8月5日
「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。」詩篇27:14
万物は神様によって造られ、保たれ、動かされています。私たちの日常生活すら、神様のご支配のもとで過ぎていくのです。どんなに小さなことでも神様によらないものはありません。だから、人の理解できないことがあるのは当然のことです。すべての事象の背後に、神様の御心を認めて、次なるわざを期待していくのが信仰です。人の浅はかな知恵や知識で先走らずに、主が備えて下さる「時」と「わざ」を待ち望みましょう。(KE)
8月5日
「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。」詩篇27:14
万物は神様によって造られ、保たれ、動かされています。私たちの日常生活すら、神様のご支配のもとで過ぎていくのです。どんなに小さなことでも神様によらないものはありません。だから、人の理解できないことがあるのは当然のことです。すべての事象の背後に、神様の御心を認めて、次なるわざを期待していくのが信仰です。人の浅はかな知恵や知識で先走らずに、主が備えて下さる「時」と「わざ」を待ち望みましょう。(KE)
8月4日
「わが子よ、わたしの言葉を守り、わたしの戒めをあなたの心にたくわえよ。」箴言7:1
人が命にあふれて生きるのは、神様からの命が注がれるときです。その命は神様のことば、即ちみことばです。聖書のことばほど、不思議なものはありません。解るとか、解らないにかかわらず、単純に信じてみことばをしっかり握っていると、思いがけない知恵や力、慰めや望みなどが湧いてきます。大切なことは単純素朴に信じることであって、理解し納得しようとすると、命が消えます。みことばを頭にではなく、心に置いて下さい。(KE)
8月3日
「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」ローマ4:25
イエス様は罪のない神の御子でしたが、わたし達を救うために十字架にかかり、墓に葬られました。しかし、三日目の朝早くよみがえられたのです。この“死”と“よみがえり”は私たちのものです。イエス様を信じるとき、主の死とよみがえりに一体化され、不義なるわたし達がキリストの義を纏い、無代価で永遠の命に導かれるのです。これこそ福音です。(KE)
8月2日
「それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。」ローマ8:12
私たちはこの世にあって生きる使命を与えられています。使命を与えたのは神様ですから、神様に対して果たすべき責任があります。自分の欲望を満たし、夢を実現するために生きているのではなく、その使命を果たすことが私たちの生きる目的です。だから、常に自らの生き方を点検して、目的からぶれないようにしっかり信仰にたって歩みましょう。(KE)
8月1日
「ペテロが行った、『金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい』。」使徒3:6
足のきかない人が神殿へ向かう道で物乞いをしていました。「歩く」とは生きることです。人は金銀で生きると思いがちですが、それでは自分の足で立てません。いつまでも他人の情けに頼ることになります。しかし、イエス・キリストを信じて、み言葉を支えとして生活する時、何ものにも支配されず、自由闊達に生きることができます。これこそ自立した人の人生です。(KE)
7月31日
「彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである。」ヨハネ12:43
世の慣例に従っていれば、事は順調に進みますが、神様の御旨に従おうとすると、様々な障害にぶつかります。「神のほまれ」か「人のほまれ」か、どちらかを選ばなければなりません。私たちは目に見える結果である人のほまれを好みますが、それは目先のことであって、瞬く間に消えてしまいます。しかし、神様のほまれはすぐそのときに結果が見えませんが、天に宝を積むことになり、永遠の命につながっています。神のほまれを求めてください。(KE)
7月30日
「そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか。」ルカ12:26
“小さな事”とは寿命をのばすことです。神様にとって、そんなことはいとも簡単ですが、人にはできません。そうでありながら、いくらかでも自分は出来ると思いあがるため、思いわずらうのです。自分にはなにも出来ないことを認めて、全能者である神様に全面降伏するとき、平安になります。思いわずらうのは人が神様を押しのけているときです。だから、神様は私たちが思いわずらうことを好まれないのです。(KE)
7月29日
「信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」ヤコブ2:17
信仰と言うと、信じれば良いのだから、頭の中でのことと思われがちです。“信じます”と言いつつ、口先ばかりで行動が伴わなければ“信じる”ことになりません。人の言葉を信じるにしても同じです。なにかの約束をしても、それを信じて具体的な行動がなければ結果を得られません。聖書の言葉を信じて、実際の生活や態度を自ら変えようとしなければ単なる“絵に描いた餅”です。(KE)
7月28日
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。」ヨハネ15:16ab
救いを求めてイエス様のもとに来るわけですが、それはあくまでも私たちの理由にすぎません。今、神様を信じ、イエス様に従う者となったのは神様の一方的な選びによるのであり、そうなるようにと、はるか以前から決めてくださったのです。神様が選んだのですから、私たちがどのような者であっても選択責任は神様にあります。だから、神様は私たちを捨てることができないのです。主の選びによることを感謝し、御手に委ねましょう。(KE)
7月27日
「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。」第一コリント9:19
イエス様の救いによって、完全な自由を与えられました。その意味は束縛がないというばかりではなく、自由であるがゆえにあえて自ら不自由を選び取ることでもあります。自由という言葉に対立するものとして、奴隷と語られていますが、自分の積極的な意思によって奴隷になることを選び取ることができるなら、それこそが完全な自由と言えます。(KE)