1月21日
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に、」伝道12:1
私たちは自分の力や努力、周囲の人々のお蔭で生きていると思っているので、思い通りにいかない、予期しないことに出会うと、うろたえ、思い煩い、憤ります。しかし、私たちは造られた者ですから、造り主が定めておられることしかできないのです。被造物であることに徹底したいものです。そのために必要なのは、「造り主」を認めることです。(KE)
1月21日
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に、」伝道12:1
私たちは自分の力や努力、周囲の人々のお蔭で生きていると思っているので、思い通りにいかない、予期しないことに出会うと、うろたえ、思い煩い、憤ります。しかし、私たちは造られた者ですから、造り主が定めておられることしかできないのです。被造物であることに徹底したいものです。そのために必要なのは、「造り主」を認めることです。(KE)
1月20日
「イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる』。」ヨハネ11:25
人は死んで再び生きることはできません。だから、肉体的な死から、生き返る意味ではなく、「よみがえり」とは新しい人生を生きることです。イエス様に出会うことによって、それまでとは違う生き方、価値観、世界がかわります。まさに、「よみがえり」です。それはイエス様を心に信じて、生活の隅から隅まで、ことごとくのなかに、自分ではなくイエス様を置き、従う事がよみがえりです。(KE)
1月19日
「すると女は言った、『主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます』。」マタイ15:27
カナンの女がイエス様に娘の病気を癒してくれと頼みましたが、すげなく断られました。ところが、この人は何を言われようと、ますますイエス様に求めたのです。イエス様以外に助かる見込みはないと必死に懇願し、犬と呼ばれてもそれを踏み越えていく信仰姿勢をイエス様は感歎されました。私たちもこの女の人に倣って、とことん身を低くして、あきらめずに主を求めようではありませんか。(KE)
1月18日
「イエスは答えて言われた、『「人はパンだけでは生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と書いてある』。」マタイ4:4
人が生きるとは肉体的な状況が不自由なく動きまわり、生活ができることだと思われています。いわば健康と命とが直結したものです。一方、イエス様は荒野でサタンの誘惑を受けた時、人が生きるのは魂、霊魂が神様からの力に満たされることだと体験したのです。霊魂は神様の性質に似たものだから、神様の言葉を通して命である力があたえられて精気に満ちたものとなります。(KE)
1月17日
「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」ヨハネ6:38
キリストにならう、イエス様を模範にして、などと言われることがあります。そう言われると、「そうなのか」と分かった気になりますが、では具体的に何をすることでしょうか。その答えがこの言葉です。イエス様は父なる神様に徹底して従いました。自分の損得、利害、命をかえりみず、ひたすら神様の「みこころ」を求め、それに従ったのです。ここをならう者になりましょう。(KE)
1月16日
「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。」第一ペテロ5:5c
最近の中東アラブ世界での出来事を見ていると、長期期間、政権の座にあって唯我独尊と言わんばかりの指導者が崩れていく様子に、神様の厳粛な御業を思います。これは国家的な規模の話ですが、私たちの小さな世界(家庭)でも起こっていることです。神様の前に高ぶる、己を神とする姿はかの為政者たちと同じです。時間空間を超えて、神様の義が徹底して貫かれることを覚えておきましょう。神様は侮るべきものではありません。(KE)
1月15日
「愛する者たちよ。もし心に責められるようなことがなければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。」第一ヨハネ3:21
日々の生活を送るうえで、もっとも幸いなことは心に平安があり、穏やかであることです。常に心が騒ぎ、苛立ち、失望の闇に閉ざされるなら、外的条件が恵まれていようと、その生活は悲惨です。そうならないように、しっかりと心を動かないものにしておきたい。ことに、心に責めを感じるなら、誤魔化さないで素直に神様の許しをいただいて、躓きの石を取り除けましょう。(KE)
1月14日
「試練を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」ヤコブ1:12
人生には思いがけないことや嫌なことがたくさんあります。それらは神様の備えられたことであって、試練を通してしか味わえない恵みを与えるためです。そのために、試練にあるとき、忍耐しなければなりませんが、忍(しの)ぶにしても先に対する希望がなければ耐えられません。忍耐する支えとなるのは、いのちの冠、天国への望みです。永遠のいのちこそ、目指すべきものです。(KE)
1月13日
「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。」詩篇139:1
神様はどんなことでも知っておられる全知なる方です。もちろん、あるかないか分からない私たちをも、ことごとくつぶさに知っておられます。考えると怖い話ですが、一方、だからこそ安心でもあります。神様の前にはなにも隠せないのです。それなのに隠せると思うところに神様を侮る罪があります。都合の悪いところは隠しておきたいと人は思いますが、神様には通用しませんから、こちらも裸になって、神様にすべてを打ち明けましょう。(KE)
1月12日
「わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、『わたしはここにいる、わたしはここにいる』と。」イザヤ65:1
まことの神様は私たちを造られた方でありますから、被造物である私たちが神様を求め、知ってほしいと願っています。ですから、いろんな時に、様々な方法で神様がいますことを表しておられます。大切なのは、私たちが神様を知りたいと切に願うことです。求めるなら、身近なところで神様に会うことができます。(KE)