神様の本意は常に「赦そう」としておられるのです

7月7日

「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。」ヨナ3:10

 ヨナは悪に満ちたニネベに行き、神様の怒りを伝えるよう命じられましたが、勝手にタルシシへ逃げました。しかし、不思議な取り扱いでニネベに来て、神様の警告を伝えました。人々が悔い改めたので、神様は心を変えました。神様の本意は常に「赦そう」としておられるのです。決して懲罰を加えようとなさるのではありません。神様の深い思いを悟って、赦しを受けてください。(KE)

信じるとは石を取り除けることです

7月6日

「イエスは彼女に言われた、『もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか』。」ヨハネ11:40

 ラザロは死んで墓に葬られていました。イエス様は来られて、墓の石を取り除けなさいと命じました。しかし、マルタもマリヤもイエス様を信じていましたが、目に見える現実の事態に引っぱられ、石を取り除けようとしません。しかし、信じるとは石を取り除けることです。具体的な行為を伴わない信仰は死んだものです。石を取り除けた結果、ラザロは死からよみがえったのです。(KE)

塩はその本来のききめがなければ、無用なものです

7月5日

「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。」 マタイ5:13ab

 塩はその本来のききめがなければ、無用なものです。部屋の飾りにもなりません。また、眺めて楽しむものでもありません。同様に、私たちも創造者である神様の意図に適って生きるのではなければ、まさに無用なものです。塩は腐敗防止や味を調えるのに必要不可欠です。私たちもこの世にあって「塩」の役割を果たす者となりたい。それが造られた者の使命だからです。(KE)

人それぞれに個性があり、必ずしも好ましいものばかりとはかぎりません

7月4日

「されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。」イザヤ64:8

 「十人十色」と言いますが、人それぞれに個性があり、特徴があります。それらは必ずしも好ましいものばかりとはかぎりません。人に嫌われる性情・性格だったりしますが、それもまた大切な個性でもあります。金太郎飴のように、同じ形で同じ色ばかりなら、これほどつまらないものはありません。神様は名陶器師です。一つとして同じものはありません。あなたもみ手のわざです。(KE)

イザというときに、役に立たない信仰だったら、むしろ無いほうがいいかもしれません

7月3日

「イエスは彼らに言われた、『あなたがたの信仰は、どこにあるのか』。」ルカ8:25a

 ガリラヤ湖を舟で渡っていたとき、突然の風に翻弄され、死ぬかと思うほど恐れを感じ、弟子たちは大慌てで、眠っていたイエス様を起こしました。主は風と荒浪とを叱り、なぎになりました。これはその時の主の言葉です。イザというときに、役に立たない信仰だったら、むしろ無いほうがいいかもしれません。そうならないために、日々、信仰に立つ訓練をつとめようではありませんか。(KE)

イエス様の嫌われることの一つは、形式主義になることです

7月2日

「人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである。」マタイ12:12

 イエス様の嫌われることの一つは、教条主義というか、形式主義になることです。安息日を守る律法に忠実なあまり、苦しむ人を助けようとしないパリサイ人を非難しました。規則や言い伝えを守ることは大切ですが、しかし、そのために身動き取れなくなるのは本末転倒です。聖書のことばも表面的な意味に縛られず、背後にある神様のみ思いを汲み取ってください。神様の語り掛けですから。(KE)

想像しなかったほどの物質的繁栄を得ましたが、大切な心を失いました

7月1日

「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。」 箴言17:1  

人生を生きるにあたって何を大切なものとするか、価値観の問題でもあります。戦後、物の豊かさ、生活の快適さを求めて労苦してきました。今や、想像しなかったほどの物質的繁栄を得ましたが、大切な心を失いました。国のあり様から、個人の生活に至るまで、不安、苛立ち、暴力、孤独などに取り囲まれ、虚脱感が蔓延して、生きる命を失ったのです。まず今日の一日から、命を取りもどす選択をしましょう。(KE)

これは私たちの命がどこにあるかを示唆したものです

6月30日

「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」 創世記2:7

  神様が人を創造されたとき、まず「土のちり」で造られましたが、それだけで生きることはできません。これは私たちの命がどこにあるかを示唆したものです。その後、「命の息」が吹き込まれて、人は生きるものとなるのです。人はただ物質的な存在ではなく、霊的な存在であります。今日も、神様から与えられる「命の息」、聖霊に満たされて生きようではありませんか。(KE)

神様は徹底して人を愛している方です

6月29日

「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。」第一テモテ2:4

 怒りっぽくて、気まぐれで、苛酷な怖い神様を想像しがちですが、決してそうではなく、神様は徹底して人を愛している方です。神様がどんなに深い愛を持っておられるかはイエス様の姿を通して知ることができます。勿論、神様ですから永遠の滅びに定める権威ある峻厳な方です。何事もいい加減になさる方ではありません。それゆえに、神様の愛が尊く、輝いているのです。神様のあなたに対する熱烈な愛を感じてください。(KE)

しかし、信仰に立つとき、条件や境遇は揃わなくても、全てが神様によって進められると信じるのです

6月28日

「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」第二コリント5:7

 信仰によって歩くとは神様を信じて生きることです。一方、見えるものとは自分の置かれた境遇や与えられた能力などです。何か事を始めるとき、万事万端納得し、これで大丈夫と言える条件を満たして踏み出す。これが見えるものによる生き方です。しかし、信仰に立つとき、そのような条件や境遇は揃わなくても、神様の導きを信じ、力をいただき、全てが神様によって進められると信じるのです。あなたはどちらによって生きていますか。(KE)