちが信仰に立って生きようとするとき、手本とするモデルが必要です。お手本に倣うことがその道に上達する秘訣です。それがまさにイエス様です。主が歩まれた道を同じようにたどること、それを努めていくなら、必ず報われます。ただ、主の道は十字架への道でもあります。(KE)

遠慮無く神様の懐に飛び込んで求めようではありませんか

8月14日

「わたしのいのちをお守りください。わたしは神を敬う者だからです。あなたに信頼するあなたのしもべをお救いください。あなたはわたしの神です。」詩篇86:2

 確信をもって神様に求め、迫っています。これが信仰です。「わたしは神を敬う者」、「あなたのしもべ」、「わたしの神です」と。私たちにはこれほどの自信があるでしょうか。確かに、現実の自分を見ればこう言えないのは分かりますが、限りない大きな愛を戴いている私たちですから、遠慮無く神様の懐に飛び込んで求めようではありませんか。(KE)

私たちの生活が神様によって支配されることを求めるのです

8月13日

「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」マタイ6:10

 「主の祈り」の一節です。「御国」とは神様が支配なさる国、世界のことです。私たちの生活が神様によって支配されることを求めるのです。そのためには自分を捨てなければ実現しません。「天」は神様のみこころが隅々にまで行き渡っているところです。そのようにこの世でもみこころがすべてのことに行われるなら、そこが「御国」となります。この祈りを「アーメン」と心から祈ることができるようになってください。(KE)

敬虔に敬い畏れることが大切です

8月12日

「主は怒ることおそく、力強き者、主は罰すべき者を決してゆるされない者、主の道はつむじ風と大風の中にあり、雲はその足のちりである。」ナホム1:3

 「神は愛である」と言われます。それゆえ、どんなことも許されると誤解しています。その結果、神様を侮ってしまう。これは大変不幸なこと。神様は神様であって、人ではない。その力は想像を超え、その規模は計り知れない方です。また、義なる方ですから、微塵も曇り無く、真っ直ぐに義を貫かれます。怖がることはいりませんが、敬虔に敬い畏れることが大切です。(KE)

神様を求め、信じるにも「時」があります

「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。」イザヤ55:6

 人に会おうとしたり、電話をかけようとするとき、今がその時だろうかと一瞬躊躇します。忙しい相手を思ったり、誤解されないかと深読みしたり、様々な思いが巡ります。その結果、タイミングを逃します。“思い立ったが吉日”と世間では言います。神様を求め、信じるにも「時」がありますが、まさに思い立ったときこそ最善の時なのです。あなたにとって、今日、このときを逃したなら後悔することになります。(KE)

「神の国」とはイエス様を信じて新しい命に生きることです

8月10日

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」 マルコ1:15

 イエス様が語ったメッセージをまとめた言葉です。「時は満ちた」とは、今、今日こそあなたの救いが成就するとのことです。また、「神の国」とはイエス様を信じて新しい命に生きることです。あなたの人生が一新され、神様の支配があなたの全てに及ぶのです。「福音」は主の十字架によって罪・愆の全てが消し去られて、完全な赦しを戴いていることを伝えるものです。イエス様が語って下さる恵みのおとずれを感謝して、素直に受けて下さい。(KE)

魂を養う霊的な命でもありました

8月9日

「イエスは彼らに言われた、『わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない』。」ヨハネ6:35

 荒野の旅をした神の民は「マナ」で命を養いました。それは肉体的な命を与えるパンでありましたが、同時に、神様から戴いたもの、すなわち魂を養う霊的な命でもありました。やがてイエス様が世に来て下さったことによって、イエス様こそが霊の糧、「マナ」であることがわかりました。パンは鑑賞するものではなく、食べるものです。イエス様を食べて下さい。(KE)

世間では値打ちのない者たちをあえて選んびます

8月8日

「有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」第一コリント1:28

 神様の選びの基準は世間の基準とは全く正反対です。世間では値打ちのない者たちをあえて選んで、その者たちを通して、神様の力、大業を見せようとなさるのです。素材である私たちが出来損ないであればあるほど、役に立ちます。神様の力が際だって褒め称えられるからです。誰からも認められなくても、神様はあなたを有益な者へと変身させてくださいます。(KE)

今日も生きることが出来ます。当然の様に思われますが、考えると決してそうではありません

8月7日

「あすのことを誇ってはならない、一日のうちに何がおこるかを知ることができないからだ。」箴言27:1

 神様の恵みによって、今日も命を与えられ、生きることが出来ます。当然の様に思われますが、考えると決してそうではありません。不思議なことです。しかも、今日がどんな日になるのか誰もわかりません。いろんな予定はあるでしょうが、そのとおりになるのかどうか、ただ、神様が許してくださることだけが実現されるのです。自分の知恵や力を誇らず、恃まず、へりくだって神様の導きにゆだねましょう。(KE)