2月7日
「彼は拝して言った、『あなたは、しもべを何とおぼしめして、死んだ犬のようなわたしを顧みられるのですか』。」サムエル下9:8
ダビデが王位についたとき、かつての親友ヨナタンの家族を捜したところ、足の不自由なメピボセテだけが生存していました。王は彼を王宮に住まわせ、王の食卓で食事をさせたのです。それはヨナタンに対するダビデの愛情から出た行為でした。私たちも御子イエス様のゆえに、父なる神様から破格の恵みをいただいています。メピボセテのように謙遜になって神様に感謝しましょう。(KE)
2月7日
「彼は拝して言った、『あなたは、しもべを何とおぼしめして、死んだ犬のようなわたしを顧みられるのですか』。」サムエル下9:8
ダビデが王位についたとき、かつての親友ヨナタンの家族を捜したところ、足の不自由なメピボセテだけが生存していました。王は彼を王宮に住まわせ、王の食卓で食事をさせたのです。それはヨナタンに対するダビデの愛情から出た行為でした。私たちも御子イエス様のゆえに、父なる神様から破格の恵みをいただいています。メピボセテのように謙遜になって神様に感謝しましょう。(KE)
2月6日
「わたしは主であって、あなたをいやすものである。」 出エジプト15:26b
人は病気を恐れ、そのためはやく健康になろうと、医者や薬に頼ります。確かにそれによって症状は軽くなり、快癒します。そのため、人の力と知恵で病気を支配し、不老長寿を得ることができると思い違いをしています。医者の知恵や薬効は神様の与え給う賜物であって、神様の許しがあればこそ効力を発揮し、治癒するのです。病気が長引き、治らないのは、そのことに神様の深い御思いがあるからです。神様の憐みを求め祈ってくだい。(KE)
2月5日
「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」ローマ12:21
イエス様は十字架の死と復活によって、ご自分の生き様を手本としてそれに倣うようにと、私たちに生き方を教えてくれました。その一つはこの言葉です。主は罪無き方でしたが、罪人、しかも極悪非道な犯罪者として極刑を受けましたが、決して弁解、言い訳、抗弁、罵詈雑言など、一言も口にせず、されるままに黙々と従いました。しかし、勝利者はイエス様でした。なぜなら、神様は義に従って裁き、報われるからです。(KE)
2月4日
「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」ヨハネ16:33bc
イエス様を信じたら、悩みや苦しみが無くなるかと問われます。世間では、信仰すれば楽になると期待されているので、なんと答えようか迷いますが、真実なところ、主を信じて救われても、悩みはなくなりません。時には信仰ゆえに、困難や苦しみが増します。ただ、イエス様は死からよみがえって、私たちと共に生きて、悩み苦しみに戦って、勝利させてくださいます。この喜びこそ、救です。(KE)
2月3日
「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」ピリピ2:8
これはイエス様の生涯を語った一言です。主の生涯を現すキーワードは「従順」です。では、誰に対して「従順」なのでしょうか。それは父なる神様に対してです。神の位にあった御子が人となること自体、とてつもないことであり、人の世にあっても、自分の思いのままではなく、神様の御旨に徹底して従われました。十字架の死をも父のみこころと信じたのです。これは救いを受けた私たちの生き方でもあります。(KE)
2月2日
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」ヨハネ14:1
イエス様が最後の晩餐の席で語られた最初の言葉です。これから心を騒がせる事態が始まろうとしていました。そのなかで平安を得る秘訣はただ「神を信じ」またイエス様を信じることです。人や事柄を信じるのではなく、神様に、主に「賭ける」のです。私たちも思いがけない出来事や、願わない事態に周章狼狽し、心を騒がせます。主は今日も「神を信じ、またわたしを信じなさい」と、あなたに語っています。(KE)
2月1日
「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。」ローマ8:33
イエス様の十字架による罪の赦しは、なにひとつ不足のない完全なものです。この十字架によって赦されない罪はありません。しかし、赦しを信じつつも、なお自分を責めるものがあります。人は心の奥底にそのような赦されない思いをいだいて、自らを責めて苦しみます。そのような隠された罪にいたるまで、神様は知り尽くして十字架に処分してくださったのです。もはや誰も、何も、あなたを責めるものはありません。(KE)
1月31日
「イエスは彼に答えて言われた、『わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう』。」ヨハネ13:7
最後の晩餐の席で、イエス様は弟子たちの足を洗いました。弟子たちは驚いて、何をしているのかと怪訝に思いました。それは主の十字架を語る行為だったのですが、その意味が分らなかったのです。神様は私達に相談して事を進める方ではありません。そのため、周章狼狽します。今、なぜだかわからないことも、あとになって全てが明らかになります。主を信じて待ちましょう。(KE)
1月30日
「そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、『ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ』。」マルコ11:9
過越しの祭りのために、エルサレムへ来られたイエス様を群集が迎えました。しかし、この後、彼らは「十字架につけよ」と叫ぶのです。なんと大きな落差でしょうか。理解しがたいことですが、それは二千年以上も昔の人々のことではなく、私たちのことです。祝福と呪いが同じ口から出ます。自分勝手なご都合によってどんなにでも変るところに、主を死に追いやる人の罪があります。(KE)
1月29日
「しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。」ヨハネ16:32cd
この言葉の前に「わたしをひとりだけ残す時がくるであろう」とあります。主は寝食を共にした弟子たちが去っていくことを知っておられました。何とも悲しい事態ですが、主は決して泣き言をいいません。その秘訣はこの言葉にあります。父なる神様と共にいる確信。これがイエス様の力の源泉です。あなたの愛する人も、信頼する人も、早晩離れて行きます。そのとき、あなたは共におられる方を知っていますか。(KE)