では、試練・悩みは何のためでしょうか

10月27日

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」詩篇119:71

 人生を生きるにあたって、悲しみや苦しみはないほうがいいと願います。しかし、生きる限りのがれることはできません。では、試練・悩みは何のためでしょうか。いろんな説明が出来るでしょうが、聖書が語っているのは、神様と出会い、神様を知り、信じて、神様と共に在る平安と喜び、望みと力を体験するためです。苦難は決してマイナスではなく、私たちを真の命に結びつける大いなる恵みです。(KE)

その中で、彼には確信があったので決して動揺しません

10月26日

「すると彼は言った、『あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです』。」ヨハネ9:25

 生まれつき目が見えなかった人が、イエス様によって見えるようになりました。そのため大騒ぎになり、彼の家族にまで不利益が及ぶほどでした。その中で、彼には確信があったので決して動揺しません。それは誰でもない自分自身の直接体験だからです。信仰も同様に実体験によらなければ、何か事があるとすぐに消えてしまいます。(KE)

自分の知識や智恵で考えられる範囲にとどまりながら、神様を信じることはできません

10月25日 

「時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたは口がきけなくなり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる。」 ルカ1:20

 イエス様の御降誕に先だって、年老いたザカリヤとエリサベツに子供が与えられると、御使が伝えました。ザカリヤは到底信じがたいことだったので、そんなことはありえないと思いました。神様を信じるとはまさに人の理解や想像を超えたことです。自分の知識や智恵で考えられる範囲にとどまりながら、神様を信じることはできません。神様の支配、「時」に委ねましょう。(KE)

あなたにはあなたでなければ出来ないことを備えておられます

10月24日

「多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。」ルカ12:48b

 なんでも同じようにすることが平等であるかのように思いますが、それは決して平等ではありません。神様はそれぞれの能力に応じて取り扱われる方です。だから、他者と比較することは無意味です。あなたにはあなたでなければ出来ないことを備えておられます。神様が自分だけを懲らしめているように思われるとき、それはあなたに期待するところが大きいからです。主のご期待に応えようではありませんか。(KE)

完全なあがないが完成したのです

10月23日

「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」マタイ26:28

 最後の晩餐の席でイエス様が弟子たちにぶどう酒の杯を与えながら語った言葉です。この後すぐに十字架にかけられることを知っていたイエス様は、ご自分の死が何のためであるか、はっきりと宣言しました。私たちの罪を赦すために流された血、即ち命であり、保証としての契約の血判でもあります。これによって赦されない罪はなく、現在のみならず、過去・未来に及ぶ完全なあがないが完成したのです。(KE)

神様は全てをご存じで、報いてくださいます

10月22日

「すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。」マタイ6:18b

 神様を信じると言うとき、神様は報いて下さる方であると信じなければ神様を信じたと言うことはできません。なぜなら、神様は生き、働き、全ての根源である方ですから。人はとかく他者からの賞賛や名誉、誉れや報いを期待します。しかし、それらはこの世だけのことであって、天に宝を積むことは出来ません。人に知られずとも、神様は全てをご存じで、報いてくださいます。神様からの報いを期待しつつ生きることは痛快です。(KE)

私たちが何をしようと神様の定められた道から外れることは出来ません

10月21日

「主はそのみこころにかなう事を、天にも地にも、海にもすべての淵にも行われる。」詩篇135:6

 世の中をみると、どこに神や仏がいるだろうかと疑わせるような事態や事件などがあります。しかし、みことばは神様のみこころが行われていると語っています。私たちの浅はかな智恵や知識では到底知り尽くせない神様のみこころは着実に行われています。私たちが何をしようと神様の定められた道から外れることは出来ません。蒔いたものしか刈り取れないのと同様に、神様のルールは一貫して真実です。(KE)

彼らには見えない主を見ていたのです

10月20日

「しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。」使徒7:55 

ステパノが殉教したときの記事です。激しい怒りに満ちた群集が彼に向かって一斉に石を投げつけました。しかし、彼は恐れず彼らの怒りを受け止めましたが、彼の目は怒り狂った群集を見ていたのではありません。彼らには見えない主を見ていたのです。私たちはこのような迫害を受けることはありませんが、いろんな困難、苦しみにあったとき、見えない方に目をとめようではありませんか。(KE)

それでは愛を知ることも信じることもできません

10月19日

「わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。」第一ヨハネ4:16

 神様の愛を「知り、かつ信じて」いると言えるならば、これほど心強いものはありません。ともすると、人は事情・境遇の良し悪しによって神様の愛を計ろうとしますが、それでは愛を知ることも信じることもできません。自分の罪の深さを知り、そのために奉げられたイエス様の命を受け止めるとき、神様の愛が注がれ、主と共に生きるものとなります。(KE)

自分を知ることが人生最大の事業ではないでしょうか

10月18日

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」黙示3:17

 ある哲学者は“汝自身を知れ”と説きました。まさに自分を知ることが人生最大の事業ではないでしょうか。自分のことは自分が知っていると言いますが、決してそうではありません。神様は日々の様々な出来事を通して、あなたが何ものであり、どのような人間であるかを悟らせてくださいます。真実な自画像を知るとき、神様の前に謙遜になれます。(KE)