3月30日
「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、…」エペソ2:1
私たちは皆神様に似る者として、神の像(かたち)にかたどられ、造られた者です。神様とつながって生きる者でありながら、神様に背いて命を失い、「罪過と罪とによって死んでいた」者です。しかるに、神様は限りない愛のゆえに、十字架を立て、死の原因を取り除いたのです。そればかりか、イエス様が文字通り墓からよみがえられたように、死んでいた私たちをよみがえらせ、新しい命に生きる者として下さいます。(KE)
3月30日
「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、…」エペソ2:1
私たちは皆神様に似る者として、神の像(かたち)にかたどられ、造られた者です。神様とつながって生きる者でありながら、神様に背いて命を失い、「罪過と罪とによって死んでいた」者です。しかるに、神様は限りない愛のゆえに、十字架を立て、死の原因を取り除いたのです。そればかりか、イエス様が文字通り墓からよみがえられたように、死んでいた私たちをよみがえらせ、新しい命に生きる者として下さいます。(KE)
3月29日
「イエスは言われた、『それをここに持ってきなさい』。」マタイ14:18
大ぜいの群衆がイエス様の話を聞きに集まりました。時間がたち夕方になりました。空腹になった人々の様子をみて、主は弟子たちに食物を与えるように命じました。しかし、彼らのもとには二匹の魚と五つのパンしかなかったのです。なんの役にも立たない僅かなものでも、それを主の手にゆだねて、祝福を受けるとき、想像を超えた結果となります。あなたの小さな力を主の手にゆだねて、主の祝福を求めてください。主はそれを驚くほどのものに変えてくださいます。(KE)
3月28日
「神のみわざを考えみよ。神の曲げられたものを、だれがまっすぐにすることができるか。」伝道7:13
神様のわざは人の願う事とはかけ離れた場合が多くあります。だからといって、みわざを自分の思いに添わせることはできません。また、神様がなさることを妨げたり、変更することも不可能です。しかし、神様のわざは私たちへの限りなき愛から出たものですから、これ以上に素晴らしいものはありません。神様の愛を信じて、与えられたわざを受けるとき、感謝することができます。(KE)
3月27日
「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」 ローマ8:32
ひとり子すらも惜しまず、私たちの罪のために贖罪の犠牲とされた神様ほど気前のよい方はおられません。勿論、それは私たちに対する限りない愛のゆえであります。それほどの方が何をしみったれたことをなさるでしょうか。私たちの思うより、願うより、もっと勝ったことをして下さらないはずはありません。この方が後ろ盾となってくださっていることを信じましょう。(KE)
3月26日
「こうして、主の言(ことば)はますます盛んにひろまって行った。」 使徒12:24
み言葉が広まっていくこと、これが伝道です。み言葉を抜きにした教理・教説を説いたところで、人は救われません。単純にみ言葉を自分に語られたものと信じて従うとき、み言葉に込められた命をくみ取り、神様の性質へと私たちを変えてくださるのです。だから、どんなに高尚な論説よりも、み言葉を伝えることができれば、それが最善にして最高のわざです。あなたがいただいている神の言葉を伝え広めようではありませんか。(KE)
3月25日
「そして言われた、『聞く耳のある者は聞くがよい』。」マルコ4:9
「聞こえる」のと「聞く」のとでは大きな違いです。ただ音が聞こえるだけでなく、聞こえる音がどんな意味なのかを探り知ろうとすること。これが「聞く耳のある者」という意味です。語られている言葉の表面的な意味を理解するだけでなく、その言葉を通して伝えられる使信(メッセージ)を悟ることが求められます。聖書の言葉、イエス様の言葉はまさにそのような聞き方をすべきものです。み言葉は人を生かし、力と希望を与えてくれます。(KE)
3月24日
「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マタイ9:13b
イエス様がこの世に来られたのは罪人を救うためでした。ただ、イエス様の救いをいただくには自分が罪びとであるとの自覚がなければ得られません。本来、人はすべて罪人でありますが、多くの人々はそのことに気がつかず、自分を「義人」、罪なき者としていますから、イエス様とは関係がないのです。罪とは神様から離れて、人が自分勝手に生きようとすることです。その結果、具体的な悪が生まれてきます。主は今日も「罪人」を招いています。(KE)
3月23日
「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。」黙示21:1
使徒ヨハネは聖霊に満たされて終末に続く幻を見ました。天も地も全てが消滅し、その代わりに「新しい天と新しい地」が備えられると言うのです。言うならば、終末が終わりではなく、新しい始まりなのです。となると、なんだか楽しくなるではありませんか。どのような新天新地であるか、具体的にはわかりませんが、神の都エルサレムと言われるように、神様の栄光に満ちた所に違いありません。終わりの時を大いに期待したいものです。(KE)
3月22日
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。」第一ヨハネ4:18
「愛」と「恐れ」は全く相反するものです。夫婦であれ、親子であれ、恋人同士であっても、その関係に恐れが潜んでいるなら、愛が全うされていません。「完全な愛」は恐れを乗り越え、それを消し去ってしまいます。このような愛はどこにあるのでしょうか。それはただ十字架に表された神様の愛以外にありません。神様の愛に満たされるとき、あなたも愛の人となることができます。(KE)
3月21日
「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。」ルカ6:31
この言葉は日常生活の行動基準と言ってもよいでしょう。殊に、「…せよ」とは積極的に関わるあり方です。“触らぬ神に祟りなし”とか、“見ざる、言わざる、聞かざる”などに見られる消極的な逃げの構図とは反対です。イエス様は神の位を離れて、あえて人の世に降り、私たちの人生の真っただ中に飛び込み、積極的に干渉してくださるものとなったのです。私たちの望んでいることを成し遂げるために命をも賭けてくださったのです。(KE)