神様がなさることは全てが益となるものばかりです

8月23日

「すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。」第二コリント4:15

 人は勝手に事の善し悪しを云いますが、神様がなさることは全てが益となるものばかりです。神様は私達を恵みたいと願っておられるからです。なぜなら、私達を感謝させることによって神様の栄光が現されるからです。嘆いたり、悲しんだり、失望したりしていては、神様の栄光とならないどころか、神様の名を汚します。今日も神様に恵まれて感謝に溢れましょう。(KE)

ところで、私達は神様にどれほど感謝しているでしょうか

「主に感謝し、そのみ名を呼び、そのみわざをもろもろの民のなかに知らせよ。」詩篇105:1

 私達の命をはじめとして、時間も財も、健康も性状性格もすべてが神様からの賜物であり、神様のわざによるものです。誰でも贈り物をいただくと、喜び感謝して「ありがとう」と云います。ところで、私達は神様にどれほど感謝しているでしょうか。あまりに感謝が無くて、恥ずかしいかぎりです。不平不満があろうと、まず神様に感謝し、どんなに小さなことであっても、主がしてくださったわざを褒め称え、多くの人に語りましょう。(KE)

人は人生にあって、自分の命に代えても引き受けざるを得ないことがあります

8月21日

「しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。」ヨハネ12:27d

 人は人生にあって、抜き差しならない事態に直面し、自分の命に代えても引き受けざるを得ないことがあります。イエス様の十字架もそのような時でした。自分の存在理由が問われるときです。そのとき、怖れたり、不安になり、逃げ出したくなるのは当然ですが、しかし、他の人が取って代われないのです。つらくとも、苦しくても、わたしは「このために、この時に」生かされたことを確信して、神様の求めに従いましょう。必ず勝利です。(KE)

神様はご自分のわざを見せるためにこのような状態に置かれたのです

8月20日

「イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである』。」ヨハネ9:3

 生まれながら目の見えない人の原因は神様にあると、主は言われます。神様はご自分のわざを見せるためにこのような状態に置かれたのです。不足している、欠けていると思うどのようなことでも、神様を前に置いて見るとき、事態が変わってきます。マイナスからプラスへと変わります。弟子達の視点とイエス様の視点との違いは神様をどこに置くかです。(KE)

神様はご自分の民とするために旗を立てて私達を招いて下さいました

8月19日

「主は旗をあげて遠くから一つの国民を招き、地の果から彼らを呼ばれる。見よ、彼らは走って、すみやかに来る。」イザヤ5:26

 人が待ち合わせるとき、よく目につくものを目標にします。しかも高く掲げられたものほど分かりやすい。神様はご自分の民とするために旗を立てて私達を招いて下さいました。その旗こそイエス様の十字架です。この旗を目指して集まる者たちを救ってくださるためです。「すみやかに」主の招きに応じて旗の下に参集しようではありませんか。(KE)

その怒りは、本人にしてみれば自分の命すら惜しくないほど重大なことだと思いこんでいます

8月18日

「怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。」詩篇37:8

 人が怒ったり、憤るとき、その原因を探ると、なんともつまらない原因であることが多い。冷静になって考えると、どうしてこんなことで怒ったのかと恥ずかしくなることばかりです。しかし、ご本人にしてみれば自分の命すら惜しくないほど重大なことだと思いこんでいます。そこには神様を忘れて、自分が神様になっていると云うほかありません。自尊心、義侠心、正義感など、何一つ人の徳を高めるものではありません。(KE)

人は何を捧げることが出来るでしょうか

8月17日

「もしその供え物が牛の燔祭であるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。」レビ1:3a

 旧約時代、神様への捧げものを定めた律法の一節です。ここで強調されていることは、神様への捧げものは完全なものでなければならないことです。人に対して贈り物をするとき、出来るだけ良いものをと心がけます。ましてや、相手は神様ですから、微細な不足も許されない。となると、人は何を捧げることが出来るでしょうか。不可能です。しかし、幸いなことにイエス様は私達のために全き供え物となったのです。感謝、感謝!(KE)

アブラハムもただ神様のことばを信じて踏み出したのです

8月16日

「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。」 ヘブル11:8

 信仰によって生きるとき、それはある種の“賭け”のようなものです。見えないものを信じて、みことばに従うのですから、かなり冒険的であり、無謀なことに思われます。アブラハムも神様から召されたとき、ただ神様のことばを信じて踏み出したのです。いつまでも、見えるもの、計算できるものばかりに頼っていると信仰に立てません。あなたも神様の真実に賭けてみませんか。(KE)

主が歩まれた道を同じようにたどることを努めていくなら、必ず報われます

8月15日

「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。」第一ペテロ2:21

 私たちが信仰に立って生きようとするとき、手本とするモデルが必要です。お手本に倣うことがその道に上達する秘訣です。それがまさにイエス様です。主が歩まれた道を同じようにたどること、それを努めていくなら、必ず報われます。ただ、主の道は十字架への道でもあります。(KE)

遠慮無く神様の懐に飛び込んで求めようではありませんか

8月14日

「わたしのいのちをお守りください。わたしは神を敬う者だからです。あなたに信頼するあなたのしもべをお救いください。あなたはわたしの神です。」詩篇86:2

 確信をもって神様に求め、迫っています。これが信仰です。「わたしは神を敬う者」、「あなたのしもべ」、「わたしの神です」と。私たちにはこれほどの自信があるでしょうか。確かに、現実の自分を見ればこう言えないのは分かりますが、限りない大きな愛を戴いている私たちですから、遠慮無く神様の懐に飛び込んで求めようではありませんか。(KE)