神様のみ手にすっぽりと命まで預けましょう

12月6日

「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。」エレミヤ32:27

  聖書は一貫してすべてが神様によって造られたものであることを語り続けています。そこには人の知恵や力、計画やわざなど、微塵も入る余地はありません。神様のなさることが人の目には粗雑にして、大ざっぱで隙間だらけに見えますが、神様のなさりようは緻密にして精巧、無駄も、失敗も、過剰なことも、何一つありません。自分で思い煩うことをやめ、神様のみ手にすっぽりと命まで預けましょう。楽になりますよ。(KE)

しもべである私たちはもっぱら主人の憐れみを待つほかありません

12月5日

「見よ、しもべがその主人の手に目をそそぎ、はしためがその主婦の手に目をそそぐように、われらはわれらの神、主に目をそそいで、われらをあわれまれるのを待ちます。」詩篇123:2

 神様と私たちの関係は創造者と被造物との関係でありますが、同時に主人としもべでもあります。しもべである私たちはもっぱら主人の憐れみを待つほかありません。主人の恵みを受ける値打ちも資格もない者ですが、今日も、しもべとなりきって、主の憐れみをいただくものとなりましょう。(KE)

ことばほどその人の品格を表すものはありません

12月4日

わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。」詩篇19:14

 目に見える行動もさることながら、ことばほどその人の品格を表すものはありません。それはどのように作られるのでしょうか。家柄や育ちではなく、その人が誰を、何を前にして生きているかによるのです。見えない神様のまなざしを自覚しているならば、激情にかられたり、高慢な思いにとらわれることは決してありません。言葉を聞いておられるのみならず、心をも知りたもう神様を常に覚えてください。(KE)

命がけで主に従うことが新しい命に生きる道です

12月3日

「そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。」ルカ5:11

 イエス様はゲネサレ湖で漁をしていたペテロたちを招いて弟子としました。彼らはイエス様に従うにあたって、生活の根幹である舟など一切を捨てました。一口でそうは言うものの、自分の身に当てはめると、あなたはできますか。しかし、これほどに命がけで主に従うことが新しい命に生きる道です。中途半端に従っているかぎり、なにも得ることができません。思い切って、大胆に主の御声に答えようではありませんか。(KE)

イエス様は「あなたはどうなのか」と問われます

12月2日

「彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』。」ヨハネ8:7

 罪の現場で捕らえられた女をイエス様のもとにつれてきました。激しく糾弾する人々に向かって語られた言葉です。正義を振りかざすとき、人は自分を義とするか、あるいは自分を除外しているものです。イエス様は「あなたはどうなのか」と問われます。私たちも、まず「私はどうなのか」と自ら問いたいものです。そうすれば正しい道が見えます。(KE)

大切なのは神様を「どのように信じるか」です

12月1日

「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。」使徒17:24

 信仰とは神様を信じることであると言えますが、大切なのは神様を「どのように信じるか」です。万物の創造者、天地の主と信じるなら、まことに幸いです。神様を人よりも少しできる方くらいに思うのであれば、その信仰も同じく矮小なものとなります。人の意のままに神様を動かせると思うのは、とんでもない間違いです。神様を神様として信じる正しい信仰に立つとき、あなたは強くなれます。(KE)

全てをご存じの神様を信じて、自分から手放すのです

11月30日

「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。」第二コリント9:6

 まかないところから刈り取ろうとする愚かな人はいません。農作物は正直ですから、まいたらそれだけ収穫します。だから、多くまくなら多くを刈り取るでしょう。同様に、人生においても、多く手放し施すなら、必ず報われます。もう一つ大切なことは、刈り取ったらまこうとするのは無益です。まず、全てをご存じの神様を信じて、自分から手放すのです。(KE)

今の自分を処分して新しい命、キリストに接がれなければなりません

11月29日

「おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。」第一コリント15:36

 確かにどんな植物の種でも、一旦地に埋められ分解されて種の姿形がなくなることによって、新しい命がそだち芽生えてきます。私たちも生まれながらの自分のままであれば、いつまでも変わりません。自分を造り替えて新しくなりたいなら、今の自分を処分して新しい命、キリストに接がれなければなりません。そのために今の自分に「死ぬ」のです。今日も、事あるごとに、自分に死にキリストと共に生きようではありませんか。(KE)

どんなものにも勝る恵みです

11月28日

「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」ローマ8:34

 イエス様は神の子でありながら、すべての人の罪をあがなう犠牲となってくださいました。それゆえに、到底近づき得ない神様に親しく接することができます。これはどんなものにも勝る恵みです。そればかりか、主は天に戻られて父なる神様の右にあってとりなして下さるのですから、こんな心強い味方はありません。今日も主の取り成しを信じて生きようではありませんか。(KE)

ただ、イエス様を主と信じる信仰によって与えられる身分です

11月27日

「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。」ガラテヤ3:26

 私たちが「神の子」と呼ばれるとは、なんと驚くべきことでしょうか。そもそも神様とは縁もゆかりもなかった者です。ただ、イエス様を主と信じる信仰によって与えられる身分です。それはただ主の十字架によるご犠牲のゆえによるものですから、私たちがどのような状態であろうと、取り消されません。心低くして、感謝しつつ、「神の子」である恵みを信仰によって今日も受けようではありませんか。(KE)