1月6日
「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。」第二コリント9:6
確かに、この通りです。しかし、人は怠け者ですから、なんとか少しの労苦でより多くの収穫を得ようと苦心します。まさに功利主義に毒されています。神様の報いを期待する時、一たす一は、二でも、三にでもなります。また、刈り取ってからまこうとしますが、それでは何も得られません。まず、結果がどうなるかわからなくても、先に自分からまくのです。(KE)
1月6日
「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。」第二コリント9:6
確かに、この通りです。しかし、人は怠け者ですから、なんとか少しの労苦でより多くの収穫を得ようと苦心します。まさに功利主義に毒されています。神様の報いを期待する時、一たす一は、二でも、三にでもなります。また、刈り取ってからまこうとしますが、それでは何も得られません。まず、結果がどうなるかわからなくても、先に自分からまくのです。(KE)
1月5日
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。」第一コリント13:4-5
これらの美しい言葉によって語られる愛は自分が他者に対してどうあるべきか、人との関係性を表しています。愛と言う言葉はそれらを総括するインデックスのようなもの、愛と記された引出しにはこれらの言葉が入っているのです。自分の愛の箱にはこれらが揃っているか点検してください。愛されたいと願うのは間違いです。(KE)
1月4日
「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」イザヤ55:6
チャンスはたびたびおとずれるものではありません。“つぎにするか”と思うなら、それは間違いです。世間でも“思い立ったら吉日”などといいます。それは今の時以外にチャンスはないとのことです。神様を求め、信じ、恵みをいただくことができるのも、今日、今です。主があなたの心に語りかけておられるからです。この時を逃したら、大いに後悔することになります。「主に帰れ」「神に帰れ」と言われます。(KE)
1月3日
「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。」ルカ11:13
親は子供のために良いものを与えたいと願います。まして、天の父である神様は私たちに最高の贈り物を下さいます。金や銀のような朽ちるものではなく、神の子としての性質に不可欠なもの、それは聖霊です。ただし、「求めて来る者」と言われます。聖霊をいただくならば、これだけで十分です。神様ご自身に直結することですから。(KE)
1月2日
「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」マタイ5:6
不義や不正がはびこり、悪が跋扈する世にありますが、だからといって、義を求める者が空しくなることはありません。ソドムの町にいた義人ロトのように、世に染まらず、流されず、常に神様を恐れ、神の義を渇き求めようではありませんか。神様はそのようなものたちを見捨てません。定められた時がくるなら、神様は必ず報いてくださいます。(KE)
1月1日
「主はそのみこころにかなう事を、天にも地にも、海にもすべての淵にも行われる。」詩篇135:6
新しい年を迎えました。国の内外、家庭の内外、いたるところでさまざまな問題に取り囲まれています。世はまさに混沌として無秩序に崩壊しつつ見えますが、決してそうではありません。人の定めたルールや道筋、予測と違っていようと、見えざる神様の支配と裁き、みわざは変ることなく、過去から現在、未来へと貫かれています。新しい年も、見えるものにではなく、見えないもの、永遠にいます神様に目をとめて進みましょう。(KE)
12月31日
「その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、『主は今に至るまでわれわれを助けられた』と言って、その名をエベネゼルと名づけた。」サムエル上7:12
今年も今日で終わります。一年を振り返ると、どんなに大きな恵みであったかと神様に感謝するほかありません。また、良いことも、悪いと見えることも、すべては神様が備え、導かれたことばかりです。サムエルのように、感謝の石塚を立てて、来る新しい年を主のみ手に委ねて、主の栄光の道を歩みましょう。(KE)
12月30日
「娘よ、聞け、かえりみて耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家とを忘れよ。」詩篇45:10
最近はこだわらなくなったようですが、結婚式で女性が着る衣装は白一色でまとめられました。それは結婚が女性にとって生家を捨て、婚家に生まれ変わる死とよみがえりに通じるものだからです。イエス様と私たちは花婿と花嫁の関係です。まさに花嫁なる私たちは死んでよみがえり、神の家族に加えられるのですから、古き時代の生活、世につける思い、肉なるものを捨ててかからなければなりません。これが祝福の道です。(KE)
12月29日
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」マタイ7:7
「求め」「捜せ」「たたけ」とは自分から切り出すことです。日本人は言わなくてもわかるだろうとか、気持ちを察してくれることを期待します。そのため、事がすすみません。どんなことでも、失敗を恐れず、自分の方から仕掛けていく。信仰においても大切な姿勢です。積極的に踏み出すとき、神様は必ず応答されます。結果を先読みしないで、単純にして熱心に求め、捜し、たたきましょう。(KE)
12月28日
「なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」ローマ8:5-6
「肉」と「霊」と言われていますが、肉とは神様に反する力であり、霊とは神様の側に立つ思いです。両者は相反する存在で、私たちが神様を知らず、認めず生きていた時代は肉の生活です。今は肉にありながらも、神様の霊、御霊が宿っておられるので、霊に生きていると言えます。神様を抜きにした生活は命を失ったものであり、神様の側にたつとき、いのちと平安が与えられます。(KE)