4月30日
「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。」第一テモテ4:4
人が幸不幸というもの、良い悪いと決めるのは、人の勝手な区分けであって、そのもの自体の価値とは関係ありません。自分にとってどうであるかというにすぎないのです。神様が森羅万象を創造されたとき、「はなはだ良かった」と喜ばれました。有形無形、どんなものも、どんな状況や事態も神様の創造によるものです。それを感謝して受けるかどうか、あなたにかかっています。(KE)
4月30日
「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。」第一テモテ4:4
人が幸不幸というもの、良い悪いと決めるのは、人の勝手な区分けであって、そのもの自体の価値とは関係ありません。自分にとってどうであるかというにすぎないのです。神様が森羅万象を創造されたとき、「はなはだ良かった」と喜ばれました。有形無形、どんなものも、どんな状況や事態も神様の創造によるものです。それを感謝して受けるかどうか、あなたにかかっています。(KE)
4月29日
「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。」詩篇73:25-26
世にあっては、天涯孤独、頼るものなしという状態は悲惨なものです。しかし、人は本来孤独者というか単独者なのです。大家族に囲まれようとも、友人が多数居ても、それは変りません。ただ、神様を頼りとし、その方にしっかりつながるなら、孤独のようでそうではなく、単独であってそうではない強さを持つことが出来ます。(KE)
4月28日
「シオンにおり、エルサレムに住む民よ、あなたはもはや泣くことはない。主はあなたの呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される。主がそれを聞かれるとき、直ちに答えられる。」イザヤ30:19
なんと慰みに満ちた言葉ではないでしょうか。神様は十字架を立てて、隔ての壁を取り除いてくださいました。「泣くことはない」と。泣き声を聞かれた主は、私たちが主に呼ばわるのを待っておられます。しかも、答えようと約束しておられます。遠慮なく、躊躇せず、大胆に信頼して、大きな声で主を呼んでください。(KE)
4月27日
「だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい。」ピリピ4:1
このような情愛深い呼びかけを受ける者はだれでしょうか。実は、神様のあなたに対する呼びかけにほかなりません。自分に向けられたものと思うと、なんだか恥ずかしい気がしますが、このうえなく嬉しいではありませんか。こんな深い愛をもって、あなたを顧みていてくださるのです。今日も、見えるものに振り回されず、「主にあって」堅く立ち歩もうではありませんか。(KE)
4月26日
「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。」ヨハネ14:15
「愛する」とはどうすることでしょうか。おんぶに抱っこ、なでたりさすったりして、可愛がることでしょうか。みことばによれば、「愛する」とは、その人の「いましめ」を守ることです。広い意味で、その人の語ることばを信頼し、従うことです。目に見えない方である、イエス様を愛するなど、どうやればいいのか当惑しますが、実に単純明快なことです。ただ、聖書を通して語られる主のことばを守り行うとき、主に出会うのです。(KE)
4月25日
「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」ピリピ2:8
これはイエス様の生涯を語った一言です。主の生涯を現すキーワードは「従順」です。では、誰に対して「従順」なのでしょうか。それは父なる神様に対してです。神の位にあった御子が人となること自体、とてつもないことであり、人の世にあっても、自分の思いのままではなく、神様の御旨に徹底して従われました。十字架の死をも父のみこころと信じたのです。これは救いを受けた私たちの生き方でもあります。(KE)
4月24日
「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。」ローマ8:33
イエス様の十字架による罪の赦しは、なにひとつ不足のない完全なものです。この十字架によって赦されない罪はありません。しかし、赦しを信じつつも、なお自分を責めるものがあります。人は心の奥底にそのような赦されない思いをいだいて、自らを責めて苦しみます。そのような隠された罪にいたるまで、神様は知り尽くして十字架に処分してくださったのです。もはや誰も、何も、あなたを責めるものはありません。(KE)
4月23日
「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」ローマ12:21
イエス様は十字架の死と復活によって、ご自分の生き様を手本としてそれに倣うようにと、私たちに生き方を教えてくれました。その一つはこの言葉です。主は罪無き方でしたが、罪人、しかも極悪非道な犯罪者として極刑を受けましたが、決して弁解、言い訳、抗弁、罵詈雑言など、一言も口にせず、されるままに黙々と従いました。しかし、勝利者はイエス様でした。なぜなら、神様は義に従って裁き、報われるからです。(KE)
4月22日
「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」ヨハネ16:33bc
イエス様を信じたら、悩みや苦しみが無くなるかと問われます。世間では、信仰すれば楽になると期待されているので、なんと答えようか迷いますが、真実なところ、主を信じて救われても、悩みはなくなりません。時には信仰ゆえに、困難や苦しみが増します。ただ、イエス様は死からよみがえって、私たちと共に生きて、悩み苦しみに戦って、勝利させてくださいます。この喜びこそ、救です。(KE)
4月20日
「イエスは彼に答えて言われた、『わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう』。」ヨハネ13:7
最後の晩餐の席で、イエス様は弟子たちの足を洗いました。弟子たちは驚いて、何をしているのかと怪訝に思いました。それは主の十字架を語る行為だったのですが、その意味が分らなかったのです。神様は私達に相談して事を進める方ではありません。そのため、周章狼狽します。今、なぜだかわからないことも、あとになって全てが明らかになります。主を信じて待ちましょう。(KE)