命がけで主に従うことが新しい命に生きる道です

12月3日

「そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。」ルカ5:11

 イエス様はゲネサレ湖で漁をしていたペテロたちを招いて弟子としました。彼らはイエス様に従うにあたって、生活の根幹である舟など一切を捨てました。一口でそうは言うものの、自分の身に当てはめると、あなたはできますか。しかし、これほどに命がけで主に従うことが新しい命に生きる道です。中途半端に従っているかぎり、なにも得ることができません。思い切って、大胆に主の御声に答えようではありませんか。(KE)

イエス様は「あなたはどうなのか」と問われます

12月2日

「彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』。」ヨハネ8:7

 罪の現場で捕らえられた女をイエス様のもとにつれてきました。激しく糾弾する人々に向かって語られた言葉です。正義を振りかざすとき、人は自分を義とするか、あるいは自分を除外しているものです。イエス様は「あなたはどうなのか」と問われます。私たちも、まず「私はどうなのか」と自ら問いたいものです。そうすれば正しい道が見えます。(KE)

大切なのは神様を「どのように信じるか」です

12月1日

「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。」使徒17:24

 信仰とは神様を信じることであると言えますが、大切なのは神様を「どのように信じるか」です。万物の創造者、天地の主と信じるなら、まことに幸いです。神様を人よりも少しできる方くらいに思うのであれば、その信仰も同じく矮小なものとなります。人の意のままに神様を動かせると思うのは、とんでもない間違いです。神様を神様として信じる正しい信仰に立つとき、あなたは強くなれます。(KE)

全てをご存じの神様を信じて、自分から手放すのです

11月30日

「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。」第二コリント9:6

 まかないところから刈り取ろうとする愚かな人はいません。農作物は正直ですから、まいたらそれだけ収穫します。だから、多くまくなら多くを刈り取るでしょう。同様に、人生においても、多く手放し施すなら、必ず報われます。もう一つ大切なことは、刈り取ったらまこうとするのは無益です。まず、全てをご存じの神様を信じて、自分から手放すのです。(KE)

今の自分を処分して新しい命、キリストに接がれなければなりません

11月29日

「おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。」第一コリント15:36

 確かにどんな植物の種でも、一旦地に埋められ分解されて種の姿形がなくなることによって、新しい命がそだち芽生えてきます。私たちも生まれながらの自分のままであれば、いつまでも変わりません。自分を造り替えて新しくなりたいなら、今の自分を処分して新しい命、キリストに接がれなければなりません。そのために今の自分に「死ぬ」のです。今日も、事あるごとに、自分に死にキリストと共に生きようではありませんか。(KE)

どんなものにも勝る恵みです

11月28日

「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」ローマ8:34

 イエス様は神の子でありながら、すべての人の罪をあがなう犠牲となってくださいました。それゆえに、到底近づき得ない神様に親しく接することができます。これはどんなものにも勝る恵みです。そればかりか、主は天に戻られて父なる神様の右にあってとりなして下さるのですから、こんな心強い味方はありません。今日も主の取り成しを信じて生きようではありませんか。(KE)

ただ、イエス様を主と信じる信仰によって与えられる身分です

11月27日

「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。」ガラテヤ3:26

 私たちが「神の子」と呼ばれるとは、なんと驚くべきことでしょうか。そもそも神様とは縁もゆかりもなかった者です。ただ、イエス様を主と信じる信仰によって与えられる身分です。それはただ主の十字架によるご犠牲のゆえによるものですから、私たちがどのような状態であろうと、取り消されません。心低くして、感謝しつつ、「神の子」である恵みを信仰によって今日も受けようではありませんか。(KE)

委ねるほかありません

11月26日

「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」第二コリント3:18

 救いの最終目的は救われた者たちが「主と同じ姿」になることです。考えると、途方もないことで、自分の努力や精進で達成できるものではありません。ところが、神様が私たちをそのように造り変えると言われるのですから、委ねるほかありません。ただし、ひたすら栄光の主を見つめ続けることが条件です。今日も、主を見上げつつ、走りましょう。(KE)

なにものも神様にとって代わるものはありません

11月25日

「かのエジプトびとは人であって、神ではない。その馬は肉であって、霊ではない。主がみ手を伸ばされるとき、助ける者はつまずき、助けられる者も倒れて、皆ともに滅びる。」イザヤ31:3

 エジプトはかつて権勢を誇り、不滅を思わせる大国でした。また、馬は戦力を表す象徴です。人はそのようなものに惑わされ、神様を忘れますが、なにものも神様にとって代わるものはありません。この世のものはひと時の繁栄を謳歌しても、夏草のごとく枯れてしまうのです。神様を畏れ尊ぶことに勝る幸いはありません。(KE)

「苦しみ」もまた何か必要な役割があると言えます

11月24日

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」詩篇119:71

 苦しみにあうことが良い事とは驚きです。世の常識として、苦しみは避けたい、いやなことの第一です。誰もそれを好むものはいませんが、生きているかぎり苦しみは避けられません。となると、「苦しみ」もまた何か必要な役割があると言えます。神様のなさることに一つとして無駄なことはありません。ならば、むしろ「苦しみ」から積極的に収穫を得ようではありませんか。(KE)