4月24日
「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。」ローマ8:33
イエス様の十字架による罪の赦しは、なにひとつ不足のない完全なものです。この十字架によって赦されない罪はありません。しかし、赦しを信じつつも、なお自分を責めるものがあります。人は心の奥底にそのような赦されない思いをいだいて、自らを責めて苦しみます。そのような隠された罪にいたるまで、神様は知り尽くして十字架に処分してくださったのです。もはや誰も、何も、あなたを責めるものはありません。(KE)
4月24日
「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。」ローマ8:33
イエス様の十字架による罪の赦しは、なにひとつ不足のない完全なものです。この十字架によって赦されない罪はありません。しかし、赦しを信じつつも、なお自分を責めるものがあります。人は心の奥底にそのような赦されない思いをいだいて、自らを責めて苦しみます。そのような隠された罪にいたるまで、神様は知り尽くして十字架に処分してくださったのです。もはや誰も、何も、あなたを責めるものはありません。(KE)
4月23日
「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」ローマ12:21
イエス様は十字架の死と復活によって、ご自分の生き様を手本としてそれに倣うようにと、私たちに生き方を教えてくれました。その一つはこの言葉です。主は罪無き方でしたが、罪人、しかも極悪非道な犯罪者として極刑を受けましたが、決して弁解、言い訳、抗弁、罵詈雑言など、一言も口にせず、されるままに黙々と従いました。しかし、勝利者はイエス様でした。なぜなら、神様は義に従って裁き、報われるからです。(KE)
4月22日
「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」ヨハネ16:33bc
イエス様を信じたら、悩みや苦しみが無くなるかと問われます。世間では、信仰すれば楽になると期待されているので、なんと答えようか迷いますが、真実なところ、主を信じて救われても、悩みはなくなりません。時には信仰ゆえに、困難や苦しみが増します。ただ、イエス様は死からよみがえって、私たちと共に生きて、悩み苦しみに戦って、勝利させてくださいます。この喜びこそ、救です。(KE)
4月20日
「イエスは彼に答えて言われた、『わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう』。」ヨハネ13:7
最後の晩餐の席で、イエス様は弟子たちの足を洗いました。弟子たちは驚いて、何をしているのかと怪訝に思いました。それは主の十字架を語る行為だったのですが、その意味が分らなかったのです。神様は私達に相談して事を進める方ではありません。そのため、周章狼狽します。今、なぜだかわからないことも、あとになって全てが明らかになります。主を信じて待ちましょう。(KE)
4月19日
「そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、『ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ』。」マルコ11:9 過越しの祭りのために、エルサレムへ来られたイエス様を群集が迎えました。しかし、この後、彼らは「十字架につけよ」と叫ぶのです。なんと大きな落差でしょうか。理解しがたいことですが、それは二千年以上も昔の人々のことではなく、私たちのことです。祝福と呪いが同じ口から出ます。自分勝手なご都合によってどんなにでも変るところに、主を死に追いやる人の罪があります。(KE)
4月18日
「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」第二テモテ3:12
イエス様を信じて、神様中心の信仰生活をしようとすると、この世の人々と妥協できないところが生じてきます。むしろ、そのような軋轢がない信仰なら、毒にも薬にもなりません。だからといって、闇雲に対立、争いを引き起こすものではありません。これは譲れないという確固とした一線があります。枝葉のことに囚われず、無くてはならない信仰の中心をしっかり守ろうではありませんか。(KE)
4月17日
「兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。」ガラテヤ4:28
イサクはアブラハムに与えられた子です。高齢で不妊であった彼らに、神様は約束を成就してくださいました。彼には女奴隷ハガルによって生れたイシマエルがいます。この子は神様の約束ではなく、人の欲によって生れた者です。私たちも肉によって生れた者でしたが、イエス様の十字架のあがないを信じて、神様の約束によって神の子とされました。私たちは父祖アブラハムの受けた祝福を受け継ぐ者、イサクの末裔です。(KE)
4月16日
「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。」ヨハネ7:37
「かわく」とは身体的に「のどが渇いた」ことを言っているのではありません。心が「かわく」という意味です。生きる喜びがない、望みがない、満足できないなど、物質的に境遇が恵まれていても、生きること自体に空虚さを覚える状態です。なにか病気でもあれば、治療すればいいことですが、病的なものではない虚無感が心にあるとき、それを癒すのは神様との関係を正しくする以外にありません。それはイエス様によるのです。(KE)
4月15日
「母は僕(しもべ)たちに言った、『このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい』。」ヨハネ2:5
イエス様がカナの村で水をぶどう酒に変える奇跡を行われましたが、そのときマリヤさんが語ったことばです。この後、この僕たちはイエス様の言われることをそのまま実行しました。必要のない水を甕(かめ)に汲み入れました。奇跡が起るとき、そこに必ず忠実に従う者たちがいます。この僕たちがいなければ、この奇跡は起らなかったでしょう。あなたもこのしもべの一人になってください。(KE)
4月14日
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。」マタイ7:24
これはイエス様の譬えですが、家を建てるとき、地盤や土台が大切だと誰もが知っています。では、人生の土台はどうでしょうか。主は砂の上に建てた愚かな人のことも語っています。お金や健康、友達や親族などの人間関係などを土台とするなら、それは砂の上です。地震や暴風雨に遭うとすぐに壊れ、流されます。主のみことばを土台とする人生こそ、どんなことにも不動のものです。(KE)