8月7日
「あすのことを誇ってはならない、一日のうちに何がおこるかを知ることができないからだ。」箴言27:1
神様の恵みによって、今日も命を与えられ、生きることが出来ます。当然の様に思われますが、考えると決してそうではありません。不思議なことです。しかも、今日がどんな日になるのか誰もわかりません。いろんな予定はあるでしょうが、そのとおりになるのかどうか、ただ、神様が許してくださることだけが実現されるのです。自分の知恵や力を誇らず、恃まず、へりくだって神様の導きにゆだねましょう。(KE)
8月7日
「あすのことを誇ってはならない、一日のうちに何がおこるかを知ることができないからだ。」箴言27:1
神様の恵みによって、今日も命を与えられ、生きることが出来ます。当然の様に思われますが、考えると決してそうではありません。不思議なことです。しかも、今日がどんな日になるのか誰もわかりません。いろんな予定はあるでしょうが、そのとおりになるのかどうか、ただ、神様が許してくださることだけが実現されるのです。自分の知恵や力を誇らず、恃まず、へりくだって神様の導きにゆだねましょう。(KE)
8月6日
「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。」エレミヤ33:3
「わたしに」と言われる方は天地万物の創造者、すべてのものを支配される全能者なる神様です。その方に比べるなら、私たちは無きに等しい存在にすぎません。そのような方が「呼び求めよ」と言われるのですから、こんな幸いなことはありません。しかも「答える」との約束です。どうして求めないでおれましょうか。遠慮無く呼び求め、神様の不思議なわざを体験しましょう。(KE)
8月5日
「主よ、わが口に門守を置いて、わがくちびるの戸を守ってください。」詩篇141:3
“口は災いのもと”とも言われますが、言わないでいいことを言って、長年の友情を壊すことになったりします。言い過ぎるより、言いたりないほうが安全ですが、うまくコントロールできないために失敗します。心がければ出来そうですが、これは自分の力ではどうにもなりません。みことばのように祈ることが最善の方法です。神様は折に適った言葉を備えてくださいます。言葉で失敗しないため、この祈りを繰り返しましょう。(KE)
8月4日
「もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」 マタイ6:15
「ゆるす」ことほど困難なことはありません。だから、仕方が無いといって、赦そうとしない自分を肯定していますが、それは神様の御心ではありません。イエス様は全ての人の罪を“ゆるす”ために十字架に死んでくださったのです。私たちは今日も赦され生かされているのです。それを深く理解するために、私たちもイエス様に倣って、“ゆるす”体験をしなければなりません。(KE)
8月3日
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」詩篇23:1
羊飼いや羊は普段なじみがありませんので、ピンと来ませんが、羊飼いが居なければ羊は生きることができません。草場や水場へ導き、様々な敵から守る者、それが牧者です。羊は牧者と共にいるかぎり、安全で不足するものもありません。この関係は神様と私たちとの関係でもあります。羊同様に、私たちは弱く、知恵も無く、戦う力もありません。だから、イエス様が今日もあなたの牧者となってくださるのです。(KE)
8月2日
「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。」ルカ6:38ab
人は手放したり、減らすことを恐れます。そのため「ケチ」と陰口をたたかれます。保守的になるため、自分から何かを仕掛けたり、身銭を切って新境地を開こうともしません。イエス様はまずあなたが「与えよ」、先鞭をつけよと言われます。この一歩が出ないためにますます乏しくなってしまうのです。神様はまず御子を遣わしてご愛を見せてくれました。そのように、私たちも損をする道をまず選ぼうではありませんか。(KE)
8月1日
「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない。」 マタイ22:14
イエス様は「罪人を救うために来た」と言われます。私たちは例外なくみな罪人です。だから、救いへの門戸はすべての人のために開かれているのです。言うならば、「招かれる者」が多いのです。しかし、自分が罪人であると自覚し、へりくだって救いを求める人がいません。「選ばれる者」は少ないのです。神様の救いは招きに対して応答する時、成就するのです。今、神様からの招待がすでに出されています。あなたはどのように答えるのでしょうか。(KE)
7月31日
「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。」ヨハネ12:26ab
仕える者が主人のそばにおるのは当然のことです。イエス様を主と信じるなら、主のおられるところに私たちもおるべきです。主であるイエス様に仕えるには自分を捨てなければ出来ません。主が「行く」と言われるところ、それが十字架のゴルゴタであっても忠実な僕になりきって仕えていこうではありませんか。主は必ずそれに報いてくださいます。(KE
7月30日
「わたしはまたあなたの求めないもの、すなわち富と誉をもあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちのうちにあなたに並ぶ者はないであろう。」 列王上3:13
神様はソロモン王に何を与えようかと尋ねました。王は「聞きわける心」と「善悪をわきまえること」を求めました。神様は彼の願いを聞きいれたばかりか、求めなかった富も名誉ももらいました。それは、王がまず神様を求めたからです。神様の知恵、悟り、力を求めて、御心に従うとき、その他のものまで惜しみなく与えてくださいます。(KE)
7月29日
「ヤコブは眠りからさめて言った、『まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった』。」創世記28:16
兄エサウと敵対することになったヤコブは、一人で家を出て叔父のラバンの家を目指して旅をしました。道中、荒野で野宿した時、神様は親しくヤコブに声をかけ、ご自身をあらわされた。失意と落胆、孤独の中にあるとき、そこにこそ神様は居られたのです。万策尽きて、失望し、何も望めないとき、まさに神様に出会う恵みのときです。今日、あなたがそのような状態にあるなら、神様はそばにおられます。(KE)