「本心」に生きるとき、平安があり、力を得ることができます

11月23日

「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。」使徒3:19

 本音と建前、表と裏などという言葉で人の心が掴みにくいことを表します。このように二つ、三つのものに心が分散するところに嘘偽りが生じ、「罪」という闇の力が働きます。「本心に立ちかえる」とは心が表裏一体、一つ心になることです。ときには、自分にとって苦しいことだったり、嫌だったりしますが、「本心」に生きるとき、平安があり、力を得ることができます。なによりも、神様に喜ばれるのです。(KE)

神様が一方的に与えてくださるものです

11月22日

「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。」第一コリント3:16

 神様はイエス様を信じる私たちに、御霊を宿らせてくださいました。それはなにか特殊な力とか超自然のわざというものではなく、私たちの言葉や行動、感じ方や考え方など、全身的な影響を与える存在であって、それがどんなものかわかりませんが、必ず御霊の働きを結果として見ることはできます。私たちの功績や値打ちによっていただくものではなく、神様が一方的に与えてくださるものです。御霊の内住を信じることが大切です。(KE)

「良い行い」をする力が人にはありません。

11月20日

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」 エペソ2:10a

 人はすべて神様の作品であり、神様のみこころに適うように仕組まれていたのですが、ウィルスが忍び込んでパソコンを狂わせるように、サタンが罪を投げ込んだのです。「良い行い」とは神様の喜ばれることですが、それをする力がありません。神様はイエス様を世に遣わして悪と罪を排除し、再び造りなおして下さいました。そればかりか、みこころを行う力(聖霊)を与えて下さいました。(KE)

むしろ主に喜ばれることこそが本当の意味での自由だからです

11月19日

「すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。」第一コリント6:12

 私たちはキリストに従う以外に、なにものにも支配されません。だからと言って、気ままで放縦になることではなく、むしろ主に喜ばれることに精力を尽くします。それこそが本当の意味での自由だからです。人は常に何かにすがりますし、なにが益になるかも知り得ません。ゆえに、ただイエス様にすがり、知恵を与えてもらうのです。(KE)

信仰に立つとは自分をこえた領域に踏み出すことです

11月18日

「イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』。」ヨハネ20:29

 私たちは目で見て、耳で聞き、手で触りなど、五感を通していろんな事象を理解し納得しようとします。その結果、わからないこと、理解できないことを出来るだけ排除します。自分が確かだと言えないものは信じようとしません。信仰に立つとは見えない世界、理解を越えた世界、自分をこえた領域に踏み出すことです。ただ、めくらめっぽうにではなく、神様のことばを信じて未知の世界へ踏み出すのです。(KE)

それを選び取っているのは、当事者である私たちです

11月17日

「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」ヨハネ3:18

 神様のさばきとはなにか特別な事態に遭うことではありません。それを選び取っているのは、当事者である私たちです。イエス様を信じればそのごとく救われ、恵みをいただきますが、信じなければ、そのこと自体がその人にとって不幸な結果だからです。ただ、それに気が付いていないのです。信じるか信じないか、こればかりは他人はどうにもできません。(KE)

僕たちのイエス様に従う従順さと忠実さがあったからなされたことです

11月16日

「母は僕(しもべ)たちに言った、『このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい』。」ヨハネ2:5

 イエス様は僕たちに甕いっぱいに水を汲ませました。その中から桶一杯を料理人のところへ持って行かせたところ、良質のブドウ酒になっていました。水がブドウ酒になるという奇跡が行われたのですが、僕たちのイエス様に従う従順さと忠実さがあったからなされたことです。今も、僕たちのようにイエス様の言葉に忠実に従うなら、奇跡といわれる結果を得ることができます。(KE)

実を結ぶ秘訣はイエス様につながることです

11月15日

「すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから』。」 ルカ13:8

 ブドウ畑の隅に植えられたイチジクの木が実らないため、主人は切り倒そうとしますが、園丁はとりなして猶予を願いました。私たちこそ場所ふさぎで、役立たない存在です。神様はすぐにでも切り倒したいほどでしょう。しかし、ただ御子イエス様の命を賭したお取り成しのゆえに、今年も猶予されたのです。実を結ぶ秘訣はイエス様につながることです。今年こそ実を結びましょう。(KE)

それぞれ託されたものを用いて収穫した僕達は、主人から称賛されました

11月14日

「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。」マタイ25:21

 これはタラントの譬えです。主人がしもべたちにそれぞれタラントを預けて出かけました。やがて帰宅した主人は僕たちと清算したのです。主人の意図を知ってそれぞれ託されたものを用いて収穫した僕達は、主人から称賛されました。これは私たちのことです。主人である神様が清算されるときが来ます。しっかり、主人の意図に従って喜ばれたいものです。(KE)

何をよりどころにして生きるかが人生のあり方を決めることになります

11月13日

「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」第二コリント5:7

 「歩く」とは生活することです。日々、何をよりどころにして生きるかが人生のあり方を決めることになります。目で見るところ、理解できる範囲、多数の趨勢など、様々な条件に左右されながら生きていますが、ただそれだけであれば、実に小さなものでしかありません。もう一つ、目に見えないもの、神様を信じて無なる地平、未知なる空間へ踏み出す時、人生の風景は激変します。あなたも神様のみわざを体験する冒険へ踏み出しましょう。(KE)