1月24日
「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。」申命記8:17
人は恵まれ、物事が順調になり、豊かになると高慢になりやすいものです。殊に、神様の前に高ぶるとき、必ず失敗します。バビロンのネブカデネザル王もそのために苦しみを味わいました。また、ヘロデ王はそのために命を失いました。神様の憐みと慈しみのゆえに、与えられた恵みですから、栄光を主に帰して、溢れるばかりに感謝しようではありませんか。豊かになった時こそ、危ういときです。(KE)
1月24日
「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。」申命記8:17
人は恵まれ、物事が順調になり、豊かになると高慢になりやすいものです。殊に、神様の前に高ぶるとき、必ず失敗します。バビロンのネブカデネザル王もそのために苦しみを味わいました。また、ヘロデ王はそのために命を失いました。神様の憐みと慈しみのゆえに、与えられた恵みですから、栄光を主に帰して、溢れるばかりに感謝しようではありませんか。豊かになった時こそ、危ういときです。(KE)
1月23日
「見よ、わたしはあなたを練った。しかし銀のようにではなくて、苦しみの炉をもってあなたを試みた。」イザヤ48:10
ダイヤモンドや金銀など、貴重なものは、はじめからそのようなものとしてあったのではなく、最初は見栄えもなく、泥や石に混ざり合って何一つ値打ちあるものに見えません。しかし、それをさまざまな方法で純度を高め、雑物を削り取って繰り返し磨き、取り出すと高価な貴金属や宝石となります。取れる量はほんのわずかで、捨てるものがはるかに多いのです。神様は私たちをそのようなものに作り替えておられます。(KE)
1月22日
「岩の裂け目、がけの隠れ場におるわがはとよ、あなたの顔を見せなさい。あなたの声を聞かせなさい。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」雅歌2:14
「岩」はキリスト、「裂け目」は十字架で裂かれたキリストの体です。そこを隠れ場にしているのは私たちです。主は私たちを「はと」と呼んでくれます。しかも、あなたの顔をみせ、声をきかせよと。イエス様が私たちと直接交わることを求めておられます。ところが、主に見られまいと隠れ、覆いをかけるようなことをしています。素直に、主の呼びかけに答えましょう。(KE)
1月21日
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に、」伝道12:1
私たちは自分の力や努力、周囲の人々のお蔭で生きていると思っているので、思い通りにいかない、予期しないことに出会うと、うろたえ、思い煩い、憤ります。しかし、私たちは造られた者ですから、造り主が定めておられることしかできないのです。被造物であることに徹底したいものです。そのために必要なのは、「造り主」を認めることです。(KE)
1月20日
「イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる』。」ヨハネ11:25
人は死んで再び生きることはできません。だから、肉体的な死から、生き返る意味ではなく、「よみがえり」とは新しい人生を生きることです。イエス様に出会うことによって、それまでとは違う生き方、価値観、世界がかわります。まさに、「よみがえり」です。それはイエス様を心に信じて、生活の隅から隅まで、ことごとくのなかに、自分ではなくイエス様を置き、従う事がよみがえりです。(KE)
1月19日
「すると女は言った、『主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます』。」マタイ15:27
カナンの女がイエス様に娘の病気を癒してくれと頼みましたが、すげなく断られました。ところが、この人は何を言われようと、ますますイエス様に求めたのです。イエス様以外に助かる見込みはないと必死に懇願し、犬と呼ばれてもそれを踏み越えていく信仰姿勢をイエス様は感歎されました。私たちもこの女の人に倣って、とことん身を低くして、あきらめずに主を求めようではありませんか。(KE)
1月18日
「イエスは答えて言われた、『「人はパンだけでは生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と書いてある』。」マタイ4:4
人が生きるとは肉体的な状況が不自由なく動きまわり、生活ができることだと思われています。いわば健康と命とが直結したものです。一方、イエス様は荒野でサタンの誘惑を受けた時、人が生きるのは魂、霊魂が神様からの力に満たされることだと体験したのです。霊魂は神様の性質に似たものだから、神様の言葉を通して命である力があたえられて精気に満ちたものとなります。(KE)
1月17日
「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」ヨハネ6:38
キリストにならう、イエス様を模範にして、などと言われることがあります。そう言われると、「そうなのか」と分かった気になりますが、では具体的に何をすることでしょうか。その答えがこの言葉です。イエス様は父なる神様に徹底して従いました。自分の損得、利害、命をかえりみず、ひたすら神様の「みこころ」を求め、それに従ったのです。ここをならう者になりましょう。(KE)
1月16日
「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。」第一ペテロ5:5c
最近の中東アラブ世界での出来事を見ていると、長期期間、政権の座にあって唯我独尊と言わんばかりの指導者が崩れていく様子に、神様の厳粛な御業を思います。これは国家的な規模の話ですが、私たちの小さな世界(家庭)でも起こっていることです。神様の前に高ぶる、己を神とする姿はかの為政者たちと同じです。時間空間を超えて、神様の義が徹底して貫かれることを覚えておきましょう。神様は侮るべきものではありません。(KE)
1月15日
「愛する者たちよ。もし心に責められるようなことがなければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。」第一ヨハネ3:21
日々の生活を送るうえで、もっとも幸いなことは心に平安があり、穏やかであることです。常に心が騒ぎ、苛立ち、失望の闇に閉ざされるなら、外的条件が恵まれていようと、その生活は悲惨です。そうならないように、しっかりと心を動かないものにしておきたい。ことに、心に責めを感じるなら、誤魔化さないで素直に神様の許しをいただいて、躓きの石を取り除けましょう。(KE)