1月2日
「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」マタイ5:6
不義や不正がはびこり、悪が跋扈する世にありますが、だからといって、義を求める者が空しくなることはありません。ソドムの町にいた義人ロトのように、世に染まらず、流されず、常に神様を恐れ、神の義を渇き求めようではありませんか。神様はそのようなものたちを見捨てません。定められた時がくるなら、神様は必ず報いてくださいます。(KE)
1月2日
「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」マタイ5:6
不義や不正がはびこり、悪が跋扈する世にありますが、だからといって、義を求める者が空しくなることはありません。ソドムの町にいた義人ロトのように、世に染まらず、流されず、常に神様を恐れ、神の義を渇き求めようではありませんか。神様はそのようなものたちを見捨てません。定められた時がくるなら、神様は必ず報いてくださいます。(KE)
1月1日
「主はそのみこころにかなう事を、天にも地にも、海にもすべての淵にも行われる。」詩篇135:6
新しい年を迎えました。国の内外、家庭の内外、いたるところでさまざまな問題に取り囲まれています。世はまさに混沌として無秩序に崩壊しつつ見えますが、決してそうではありません。人の定めたルールや道筋、予測と違っていようと、見えざる神様の支配と裁き、みわざは変ることなく、過去から現在、未来へと貫かれています。新しい年も、見えるものにではなく、見えないもの、永遠にいます神様に目をとめて進みましょう。(KE)
12月31日
「その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、『主は今に至るまでわれわれを助けられた』と言って、その名をエベネゼルと名づけた。」サムエル上7:12
今年も今日で終わります。一年を振り返ると、どんなに大きな恵みであったかと神様に感謝するほかありません。また、良いことも、悪いと見えることも、すべては神様が備え、導かれたことばかりです。サムエルのように、感謝の石塚を立てて、来る新しい年を主のみ手に委ねて、主の栄光の道を歩みましょう。(KE)
12月30日
「娘よ、聞け、かえりみて耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家とを忘れよ。」詩篇45:10
最近はこだわらなくなったようですが、結婚式で女性が着る衣装は白一色でまとめられました。それは結婚が女性にとって生家を捨て、婚家に生まれ変わる死とよみがえりに通じるものだからです。イエス様と私たちは花婿と花嫁の関係です。まさに花嫁なる私たちは死んでよみがえり、神の家族に加えられるのですから、古き時代の生活、世につける思い、肉なるものを捨ててかからなければなりません。これが祝福の道です。(KE)
12月29日
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」マタイ7:7
「求め」「捜せ」「たたけ」とは自分から切り出すことです。日本人は言わなくてもわかるだろうとか、気持ちを察してくれることを期待します。そのため、事がすすみません。どんなことでも、失敗を恐れず、自分の方から仕掛けていく。信仰においても大切な姿勢です。積極的に踏み出すとき、神様は必ず応答されます。結果を先読みしないで、単純にして熱心に求め、捜し、たたきましょう。(KE)
12月28日
「なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」ローマ8:5-6
「肉」と「霊」と言われていますが、肉とは神様に反する力であり、霊とは神様の側に立つ思いです。両者は相反する存在で、私たちが神様を知らず、認めず生きていた時代は肉の生活です。今は肉にありながらも、神様の霊、御霊が宿っておられるので、霊に生きていると言えます。神様を抜きにした生活は命を失ったものであり、神様の側にたつとき、いのちと平安が与えられます。(KE)
12月27日
「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた。」イザヤ43:7
人が生きる目的は神様の栄光のためです。しかもその目的を達成されるのは神様であって、私たちではありません。私たちはただ目の前の一歩、今日の一日を神様に導かれ備えられたものと信じて歩むだけです。ですから、生きる目的は神様がなそうとされる創造のわざが滞りなく完成されるよう努めることです。具体的な結果はどうなるのかわかりませんが、今日も主のわざによることを信じましょう。(KE)
12月26日
「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。」使徒17:28a
神様は私たちと離れて存在する方ではありません。一番密接な関係である家族すら、隔たりがあります。しかし、神様はまさにすぐそばに、否、神様のうちに生活しているのです。私たちは大気に包まれて生きていますが、そのように神様は私たちの命にかかわる存在であります。あまりに身近なので大切さがわからなくなっているのではないでしょうか。意識するとしないとに係わらず、今日も命を注いでみ手に握って持ち運んでおられます。(KE)
12月25日
「彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。」イザヤ53:2
色とりどりの電飾に華やぐ世間のクリスマスと違って、イエス様は貧しいものとなり、家畜小屋の桶に寝ている幼子となって世に来てくださったのです。誰一人、それが神のみ子、救い主であることに気がつきません。まさにこれこそ神様らしいわざと言えるのではないでしょうか。人の思いと期待を裏切って、信じるほかない道を備えられたのですから。(KE)
12月24日
「初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。」ルカ2:7
イエス様のご降誕にまつわる記事には、主に対するこの世の態度が象徴的に語られています。この言葉もその一つです。「余地がない」とは、イエス様を神様から遣わされた救い主と信じられない人の姿です。何にもまして、真っ先に迎えるべきかたでありながら、他のものが優先されているのですから。あなたは主を心のどこに置こうとしているのでしょうか。余地はつくるものです。(KE)