モーセに期待するところがあり神様の偉大なわざを始めるためです

2月16日

「神は言われた、『ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである』。」出エジプト3:5

 モーセはホレブの山で野火のごとく燃えている柴が燃え尽きないのを見て、不思議に思って近づいた時、神様の声を聴きました。「足からくつを脱ぎなさい」と。裸足になるのは奴隷になることでした。神様はモーセに絶対服従を求めたのです。モーセに期待するところがあり、神様の偉大なわざを始めるためです。私たちを用いて事をなそうとしておられる神様は、徹底的に従う者を求めています。(KE)

私たちも「うしろをふりかえる」と失敗します

2月15日

「彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、『のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない』。」創世記19:17

 ソドムの町が滅ぼされるとき、ロトの家族だけは神様の憐みを受け、救い出されましたが、その時、神の使いは「うしろをふりかえって」見てはならないと命じました。ところが、ロトの妻は逃げる途中でうしろを見たため、塩の柱になったとあります。私たちも「うしろをふりかえる」と失敗します。常に、顔を前に向けて、まっすぐに前進しましょう。過去にとらわれないで。(KE)

先が見えないとき問われるのは神様を信頼しているか、ということです

2月14日

「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」イザヤ43:19

 神様のなさることを始めから終わりまで見通すことはできません。先が見えないことで不安や恐れを抱きますが、そこで問われるのは神様を信頼しているか、ということです。人の経験や知識を超えた驚くことをなさいます。しかも、「新しい事」です。それは私たちに恵みをもたらすわざです。今、困難な状況にあっても、それも神様の手にあることを信じて新しい業を大いに期待したいものです。(KE)

なにげなく、自分の思いのままにしたことも神様が許しておられることです

2月13日

「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。」マタイ10:29

 森羅万象、あらゆるものすべて、神様の支配のもとに置かれています。また、それらすべてに神様の意思、み思いが貫かれているのです。ありふれたスズメですら、神様のみ手に握られ、支配されています。ましてや、私たちの一挙手、一投足に至るまで、神様は知り尽くしておられ、御心を実行しています。なにげなく、自分の思いのままにしたことも、神様が許しておられることです。(KE)

自分がどんな者であるか、悟る者となりましょう

2月12日

「わざわいなるかな、彼らはおのれを見て、賢しとし、みずから顧みて、さとしとする。」イザヤ5:21

 人はどこまでも自己中心ですから、自分を賢い者、聡い者と思いやすいのです。客観的に見ることができません。そのために、他者からの意見や忠告を聞き入れないのです。傍で見ている人には滑稽ですが、本人はしごく真面目にそう思っているのですから、始末に負えません。“汝自身を知れ”とは昔の哲学者の言葉ですが、まさに自分がどんな者であるか、悟る者となりましょう。でなければ、災いの元です。(KE)

今年も神様の憐みで「今に至るまで」生かされているのです

2月11日

「その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、『主は今に至るまでわれわれを助けられた』と言って、その名をエベネゼルと名づけた。」サムエル上7:12

 祭司サムエルはペリシテ人との戦いに勝利したとき、それを記念して石塚を建てました。その名は「エベネゼル」。神様の恵みによってここまで助けられてきたことを忘れないように記憶し、感謝を表したのです。今年も神様の憐みで「今に至るまで」生かされているのです。感謝です。(KE)

わたしたちは喜べない、楽しめないでおります

2月10日

「しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。」イザヤ65:18

 神様の創造の目的はそれによってご自分が楽しみ、喜ぶためです。誰でも自分の喜びを分かち合いたいと願うものです。神様も同じで、わたしたちにも神様の創造を共に楽しみ、喜んでもらいたいのです。ところが、わたしたちは喜べない、楽しめないでおります。善なる神様の意図を信じられない、不信の罪があるからです。主の愛に触れるなら、事態は変わります。(KE)

神様の本意は常に「愛」なのです

2月9日

「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」エレミヤ29:11

 神様のわざを終わりまで見極めることはできません。今、目の前の事態がどういう結果につながっているか分からないゆえに、不安と恐れを抱きますが、神様は「わたしが知っている」と言われます。神様の本意は常に「愛」なのです。平安、将来、希望につながる今であることを信じてください。(KE)

神様に愛されたいなら、イエス様を愛すればいいのです

2月8日

「わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。」ヨハネ14:21bc

 イエス様を愛する者を父なる神様が愛してくださるとの約束です。神様に愛されたいなら、イエス様を愛すればいいのです。そればかりか、イエス様も神様に愛される者を愛してくださるというのですから、こんなうれしいことはありません。神様と御子イエス様とに愛され、御子との密接な交わりを通して、主を深く知ることができるのです。その第一歩が主のことばを信じることです。(KE)

愛する人のことばを最大限に信じ、それに従います

2月7日

「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。」ヨハネ14:21a

 イエス様を愛するとはどうすることか。それは実に簡単なことです。イエス様のことばを心に受け入れ、素直に従うだけです。人を愛する場合も同じです。愛する人のことばを最大限に信じ、それに従います。ことばはその人の分身のようなものです。イエス様のことばもイエス様の心を表していますから、これを自分の心におくとき、主と一つになります。まず、イエス様を愛する者となろうではありませんか。(KE)