11月30日
「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。」第二コリント9:6
まかないところから刈り取ろうとする愚かな人はいません。農作物は正直ですから、まいたらそれだけ収穫します。だから、多くまくなら多くを刈り取るでしょう。同様に、人生においても、多く手放し施すなら、必ず報われます。もう一つ大切なことは、刈り取ったらまこうとするのは無益です。まず、全てをご存じの神様を信じて、自分から手放すのです。(KE)
11月30日
「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。」第二コリント9:6
まかないところから刈り取ろうとする愚かな人はいません。農作物は正直ですから、まいたらそれだけ収穫します。だから、多くまくなら多くを刈り取るでしょう。同様に、人生においても、多く手放し施すなら、必ず報われます。もう一つ大切なことは、刈り取ったらまこうとするのは無益です。まず、全てをご存じの神様を信じて、自分から手放すのです。(KE)
11月29日
「おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。」第一コリント15:36
確かにどんな植物の種でも、一旦地に埋められ分解されて種の姿形がなくなることによって、新しい命がそだち芽生えてきます。私たちも生まれながらの自分のままであれば、いつまでも変わりません。自分を造り替えて新しくなりたいなら、今の自分を処分して新しい命、キリストに接がれなければなりません。そのために今の自分に「死ぬ」のです。今日も、事あるごとに、自分に死にキリストと共に生きようではありませんか。(KE)
11月28日
「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」ローマ8:34
イエス様は神の子でありながら、すべての人の罪をあがなう犠牲となってくださいました。それゆえに、到底近づき得ない神様に親しく接することができます。これはどんなものにも勝る恵みです。そればかりか、主は天に戻られて父なる神様の右にあってとりなして下さるのですから、こんな心強い味方はありません。今日も主の取り成しを信じて生きようではありませんか。(KE)
11月27日
「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。」ガラテヤ3:26
私たちが「神の子」と呼ばれるとは、なんと驚くべきことでしょうか。そもそも神様とは縁もゆかりもなかった者です。ただ、イエス様を主と信じる信仰によって与えられる身分です。それはただ主の十字架によるご犠牲のゆえによるものですから、私たちがどのような状態であろうと、取り消されません。心低くして、感謝しつつ、「神の子」である恵みを信仰によって今日も受けようではありませんか。(KE)
11月26日
「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」第二コリント3:18
救いの最終目的は救われた者たちが「主と同じ姿」になることです。考えると、途方もないことで、自分の努力や精進で達成できるものではありません。ところが、神様が私たちをそのように造り変えると言われるのですから、委ねるほかありません。ただし、ひたすら栄光の主を見つめ続けることが条件です。今日も、主を見上げつつ、走りましょう。(KE)
11月25日
「かのエジプトびとは人であって、神ではない。その馬は肉であって、霊ではない。主がみ手を伸ばされるとき、助ける者はつまずき、助けられる者も倒れて、皆ともに滅びる。」イザヤ31:3
エジプトはかつて権勢を誇り、不滅を思わせる大国でした。また、馬は戦力を表す象徴です。人はそのようなものに惑わされ、神様を忘れますが、なにものも神様にとって代わるものはありません。この世のものはひと時の繁栄を謳歌しても、夏草のごとく枯れてしまうのです。神様を畏れ尊ぶことに勝る幸いはありません。(KE)
11月24日
「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」詩篇119:71
苦しみにあうことが良い事とは驚きです。世の常識として、苦しみは避けたい、いやなことの第一です。誰もそれを好むものはいませんが、生きているかぎり苦しみは避けられません。となると、「苦しみ」もまた何か必要な役割があると言えます。神様のなさることに一つとして無駄なことはありません。ならば、むしろ「苦しみ」から積極的に収穫を得ようではありませんか。(KE)
11月23日
「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。」使徒3:19
本音と建前、表と裏などという言葉で人の心が掴みにくいことを表します。このように二つ、三つのものに心が分散するところに嘘偽りが生じ、「罪」という闇の力が働きます。「本心に立ちかえる」とは心が表裏一体、一つ心になることです。ときには、自分にとって苦しいことだったり、嫌だったりしますが、「本心」に生きるとき、平安があり、力を得ることができます。なによりも、神様に喜ばれるのです。(KE)
11月22日
「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。」第一コリント3:16
神様はイエス様を信じる私たちに、御霊を宿らせてくださいました。それはなにか特殊な力とか超自然のわざというものではなく、私たちの言葉や行動、感じ方や考え方など、全身的な影響を与える存在であって、それがどんなものかわかりませんが、必ず御霊の働きを結果として見ることはできます。私たちの功績や値打ちによっていただくものではなく、神様が一方的に与えてくださるものです。御霊の内住を信じることが大切です。(KE)
11月20日
「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」 エペソ2:10a
人はすべて神様の作品であり、神様のみこころに適うように仕組まれていたのですが、ウィルスが忍び込んでパソコンを狂わせるように、サタンが罪を投げ込んだのです。「良い行い」とは神様の喜ばれることですが、それをする力がありません。神様はイエス様を世に遣わして悪と罪を排除し、再び造りなおして下さいました。そればかりか、みこころを行う力(聖霊)を与えて下さいました。(KE)