11月27日
「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。」ガラテヤ3:26
私たちが「神の子」と呼ばれるとは、なんと驚くべきことでしょうか。そもそも神様とは縁もゆかりもなかった者です。ただ、イエス様を主と信じる信仰によって与えられる身分です。それはただ主の十字架によるご犠牲のゆえによるものですから、私たちがどのような状態であろうと、取り消されません。心低くして、感謝しつつ、「神の子」である恵みを信仰によって今日も受けようではありませんか。(KE)
11月27日
「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。」ガラテヤ3:26
私たちが「神の子」と呼ばれるとは、なんと驚くべきことでしょうか。そもそも神様とは縁もゆかりもなかった者です。ただ、イエス様を主と信じる信仰によって与えられる身分です。それはただ主の十字架によるご犠牲のゆえによるものですから、私たちがどのような状態であろうと、取り消されません。心低くして、感謝しつつ、「神の子」である恵みを信仰によって今日も受けようではありませんか。(KE)
11月26日
「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」第二コリント3:18
救いの最終目的は救われた者たちが「主と同じ姿」になることです。考えると、途方もないことで、自分の努力や精進で達成できるものではありません。ところが、神様が私たちをそのように造り変えると言われるのですから、委ねるほかありません。ただし、ひたすら栄光の主を見つめ続けることが条件です。今日も、主を見上げつつ、走りましょう。(KE)
11月25日
「かのエジプトびとは人であって、神ではない。その馬は肉であって、霊ではない。主がみ手を伸ばされるとき、助ける者はつまずき、助けられる者も倒れて、皆ともに滅びる。」イザヤ31:3
エジプトはかつて権勢を誇り、不滅を思わせる大国でした。また、馬は戦力を表す象徴です。人はそのようなものに惑わされ、神様を忘れますが、なにものも神様にとって代わるものはありません。この世のものはひと時の繁栄を謳歌しても、夏草のごとく枯れてしまうのです。神様を畏れ尊ぶことに勝る幸いはありません。(KE)
11月24日
「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」詩篇119:71
苦しみにあうことが良い事とは驚きです。世の常識として、苦しみは避けたい、いやなことの第一です。誰もそれを好むものはいませんが、生きているかぎり苦しみは避けられません。となると、「苦しみ」もまた何か必要な役割があると言えます。神様のなさることに一つとして無駄なことはありません。ならば、むしろ「苦しみ」から積極的に収穫を得ようではありませんか。(KE)
11月23日
「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。」使徒3:19
本音と建前、表と裏などという言葉で人の心が掴みにくいことを表します。このように二つ、三つのものに心が分散するところに嘘偽りが生じ、「罪」という闇の力が働きます。「本心に立ちかえる」とは心が表裏一体、一つ心になることです。ときには、自分にとって苦しいことだったり、嫌だったりしますが、「本心」に生きるとき、平安があり、力を得ることができます。なによりも、神様に喜ばれるのです。(KE)
11月22日
「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。」第一コリント3:16
神様はイエス様を信じる私たちに、御霊を宿らせてくださいました。それはなにか特殊な力とか超自然のわざというものではなく、私たちの言葉や行動、感じ方や考え方など、全身的な影響を与える存在であって、それがどんなものかわかりませんが、必ず御霊の働きを結果として見ることはできます。私たちの功績や値打ちによっていただくものではなく、神様が一方的に与えてくださるものです。御霊の内住を信じることが大切です。(KE)
11月20日
「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」 エペソ2:10a
人はすべて神様の作品であり、神様のみこころに適うように仕組まれていたのですが、ウィルスが忍び込んでパソコンを狂わせるように、サタンが罪を投げ込んだのです。「良い行い」とは神様の喜ばれることですが、それをする力がありません。神様はイエス様を世に遣わして悪と罪を排除し、再び造りなおして下さいました。そればかりか、みこころを行う力(聖霊)を与えて下さいました。(KE)
11月19日
「すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。」第一コリント6:12
私たちはキリストに従う以外に、なにものにも支配されません。だからと言って、気ままで放縦になることではなく、むしろ主に喜ばれることに精力を尽くします。それこそが本当の意味での自由だからです。人は常に何かにすがりますし、なにが益になるかも知り得ません。ゆえに、ただイエス様にすがり、知恵を与えてもらうのです。(KE)
11月18日
「イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』。」ヨハネ20:29
私たちは目で見て、耳で聞き、手で触りなど、五感を通していろんな事象を理解し納得しようとします。その結果、わからないこと、理解できないことを出来るだけ排除します。自分が確かだと言えないものは信じようとしません。信仰に立つとは見えない世界、理解を越えた世界、自分をこえた領域に踏み出すことです。ただ、めくらめっぽうにではなく、神様のことばを信じて未知の世界へ踏み出すのです。(KE)
11月17日
「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」ヨハネ3:18
神様のさばきとはなにか特別な事態に遭うことではありません。それを選び取っているのは、当事者である私たちです。イエス様を信じればそのごとく救われ、恵みをいただきますが、信じなければ、そのこと自体がその人にとって不幸な結果だからです。ただ、それに気が付いていないのです。信じるか信じないか、こればかりは他人はどうにもできません。(KE)