2月15日
「彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、『のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない』。」創世記19:17
ソドムの町が滅ぼされるとき、ロトの家族だけは神様の憐みを受け、救い出されましたが、その時、神の使いは「うしろをふりかえって」見てはならないと命じました。ところが、ロトの妻は逃げる途中でうしろを見たため、塩の柱になったとあります。私たちも「うしろをふりかえる」と失敗します。常に、顔を前に向けて、まっすぐに前進しましょう。過去にとらわれないで。(KE)
2月15日
「彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、『のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない』。」創世記19:17
ソドムの町が滅ぼされるとき、ロトの家族だけは神様の憐みを受け、救い出されましたが、その時、神の使いは「うしろをふりかえって」見てはならないと命じました。ところが、ロトの妻は逃げる途中でうしろを見たため、塩の柱になったとあります。私たちも「うしろをふりかえる」と失敗します。常に、顔を前に向けて、まっすぐに前進しましょう。過去にとらわれないで。(KE)
2月14日
「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」イザヤ43:19
神様のなさることを始めから終わりまで見通すことはできません。先が見えないことで不安や恐れを抱きますが、そこで問われるのは神様を信頼しているか、ということです。人の経験や知識を超えた驚くことをなさいます。しかも、「新しい事」です。それは私たちに恵みをもたらすわざです。今、困難な状況にあっても、それも神様の手にあることを信じて新しい業を大いに期待したいものです。(KE)
2月13日
「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。」マタイ10:29
森羅万象、あらゆるものすべて、神様の支配のもとに置かれています。また、それらすべてに神様の意思、み思いが貫かれているのです。ありふれたスズメですら、神様のみ手に握られ、支配されています。ましてや、私たちの一挙手、一投足に至るまで、神様は知り尽くしておられ、御心を実行しています。なにげなく、自分の思いのままにしたことも、神様が許しておられることです。(KE)
2月12日
「わざわいなるかな、彼らはおのれを見て、賢しとし、みずから顧みて、さとしとする。」イザヤ5:21
人はどこまでも自己中心ですから、自分を賢い者、聡い者と思いやすいのです。客観的に見ることができません。そのために、他者からの意見や忠告を聞き入れないのです。傍で見ている人には滑稽ですが、本人はしごく真面目にそう思っているのですから、始末に負えません。“汝自身を知れ”とは昔の哲学者の言葉ですが、まさに自分がどんな者であるか、悟る者となりましょう。でなければ、災いの元です。(KE)
2月11日
「その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、『主は今に至るまでわれわれを助けられた』と言って、その名をエベネゼルと名づけた。」サムエル上7:12
祭司サムエルはペリシテ人との戦いに勝利したとき、それを記念して石塚を建てました。その名は「エベネゼル」。神様の恵みによってここまで助けられてきたことを忘れないように記憶し、感謝を表したのです。今年も神様の憐みで「今に至るまで」生かされているのです。感謝です。(KE)
2月10日
「しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。」イザヤ65:18
神様の創造の目的はそれによってご自分が楽しみ、喜ぶためです。誰でも自分の喜びを分かち合いたいと願うものです。神様も同じで、わたしたちにも神様の創造を共に楽しみ、喜んでもらいたいのです。ところが、わたしたちは喜べない、楽しめないでおります。善なる神様の意図を信じられない、不信の罪があるからです。主の愛に触れるなら、事態は変わります。(KE)
2月9日
「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」エレミヤ29:11
神様のわざを終わりまで見極めることはできません。今、目の前の事態がどういう結果につながっているか分からないゆえに、不安と恐れを抱きますが、神様は「わたしが知っている」と言われます。神様の本意は常に「愛」なのです。平安、将来、希望につながる今であることを信じてください。(KE)
2月8日
「わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう。」ヨハネ14:21bc
イエス様を愛する者を父なる神様が愛してくださるとの約束です。神様に愛されたいなら、イエス様を愛すればいいのです。そればかりか、イエス様も神様に愛される者を愛してくださるというのですから、こんなうれしいことはありません。神様と御子イエス様とに愛され、御子との密接な交わりを通して、主を深く知ることができるのです。その第一歩が主のことばを信じることです。(KE)
2月7日
「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。」ヨハネ14:21a
イエス様を愛するとはどうすることか。それは実に簡単なことです。イエス様のことばを心に受け入れ、素直に従うだけです。人を愛する場合も同じです。愛する人のことばを最大限に信じ、それに従います。ことばはその人の分身のようなものです。イエス様のことばもイエス様の心を表していますから、これを自分の心におくとき、主と一つになります。まず、イエス様を愛する者となろうではありませんか。(KE)
2月6日
「彼は母の胎から出てきたように、すなわち裸で出てきたように帰って行く。彼はその労苦によって得た何物をもその手に携え行くことができない。」伝道5:15
例外なく、人は生まれた時、裸です。何も持たずにこの世に生まれ、成長しつつ労苦によって、いろんな物を獲得し積み蓄えますが、やがてすべてを世に残して、裸になって帰って行くのです。ただこの世にいる間、ほんの僅かな歳月ですが、その間神様が備えて使わせて下さるのです。物に執着すると道を間違えますから、ご用心。(KE)