9月28日
「わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない。」使徒4:20
聖霊に満たされたのち、弟子たちはユダヤ人を恐れず、町中へ出掛けて大胆にイエス様の救いを語りました。誰に指示されたわけでもなく、内部から突き動かす力に押し出されたのです。聖霊あるいは御霊は私達にたえず干渉して来られます。その時、自分ではない思いが与えられ、行動に促されます。じっとしておられない、言わなければ居られない事態におかれます。あなたにも神様は臨んでおられます。(KE)
9月28日
「わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない。」使徒4:20
聖霊に満たされたのち、弟子たちはユダヤ人を恐れず、町中へ出掛けて大胆にイエス様の救いを語りました。誰に指示されたわけでもなく、内部から突き動かす力に押し出されたのです。聖霊あるいは御霊は私達にたえず干渉して来られます。その時、自分ではない思いが与えられ、行動に促されます。じっとしておられない、言わなければ居られない事態におかれます。あなたにも神様は臨んでおられます。(KE)
9月27日
「自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである。」ルカ12:21
自分の欲望や情動に動かされて、それらを満たすことは「自分のために宝を積む」ことです。一方、あなたがしていることが神様のみこころであると確信するなら、そのことは「神に対して富む」ものです。これが天に宝をつむことです。同じ事をしていても、その動機が自分のためなのか、主のためなのかによって、大きく違ってきます。神に対して富む行為はこの世で報われませんが、天国銀行の口座に積み立てられているのです。(KE)
9月26日
「わが子よ、あなたの父の戒めを守り、あなたの母の教を捨てるな。つねに、これをあなたの心に結び、あなたの首のまわりにつけよ。」箴言6:20-21
世間でも、「親の意見となすびの花は、千に一つの無駄もない」と言われます。親の意見や小言はうるさくて無駄なように思われますが、歳を重ねて来るにつれて含蓄のある言葉に変わってきます。神様のことばも同じです。若いときはみことばに心を留めませんが、人生半ばを超えてくると、しみじみ得心が行きます。今はわからなくても、しっかり御言を心に蓄えましょう。(KE)
9月25日
「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。」ローマ7:18a
パソコンは電源やメモリー、ハードディスクなどの機械的なものと、それらを動かすソフト(Operating Soft)から成り立っています。ソフトが間違った指令を出すと、パソコンがおかしくなります。人も同様に、身体的な機能とそれらを総合的に動かす能力とで出来ています。生まれながらに書き込まれたサタンのプログラムを、人が本来持つべき真のプログラムに書き換えて下さったのがイエス様です。それによって正しい歩みができます。(KE)
9月24日
「それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」ローマ2:4
神様は私達を愛しておられるゆえ、なんとしても滅びにあわせず、救いたいと願っています。そのため、すべての人が救われるようにと長く忍耐しておられるのです。正義も公平も失われた今の世の様を見て、神様は無能無力だと侮るならば、遠からずして神様の峻厳な裁きに会います。今はまさに恵みの時、救いの日です。主のご愛に感じて、みこころに従うものとなりましょう。(KE)
9月23日
「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。」ヤコブ4:14
私達の存在は実にはかないものです。しかし、いつもそれを忘れて生活しているのではないでしょうか。私達のいのちは神様の手に握られて、自分のものではありません。主が許して下さる間だけ生きるのです。だから、明日のこと、将来のことはわかりませんから、今、今日、この瞬間を力一杯生きて下さい。(KE)
9月22日
「あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。」第一ペテロ3:9b
イエス様の救いに入れて頂いたのは私達が神様の祝福を受け継ぐためです。それはただ自分が祝福を受けて喜ぶだけではなく、祝福を多くの人々へ持ち運ぶためです。言うならば、あなたが祝福のはじめとなり、周囲の人々にあなたを通して神様の祝福がそそがれるためです。常にそのことを自覚して生活することが大切です。感情や情念に振り回されず、たとえ悪口や批判を受けても、罵り返さず、祝福を祈ってあげましょう。それがあなたの使命です。(KE)
9月21日
「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」第二ペテロ3:9
神様は滅ぼす権威と力を持ち給う方です。しかし、神様の本意はすべての人が救われることです。そのためにひとり子イエス様を世に遣わして、贖いの犠牲とまでされたのです。だから、どうしても滅ぼすことができないのです。神様の深い御思いをないがしろにすることができるでしょうか。(KE)
9月20日
「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。」エレミヤ15:16ab
食べることによって、人は身体的なエネルギーを得て、活動します。そのとき、食べたものは消化吸収され、もはや原型を留めていません。み言葉は魂(霊魂)に力を与える天からのマナ、命のパンです。それを食べなければ生きる命を得ることが出来ません。では、み言葉を食べるとは? み言葉を信じて、具体的な生活の場でみ言葉に従うことです。そのとき、喜びが与えられ、生きる楽しみを味わいます。(KE)
9月19日
「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」イザヤ43:19
神様のなさるわざは人の考え、想像を超えたものです。もっとも、人が考える程度のことしか出来ないのなら、あえて神様と呼ぶこともないでしょう。神業と呼ばれる事態に遭うと、人は恐れをなし、うろたえてしまいます。しかし、それこそが神様の本領です。神様は私達の人生に絶えず介入して来られますから、しっかりと受け止められるように心を備えましょう。(KE)