3月6日
「そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。」第二コリント5:15
イエス様の救いは私たちの生きる目的を変えてしまうものです。人は生まれながらに自分のために生きるものとなっています。それが諸悪の根源である自己中心な生きざまに落ち込むのです。イエス様を信じるとき、生きる目的がよみがえった主のためにいきるものとなります。イエス様と言うプリズムを通して自分を受容するのです。(KE)
3月6日
「そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。」第二コリント5:15
イエス様の救いは私たちの生きる目的を変えてしまうものです。人は生まれながらに自分のために生きるものとなっています。それが諸悪の根源である自己中心な生きざまに落ち込むのです。イエス様を信じるとき、生きる目的がよみがえった主のためにいきるものとなります。イエス様と言うプリズムを通して自分を受容するのです。(KE)
3月5日
「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』。」ルカ23:34
イエス様が十字架に掛けられたとき、最初に語った言葉です。ここに十字架の目的がはっきり示されたのです。イエス様は罪の赦しのために捧げられた犠牲となられたのです。その功績のゆえに、滅びるべきものが生かされるのです。主は常に父なる神様の右に座して、私たちのためにとりなして下さっています。十字架こそが私たちのいのちの道です。赦されている自分であると自覚しましょう。(KE)
3月4日
「そこで、イエスは彼に言われた、『あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる』。」マタイ26:52
ゲツセマネの園にイエス様を捕らえようと群衆がやってきました。イエス様のそばにいた者が剣を抜いて切りかかりました。主はそれを止めて言われた言葉です。剣を取ることはイエス様の道とは相反する道です。しかし、当時の多くの人々は剣の道(革命や内戦)を望んでいたでしょう。そのため、十字架上のイエス様の姿に失望し、怒りを抱きました。主は父なる神様の壮大なみわざにゆだねておられたのです。(KE)
3月2日
「イエスを裏切ったユダが答えて言った、『先生、まさか、わたしではないでしょう』。イエスは言われた、『いや、あなただ』。」マタイ26:25
人は愚かな者で、自分が何をしているか、それがどんな結果になるかを悟ることができません。ユダもはっきり主から指摘されながら、まだ気づかないのです。これほどあからさまに言われていながら、やってしまうのはユダばかりではありません。神様から細い声で警告を聞きながら、それを聞き流して、自分の感情や欲望に支配される姿こそユダであり、私たちです。(KE)
3月2日
「しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。」ヨハネ13:14
最後の晩餐と言われる席で、イエス様は弟子たちの足を洗いました。十字架の清めを語る行為でもあり、汚れた足を洗うことによって、その人の弱さや欠点を補い、支えることでもあります。人は喜びを共有することもできませんし、ましてや他者の負の部分を共有することも不可能に思えますが、主は命がけでそれを成し遂げてくださったのです。主は「互いに」と言われます。(KE)
3月1日
「彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。」マルコ12:25
人が死ぬとき、全てが消え去って無になるのではありません。魂は神様のもとへ帰ると語られています。やがて万物が終わるとき(世の終わり)すべての魂は霊の体によみがえり、神様の前に立たせられます。その後、永遠のみ国で神様に仕えるもの(御使のごとく)として生きるのです。決して、地上の生活を再現するのではありません。聖書はそのように語っています。信じる者は幸いです。(KE)
2月29日
「そして彼らに言われた、『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」マタイ21:13
過ぎ越しの祭りのためにエルサレムへ来られたイエス様は、神殿で商売している人々を追い払いました。彼らは犠牲の動物を売ったり、献金の両替をしていた商人です。礼拝に来る人の便宜を図っていたのですが、その結果、神様をないがしろにする罪を犯したのです。合理主義は役に立ちますが、神様を敬うにはむしろ弊害となります。いろんな場面でこのご都合主義が見え隠れします。ご用心。(KE)
2月28日
「十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」第一コリント1:18
神様はイエス様の十字架を信じる者を義とし、罪をことごとくゆるしてくださると言われます。しかし、十字架は二千年以上も前のことであり、そんなことを信じても意味がないと言う人もいます。そうであるかぎり救われません。滅びです。滅びるくらいなら、信じてみてはどうでしょうか。主の十字架によって、私は赦された者であると信じるとき、後付で救われた喜びが湧いてきます。(KE)
2月27日
「もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう。」マタイ21:3
イエス様はエルサレム近くで、弟子たちに子ろばを引いてくるように命じました。ろばは他の動物と違って何一つ取り柄のないもので、労働に使役されるだけです。まさに私たちの姿です。しかし、主は十字架への道行のために選んでくださったのです。栄光のわざのためにイエス様が私たちを必要としておられます。ろばの子になりきって、イエス様に手綱を握っていただきましょう。(KE)
2月26日
「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である。」イザヤ45:7
神様は私たちの想像を超えた大きな存在です。この方をどのように語ればよいか、言葉がありません。天も地も、宇宙も、森羅万象ことごとくを創造し、それらを一分一厘狂いなく持ち運んでおられます。今日もこの方によって造られ、生かされ、有らしめられているのです。人の世の幸・不幸も例外なくこの方によって創造されているのです。人間のわざ、知恵、力によるものはありません。(KE)