「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。」イザヤ55:6
人に会おうとしたり、電話をかけようとするとき、今がその時だろうかと一瞬躊躇します。忙しい相手を思ったり、誤解されないかと深読みしたり、様々な思いが巡ります。その結果、タイミングを逃します。“思い立ったが吉日”と世間では言います。神様を求め、信じるにも「時」がありますが、まさに思い立ったときこそ最善の時なのです。あなたにとって、今日、このときを逃したなら後悔することになります。(KE)
「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。」イザヤ55:6
人に会おうとしたり、電話をかけようとするとき、今がその時だろうかと一瞬躊躇します。忙しい相手を思ったり、誤解されないかと深読みしたり、様々な思いが巡ります。その結果、タイミングを逃します。“思い立ったが吉日”と世間では言います。神様を求め、信じるにも「時」がありますが、まさに思い立ったときこそ最善の時なのです。あなたにとって、今日、このときを逃したなら後悔することになります。(KE)
8月10日
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」 マルコ1:15
イエス様が語ったメッセージをまとめた言葉です。「時は満ちた」とは、今、今日こそあなたの救いが成就するとのことです。また、「神の国」とはイエス様を信じて新しい命に生きることです。あなたの人生が一新され、神様の支配があなたの全てに及ぶのです。「福音」は主の十字架によって罪・愆の全てが消し去られて、完全な赦しを戴いていることを伝えるものです。イエス様が語って下さる恵みのおとずれを感謝して、素直に受けて下さい。(KE)
8月9日
「イエスは彼らに言われた、『わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない』。」ヨハネ6:35
荒野の旅をした神の民は「マナ」で命を養いました。それは肉体的な命を与えるパンでありましたが、同時に、神様から戴いたもの、すなわち魂を養う霊的な命でもありました。やがてイエス様が世に来て下さったことによって、イエス様こそが霊の糧、「マナ」であることがわかりました。パンは鑑賞するものではなく、食べるものです。イエス様を食べて下さい。(KE)
8月8日
「有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」第一コリント1:28
神様の選びの基準は世間の基準とは全く正反対です。世間では値打ちのない者たちをあえて選んで、その者たちを通して、神様の力、大業を見せようとなさるのです。素材である私たちが出来損ないであればあるほど、役に立ちます。神様の力が際だって褒め称えられるからです。誰からも認められなくても、神様はあなたを有益な者へと変身させてくださいます。(KE)
8月7日
「あすのことを誇ってはならない、一日のうちに何がおこるかを知ることができないからだ。」箴言27:1
神様の恵みによって、今日も命を与えられ、生きることが出来ます。当然の様に思われますが、考えると決してそうではありません。不思議なことです。しかも、今日がどんな日になるのか誰もわかりません。いろんな予定はあるでしょうが、そのとおりになるのかどうか、ただ、神様が許してくださることだけが実現されるのです。自分の知恵や力を誇らず、恃まず、へりくだって神様の導きにゆだねましょう。(KE)
8月6日
「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。」エレミヤ33:3
「わたしに」と言われる方は天地万物の創造者、すべてのものを支配される全能者なる神様です。その方に比べるなら、私たちは無きに等しい存在にすぎません。そのような方が「呼び求めよ」と言われるのですから、こんな幸いなことはありません。しかも「答える」との約束です。どうして求めないでおれましょうか。遠慮無く呼び求め、神様の不思議なわざを体験しましょう。(KE)
8月5日
「主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください。」詩篇141:3
“口は災いのもと”とも言われますが、言わないでいいことを言って、長年の友情を壊すことになったりします。言い過ぎるより、言いたりないほうが安全ですが、うまくコントロールできないために失敗します。心がければ出来そうですが、これは自分の力ではどうにもなりません。みことばのように祈ることが最善の方法です。神様は折に適った言葉を備えてくださいます。言葉で失敗しないため、この祈りを繰り返しましょう。(KE)
8月4日
「もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」 マタイ6:15
「ゆるす」ことほど困難なことはありません。だから、仕方が無いといって、赦そうとしない自分を肯定していますが、それは神様の御心ではありません。イエス様は全ての人の罪を“ゆるす”ために十字架に死んでくださったのです。私たちは今日も赦され生かされているのです。それを深く理解するために、私たちもイエス様に倣って、“ゆるす”体験をしなければなりません。(KE)
8月3日
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」詩篇23:1
羊飼いや羊は普段なじみがありませんので、ピンと来ませんが、羊飼いが居なければ羊は生きることができません。草場や水場へ導き、様々な敵から守る者、それが牧者です。羊は牧者と共にいるかぎり、安全で不足するものもありません。この関係は神様と私たちとの関係でもあります。羊同様に、私たちは弱く、知恵も無く、戦う力もありません。だから、イエス様が今日もあなたの牧者となってくださるのです。(KE)
8月2日
「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。」ルカ6:38ab
人は手放したり、減らすことを恐れます。そのため「ケチ」と陰口をたたかれます。保守的になるため、自分から何かを仕掛けたり、身銭を切って新境地を開こうともしません。イエス様はまずあなたが「与えよ」、先鞭をつけよと言われます。この一歩が出ないためにますます乏しくなってしまうのです。神様はまず御子を遣わしてご愛を見せてくれました。そのように、私たちも損をする道をまず選ぼうではありませんか。(KE)