4月19日
「そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、『ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ』。」マルコ11:9 過越しの祭りのために、エルサレムへ来られたイエス様を群集が迎えました。しかし、この後、彼らは「十字架につけよ」と叫ぶのです。なんと大きな落差でしょうか。理解しがたいことですが、それは二千年以上も昔の人々のことではなく、私たちのことです。祝福と呪いが同じ口から出ます。自分勝手なご都合によってどんなにでも変るところに、主を死に追いやる人の罪があります。(KE)
4月19日
「そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、『ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ』。」マルコ11:9 過越しの祭りのために、エルサレムへ来られたイエス様を群集が迎えました。しかし、この後、彼らは「十字架につけよ」と叫ぶのです。なんと大きな落差でしょうか。理解しがたいことですが、それは二千年以上も昔の人々のことではなく、私たちのことです。祝福と呪いが同じ口から出ます。自分勝手なご都合によってどんなにでも変るところに、主を死に追いやる人の罪があります。(KE)
4月18日
「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」第二テモテ3:12
イエス様を信じて、神様中心の信仰生活をしようとすると、この世の人々と妥協できないところが生じてきます。むしろ、そのような軋轢がない信仰なら、毒にも薬にもなりません。だからといって、闇雲に対立、争いを引き起こすものではありません。これは譲れないという確固とした一線があります。枝葉のことに囚われず、無くてはならない信仰の中心をしっかり守ろうではありませんか。(KE)
4月17日
「兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。」ガラテヤ4:28
イサクはアブラハムに与えられた子です。高齢で不妊であった彼らに、神様は約束を成就してくださいました。彼には女奴隷ハガルによって生れたイシマエルがいます。この子は神様の約束ではなく、人の欲によって生れた者です。私たちも肉によって生れた者でしたが、イエス様の十字架のあがないを信じて、神様の約束によって神の子とされました。私たちは父祖アブラハムの受けた祝福を受け継ぐ者、イサクの末裔です。(KE)
4月16日
「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。」ヨハネ7:37
「かわく」とは身体的に「のどが渇いた」ことを言っているのではありません。心が「かわく」という意味です。生きる喜びがない、望みがない、満足できないなど、物質的に境遇が恵まれていても、生きること自体に空虚さを覚える状態です。なにか病気でもあれば、治療すればいいことですが、病的なものではない虚無感が心にあるとき、それを癒すのは神様との関係を正しくする以外にありません。それはイエス様によるのです。(KE)
4月15日
「母は僕(しもべ)たちに言った、『このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい』。」ヨハネ2:5
イエス様がカナの村で水をぶどう酒に変える奇跡を行われましたが、そのときマリヤさんが語ったことばです。この後、この僕たちはイエス様の言われることをそのまま実行しました。必要のない水を甕(かめ)に汲み入れました。奇跡が起るとき、そこに必ず忠実に従う者たちがいます。この僕たちがいなければ、この奇跡は起らなかったでしょう。あなたもこのしもべの一人になってください。(KE)
4月14日
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。」マタイ7:24
これはイエス様の譬えですが、家を建てるとき、地盤や土台が大切だと誰もが知っています。では、人生の土台はどうでしょうか。主は砂の上に建てた愚かな人のことも語っています。お金や健康、友達や親族などの人間関係などを土台とするなら、それは砂の上です。地震や暴風雨に遭うとすぐに壊れ、流されます。主のみことばを土台とする人生こそ、どんなことにも不動のものです。(KE)
4月13日
「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。」ローマ8:29a
神様の救いの最終目標は私たちをキリストに似るものとすることです。それはまた神様の性質に似るものでもあります。そのために神の霊、聖霊を送ってくださいました。今、どこをとってもキリストのかたちはありませんが、神様の目標を自覚して、御霊(聖霊)の導きにしたがうとき、私たちは造りかえられます。日々、少しでもキリストに似るものになりたいと願います。(KE)
4月12日
「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ』。」イザヤ40:3
「荒野」「さばく」とはまさに私達の日々の生活ではないでしょうか。そこには慰めも、安らぎもなく、望みもありません。困難と苦しみの地です。しかし、そのなかに「道」を、「大路」を備え、まっすぐにせよと言われます。神様に対する姿勢はどうであるかと問われるのです。「荒野」「さばく」と思われる事態や状況におかれるとき、まず神様に向き合う態度を点検し、主を待ち望みましょう。(KE)
4月11日
「また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである。」マルコ4:20
イエス様が語られた「種まき」の譬えを説き明かされたものです。種はどれであっても同じですが、どこに蒔かれたかによって結果が違ってきます。道端や石地などでは成長も期待できません。良く耕され柔らかな畑地に蒔かれるなら、まさに「一粒万倍」、農夫の喜びは格別です。種は御言のこと。あなたの心は種の命を育む良き地になっていますか。(KE)
4月10日
「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。」マタイ6:11
主の祈りの一節です。世界には飢餓に苦しむ多くの人々がいますが、幸いに私たちはそのような食糧危機とかかわりなく生活しています。だから、この祈りは関係ないとはいえません。これは日々の糧が神様から備えられたものであることを告白するものです。自分の勤労や努力で獲得したものではなく、神様が私たちを哀れんで必要を満たしてくださったことを感謝する祈りにほかなりません。食事のたびごとに、この恵みを深く覚えましょう。(KE)