この方に信頼して依り頼めばどんなことでも出来ないことはありません

12月10日

「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。」ガラテヤ3:26

 イエス様の救とは私たちを「神の子」にして下さることです。私たちは肉親としての父親しか知りませんでしたが、天地万物の創造者であり、全能の神と言われる方が私たちの「父」となって下さることでもあります。神様を「お父さん」と呼ぶことが出来、この方に信頼して依り頼めばどんなことでも出来ないことはありません。「神の子」であることを信じ、「父なる神」を言葉どおりに信じようではありませんか。(KE)

神様がどのように自分に働いてくださったか、何をしてくださったかを告白することです

12月9日

「しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい。」 マルコ5:19

 悪霊につかれた人がイエス様によって癒されました。彼はイエス様について行きたいと願いましたが、主は拒みました。主が彼に求めたのは、神様がどのように自分に働いてくださったか、何をしてくださったかを告白することです。神様が私たちをどのように用いておられるか、神様のみわざを語ろうではありませんか。(KE)

私たちには代わりにみことばが与えられています

12月8日

「主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。」出エジプト13:21

 神の民がエジプトを出て、荒野の旅路を進んでいるとき、神様は常に彼らと共に歩んでくださいました。「雲の柱」「火の柱」は神様の臨在をあかしするしるしです。私たちにはそのようなものはありませんが、その代わりにみことばが与えられています。みことばを常にこころにおいて、それに従うとき、私たちは神様と共に生きることができます。(KE)

私たちが神様のもとに立ち返ることを切に待っておられます

12月7日

「あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。」ヨエル2:13bc

 創世のはじめより、これほど人を愛し、慈しみ、顧みてくださる神様がどこにおられるでしょうか。神様は祟ったり、罰をあたえるだけの過酷で無情な方では決してありません。むしろ、私たちが神様のもとに立ち返ることを切に待っておられます。それは神様を離れているかぎり、幸いがないことを知っておられるからです。また、神様のもとこそ、いのちがあふれているのです。(KE)

神様のみ手にすっぽりと命まで預けましょう

12月6日

「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。」エレミヤ32:27

  聖書は一貫してすべてが神様によって造られたものであることを語り続けています。そこには人の知恵や力、計画やわざなど、微塵も入る余地はありません。神様のなさることが人の目には粗雑にして、大ざっぱで隙間だらけに見えますが、神様のなさりようは緻密にして精巧、無駄も、失敗も、過剰なことも、何一つありません。自分で思い煩うことをやめ、神様のみ手にすっぽりと命まで預けましょう。楽になりますよ。(KE)

しもべである私たちはもっぱら主人の憐れみを待つほかありません

12月5日

「見よ、しもべがその主人の手に目をそそぎ、はしためがその主婦の手に目をそそぐように、われらはわれらの神、主に目をそそいで、われらをあわれまれるのを待ちます。」詩篇123:2

 神様と私たちの関係は創造者と被造物との関係でありますが、同時に主人としもべでもあります。しもべである私たちはもっぱら主人の憐れみを待つほかありません。主人の恵みを受ける値打ちも資格もない者ですが、今日も、しもべとなりきって、主の憐れみをいただくものとなりましょう。(KE)

ことばほどその人の品格を表すものはありません

12月4日

わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。」詩篇19:14

 目に見える行動もさることながら、ことばほどその人の品格を表すものはありません。それはどのように作られるのでしょうか。家柄や育ちではなく、その人が誰を、何を前にして生きているかによるのです。見えない神様のまなざしを自覚しているならば、激情にかられたり、高慢な思いにとらわれることは決してありません。言葉を聞いておられるのみならず、心をも知りたもう神様を常に覚えてください。(KE)

命がけで主に従うことが新しい命に生きる道です

12月3日

「そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。」ルカ5:11

 イエス様はゲネサレ湖で漁をしていたペテロたちを招いて弟子としました。彼らはイエス様に従うにあたって、生活の根幹である舟など一切を捨てました。一口でそうは言うものの、自分の身に当てはめると、あなたはできますか。しかし、これほどに命がけで主に従うことが新しい命に生きる道です。中途半端に従っているかぎり、なにも得ることができません。思い切って、大胆に主の御声に答えようではありませんか。(KE)

イエス様は「あなたはどうなのか」と問われます

12月2日

「彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』。」ヨハネ8:7

 罪の現場で捕らえられた女をイエス様のもとにつれてきました。激しく糾弾する人々に向かって語られた言葉です。正義を振りかざすとき、人は自分を義とするか、あるいは自分を除外しているものです。イエス様は「あなたはどうなのか」と問われます。私たちも、まず「私はどうなのか」と自ら問いたいものです。そうすれば正しい道が見えます。(KE)

大切なのは神様を「どのように信じるか」です

12月1日

「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。」使徒17:24

 信仰とは神様を信じることであると言えますが、大切なのは神様を「どのように信じるか」です。万物の創造者、天地の主と信じるなら、まことに幸いです。神様を人よりも少しできる方くらいに思うのであれば、その信仰も同じく矮小なものとなります。人の意のままに神様を動かせると思うのは、とんでもない間違いです。神様を神様として信じる正しい信仰に立つとき、あなたは強くなれます。(KE)