イエス様はまずあなたが「与えよ」先鞭をつけよと言われます

8月2日

「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。」ルカ6:38ab

 人は手放したり、減らすことを恐れます。そのため「ケチ」と陰口をたたかれます。保守的になるため、自分から何かを仕掛けたり、身銭を切って新境地を開こうともしません。イエス様はまずあなたが「与えよ」、先鞭をつけよと言われます。この一歩が出ないためにますます乏しくなってしまうのです。神様はまず御子を遣わしてご愛を見せてくれました。そのように、私たちも損をする道をまず選ぼうではありませんか。(KE)

神様の救いは招きに対して応答する時、成就するのです

8月1日

「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。」 マタイ22:14

 イエス様は「罪人を救うために来た」と言われます。私たちは例外なくみな罪人です。だから、救いへの門戸はすべての人のために開かれているのです。言うならば、「招かれる者」が多いのです。しかし、自分が罪人であると自覚し、へりくだって救いを求める人がいません。「選ばれる者」は少ないのです。神様の救いは招きに対して応答する時、成就するのです。今、神様からの招待がすでに出されています。あなたはどのように答えるのでしょうか。(KE)

主であるイエス様に仕えるには自分を捨てなければ出来ません

7月31日

「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。」ヨハネ12:26ab  

仕える者が主人のそばにおるのは当然のことです。イエス様を主と信じるなら、主のおられるところに私たちもおるべきです。主であるイエス様に仕えるには自分を捨てなければ出来ません。主が「行く」と言われるところ、それが十字架のゴルゴタであっても忠実な僕になりきって仕えていこうではありませんか。主は必ずそれに報いてくださいます。(KE

それは、王がまず神様を求めたからです

7月30日

「わたしはまたあなたの求めないもの、すなわち富と誉をもあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちのうちにあなたに並ぶ者はないであろう。」  列王上3:13

 神様はソロモン王に何を与えようかと尋ねました。王は「聞きわける心」と「善悪をわきまえること」を求めました。神様は彼の願いを聞きいれたばかりか、求めなかった富も名誉ももらいました。それは、王がまず神様を求めたからです。神様の知恵、悟り、力を求めて、御心に従うとき、その他のものまで惜しみなく与えてくださいます。(KE)

失意と落胆、孤独の中にあるとき、そこにこそ神様は居られたのです

7月29日

「ヤコブは眠りからさめて言った、『まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった』。」創世記28:16

 兄エサウと敵対することになったヤコブは、一人で家を出て叔父のラバンの家を目指して旅をしました。道中、荒野で野宿した時、神様は親しくヤコブに声をかけ、ご自身をあらわされた。失意と落胆、孤独の中にあるとき、そこにこそ神様は居られたのです。万策尽きて、失望し、何も望めないとき、まさに神様に出会う恵みのときです。今日、あなたがそのような状態にあるなら、神様はそばにおられます。(KE)

この世は麦と毒麦の混じった麦畑のようなところです

7月28日

「だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。」マタイ13:40

 麦をまいたはずなのに毒麦が混じっていたというイエス様の譬え話です。収穫のときに選別することになりました。これは世の終わりのときのことで、御使たちが刈り取り、毒麦は火で焼かれるのです。この世は麦と毒麦の混じった麦畑のようなところですが、やがて最後の審判のときがきます。そのとき、あなたは麦でしょうか、毒麦でしょうか。永遠の御国に入ることが出来るように、今日も良き麦となってください。(KE)

彼は自分にとって今何が大切であるかを知っていました

7月27日

「ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。」ルカ16:8

  ご主人から解雇されそうになった執事が、主人に借りのある人たちを呼び、負債が半分になるように証書を書き換えました。こうして恩義を売っておけば、イザというとき、助けが得られると思ったのです。彼は自分にとって今何が大切であるかを知っていました。だから、不正なやり方であっても、無くてはならないものを手に入れました。あなたは今日何のために力を尽くしますか。(KE)

しかし、信仰は自分が信じようと願ってもそうはなりません

7月26日

「使徒たちは主に『わたしたちの信仰を増してください』と言った。」ルカ17:5

 信仰とは簡単に言えば「神様を信じる」ことですが、これが結構難しいのです。運転免許のような技能や学校での知識などは、自分が努力すれば人並みに身につきます。しかし、信仰は自分が信じようと願ってもそうはなりません。なぜなら、信仰は神様が与えてくださる恵みだからです。使徒たちのように、主に求めなければ得られません。だから、神様に信じさせてくださいと、謙遜に祈り求めてください。必ず、信じる力を与えられます。(KE)

身を切るような苦しみに会って、永遠の命につながるならば、これほどの幸いはありません。

7月25日

「両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。」マタイ18:8b

 この言葉の前半には「片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい」と言われています。まことに厳しい言葉ですが、永遠の滅びを思うなら、そのくらいは実に小さいことです。身を切るような苦しみに会って、物欲的な世界から離れ、永遠の命につながるならば、これほどの幸いはありません。だから、病気や事故などで不便な生活をしいられるとも、不足や欠乏を嘆かず、霊に生きる者となりましょう。(KE)

きっと苦しみの中に思いがけない宝が隠されているかもしれません

7月24日

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」詩篇119:71

 「苦しみに会う」ことは嫌なことであり、避けたいことです。しかし、苦しまないことの方が極めて珍しいのが現実です。となると、それを避けるより、果敢に立ち向かってはどうでしょう。きっと苦しみの中に思いがけない宝が隠されているかもしれません。殊に、神様に出会い、その大きな愛を知り、内なる人が清められるとするなら、苦しみにあったことは良いことだと言えるのではないでしょうか。(KE)