神様のみ手を信じて、与えられたことのなかで徹底して従いました

12月29日

「しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。」創世記45:5

神様のご計画、みわざはいかに大きなものでしょうか。ヨセフは兄弟の反感を買い、売られてエジプトへ来ました。その後、さまざまな苦難を経てエジプトの宰相となり、飢饉のため苦しむ家族を救う先立ちとなったのです。ヨセフは神様のみ手を信じて、置かれたところ、与えられたことのなかで徹底して従いました。すべてのことを導かれるのは神様であると信じたからです。(KE)

創造者なる神様のみ手に支配されているからです

12月28日

「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。」ヤコブ4:14

自分のことはなんでも自分で決定できるかのように錯覚しています。実際は何ひとつ確実なものはありません。創造者なる神様のみ手に支配されているからです。明日が、来年がどんな日になるのか、皆目分りませんが、神様は明確な目的と計画で私たちを導いておられます。主がなさるわざを信じてゆだねようではありませんか。(KE)

人々が救われることを願って、その時を待っておられるのです

12月27日

「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」第二ペテロ3:9b

始まりがあれば、必ず終わりもあります。この宇宙も、世界も、やがて滅び失せるときがきますが、それがいつであるかわかりません。ただ神様の思いはすべての人々が救われることを願って、その時を忍耐して待っておられるのです。主のみ思いを無駄にしないで、主のご期待に応えようではありませんか。(KE)

雑多な感情や情念にかき乱されているとき、「きよい」と言えません

12月26日

「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」ヘブル12:14

「きよい」状態とはどんなことでしょうか。簡単に言えば、混じりけがない、純粋であることです。それを人のこころに当てはめてみると、言葉と行動、思いと言葉がちぐはぐで、雑多な感情や情念にかき乱されているとき、「きよい」と言えません。試練と言われる困難や苦しみ、悩みを通るとき、不純物、汚れたものが心の内外から削り取られます。試練を逃げないで、自分を磨きましょう。(KE)

そこから救い出してくださるのはこの方です

12月25日

「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」ルカ2:11

クリスマスおめでとうございます。私たちのために「救主」が生まれてくださったとの知らせはなんと大きな喜びでしょうか。この方によって救われないものは何ひとつありません。絶望、悲しみ、恐れ、不安、憤りなど、自分ではお手上げのどんな問題であっても、そこから救い出してくださるのはこの方です。神様によって油注がれ、立てられた救済者イエス様を信じ、救を体験してください。(KE)

マリヤは自分の身に起ったことを通して、神様に触れたのです

12月24日

「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。」ルカ1:49a

マリヤの人生は思い描いたものとはかけ離れた破天荒な事態となりました。しかし、彼女同様、すべての人の人生は創造者なる神様の御手に握られ、造り出されています。確かに、自分の計画や願いどおりに進む事態もありますが、その人の努力や知恵で成し遂げたものではなく、神様がそうなるように許してくださったからです。マリヤは自分の身に起ったことを通して、神様に触れたのです。神様はあなたにもマリヤの喜びを与えようとしています。(KE)

僅かな犠牲すら惜しむなら、心から神様を崇めているとはなりません

12月23日

「感謝のいけにえをささげる者はわたしをあがめる。自分のおこないを慎む者にはわたしは神の救を示す。」詩篇50:23

神様、神様と口で何べん唱えようとも、感謝、感謝と連呼しようとも、ほんの僅かな犠牲(いけにえ)すら惜しむなら、心から神様を崇めているとはなりません。いや、むしろ神様をコケにしているのではないでしょうか。また、実際の行動やわざによって、神様を尊び、自らを自制する者は、神様の救を実体験することができます。神様を信じて、信仰を具体化して、みことばのように救を体験しましょう。(KE)

ただ優しいだけが愛ではありません。

12月22日

「イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。」マルコ3:5a

多くの人はイエス様のことを誤解しているようです。確かに、主は「ののしられて、ののしりかえさず、激しき言葉を出さず」、忍耐と愛に満ちた方です。しかし、優しいばかりではなく、時には激しく怒りを表されることがあります。人が神様を恐れず、みこころを損なったときです。ただ優しいだけが愛ではありません。怒るべき「時」や、事柄を知っておられるゆえ、主の愛が輝くのです。(KE)

人は常になにか得体の知れないものを恐れて、戦々恐々としています

12月21日

「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」マタイ10:28

人にとっての最大の敵は自分の心に巣くう“恐れ”、恐怖心です。人は常になにか得体の知れないものを恐れて、戦々恐々としています。そのために、大胆になれません。小さく縮こまって生きています。人を恐れ、事情・境遇を恐れますが、しかし、真に恐るべきものは、主の語られるように、永遠の滅びに定める権威ある方、神様です。(KE)

自らを省みること、自分がどのような状態にあるかを知ることが肝心です

12月20日

「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。」ルカ6:41

幸か不幸か、人の目は自分を見るためにではなく、主に周囲や外を見るように出来ています。そのため、自分のことを棚上げして、あれこれ人のことをあげつらうことになります。まずは自らを省みること、他の人のことはさておき、自分がどのような状態にあるかを知ることが肝心です。ある哲学者も“汝自身を知れ”と語っています。神様が常に問われるのはあなた自身がどうであるかです。(KE)