5月4日
「まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。」アモス3:7
神様は人と違ってご自身ですべてを完結される方です。相談したり、助けを頼んだり、不足を嘆くこともありません。ましてや、ご自分がなそうとすることを誰かに知らせることもしませんが、ただ神様の御心を求める人に御霊によって「隠れた事」を教えてくださいます。御霊(聖霊)は神様の思いを全て知っておられ、それを私たちの霊に語ってくださるのです。(KE)
5月4日
「まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。」アモス3:7
神様は人と違ってご自身ですべてを完結される方です。相談したり、助けを頼んだり、不足を嘆くこともありません。ましてや、ご自分がなそうとすることを誰かに知らせることもしませんが、ただ神様の御心を求める人に御霊によって「隠れた事」を教えてくださいます。御霊(聖霊)は神様の思いを全て知っておられ、それを私たちの霊に語ってくださるのです。(KE)
5月3日
「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。」ヘブル2:18
世間でも「同病相哀れむ」と言います。強い人は弱い人の心の思いや苦しみを理解できません。苦しみや悩みを経験すると、同じ境遇にある人々を思いやることができます。イエス様は私たちと同じ試練を受け、十字架の苦しみを味わった方です。だから、私たちが試練にあるとき、全ての思いを知り、憐み、助けることができます。イエス様を信じて、その助けを求めましょう。(KE)
5月2日
「『見よ、これは新しいものだ』と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。」伝道1:10
人の世の様々な事象は常に繰り返されているものばかりです。世間で新しいといわれるものも、過去の例を探れば似たもの、それらしきものはすでにあったことです。ただ、神様のなさることは人の思いを越え、想像を越えたことです。神様らしいわざをなさって、私たちを驚嘆させ、神様を崇めさせるのです。思いがけないこと、予期しないことが起る時、まさに神業です。(KE)
5月1日
「あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならい。」申命記6:18a
人はとかく自分が良いと思うこと、自分が正しいと思うことを基準にして生活します。その結果、人を裁き、批判し、判断が恣意的になり、支離滅裂になってしまいます。「主が見て」という視点で判断し、行動するなら、他者がどうであろうと気にならず、また、自分のすることに自身が持てます。「主が見て」などという曖昧な基準では得手勝手な行動になると思われがちですが、決してそうはなりません。神様の霊が導いてくださるからです。(KE)
4月30日
「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。」第一テモテ4:4
人が幸不幸というもの、良い悪いと決めるのは、人の勝手な区分けであって、そのもの自体の価値とは関係ありません。自分にとってどうであるかというにすぎないのです。神様が森羅万象を創造されたとき、「はなはだ良かった」と喜ばれました。有形無形、どんなものも、どんな状況や事態も神様の創造によるものです。それを感謝して受けるかどうか、あなたにかかっています。(KE)
4月29日
「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。」詩篇73:25-26
世にあっては、天涯孤独、頼るものなしという状態は悲惨なものです。しかし、人は本来孤独者というか単独者なのです。大家族に囲まれようとも、友人が多数居ても、それは変りません。ただ、神様を頼りとし、その方にしっかりつながるなら、孤独のようでそうではなく、単独であってそうではない強さを持つことが出来ます。(KE)
4月28日
「シオンにおり、エルサレムに住む民よ、あなたはもはや泣くことはない。主はあなたの呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される。主がそれを聞かれるとき、直ちに答えられる。」イザヤ30:19
なんと慰みに満ちた言葉ではないでしょうか。神様は十字架を立てて、隔ての壁を取り除いてくださいました。「泣くことはない」と。泣き声を聞かれた主は、私たちが主に呼ばわるのを待っておられます。しかも、答えようと約束しておられます。遠慮なく、躊躇せず、大胆に信頼して、大きな声で主を呼んでください。(KE)
4月27日
「だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい。」ピリピ4:1
このような情愛深い呼びかけを受ける者はだれでしょうか。実は、神様のあなたに対する呼びかけにほかなりません。自分に向けられたものと思うと、なんだか恥ずかしい気がしますが、このうえなく嬉しいではありませんか。こんな深い愛をもって、あなたを顧みていてくださるのです。今日も、見えるものに振り回されず、「主にあって」堅く立ち歩もうではありませんか。(KE)
4月26日
「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。」ヨハネ14:15
「愛する」とはどうすることでしょうか。おんぶに抱っこ、なでたりさすったりして、可愛がることでしょうか。みことばによれば、「愛する」とは、その人の「いましめ」を守ることです。広い意味で、その人の語ることばを信頼し、従うことです。目に見えない方である、イエス様を愛するなど、どうやればいいのか当惑しますが、実に単純明快なことです。ただ、聖書を通して語られる主のことばを守り行うとき、主に出会うのです。(KE)
4月25日
「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」ピリピ2:8
これはイエス様の生涯を語った一言です。主の生涯を現すキーワードは「従順」です。では、誰に対して「従順」なのでしょうか。それは父なる神様に対してです。神の位にあった御子が人となること自体、とてつもないことであり、人の世にあっても、自分の思いのままではなく、神様の御旨に徹底して従われました。十字架の死をも父のみこころと信じたのです。これは救いを受けた私たちの生き方でもあります。(KE)