私達も目の前の問題や事件しか見えないため、うろたえ大騒ぎします

10月5日

「エリシャは言った、『恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから』。」列王下6:16

 預言者エリシャの家がスリヤの軍勢に取り囲まれました。召使いはそれを見て恐れおののきました。これはその時の言葉です。召使いの目にはスリヤ軍しか見えませんでしたが、神様の軍勢である火の馬と火の戦車が彼らを守っていたのです。私達も召使いのように目の前の問題や事件しか見えないため、うろたえ大騒ぎしますが、まず祈って、全能の神なる主を見てください。勇気が湧いてきます。(KE)

みことばに賭けてみてはいかがですか

10月4日

「神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。」 ローマ4:21

 私達の信仰は神様の言葉を信じることによるものです。しかもその言葉は約束ですから、実行されなければ意味がありません。口約束、空手形などと言われるように、人の世では言葉だけで成就しないことのほうが多い。そこで大切なのは、当事者の資質、すなわち真実か不真実かによるのです。人は不真実ですから当てになりませんが、神様は真実な方です。決して裏切ることをなさいません。みことばに賭けてみてはいかがですか。(KE)

むしろ復活を信じなければキリスト教はいのちを失い、私達の信仰も消えてしまいます

10月3日

「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。」第一コリント15:14

 イエス様の復活はキリスト教の躓きの石だという人がいますが、むしろ復活を信じなければキリスト教はいのちを失い、私達の信仰も消えてしまいます。イエス様がよみがえって、今も共におられることを信じるとき、現実の生活のなかで、ふとしたときに主の眼差しを感じ、ささやきを聞き、み手のぬくもりを味わうことができます。こればかりは信じて体験しなければどうにもなりません。(KE)

それには神様の意図があったのです

10月2日

「聖書はパロにこう言っている、『わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである』。」ローマ9:17

 モーセは神の民を解放するようにとパロ王に繰り返し要求しますが、王は頑なになり、前言を翻して拒み続けます。どうして神様はパロ王を赦しておられるのかと思いますが、それには神様の意図があったのです。彼によって神様のわざが明らかに成るためです。どんなことにも神様による存在理由があるのです。(KE)

最善の時をと願いますが、ただ、それがいつであるか確信がもてません

10月1日

「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」伝道3:11

 何事にもそれぞれ「潮時」というものがあります。最善の時をと願いますが、ただ、それがいつであるか確信がもてません。だから、この時でよかっただろうかと不安になります。しかし、神様はけっして「時」を逃しません。「今がその時だ」と神様が促される指示を待ち、即座に従おうではありませんか。(KE)

むしろ、いつくしみと憐れみに満ちた方です

9月30日

「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」ホセア6:6

 日本人には、神様は怖いものであって、たたりをあたえると古くから刷り込まれた観念があります。真の神様はそうではありません。確かに恐れるべき方ですが、決して恐怖を抱くべき方ではありません。むしろ、いつくしみと憐れみに満ちた方です。神様はご自分をもっと知ってほしいと願っています。それは神様に対して偏見や誤解があるからです。日々の生活を通して神様と深く交わり、神様の愛に満たされましょう。(KE)

善いことも悪いことも、神様のご計画とみ思いによるのです

9月29日

「主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか。災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか。」哀歌3:37-38

 天地万物が神様の創造によるのだと信じるとき、私達の日常生活もまた創造者の摂理によって存在していると信じざるを得ません。神様の許しがなければ人はなにひとつ出来ないし、事は起こりません。人にとって善いことも悪いことも、神様のご計画とみ思いによるのです。それらの結論は世を去るとき、否、終末のときまで待たなければなりません。(KE)

自分ではない思いが与えられ、行動に促されます。

9月28日

「わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない。」使徒4:20

  聖霊に満たされたのち、弟子たちはユダヤ人を恐れず、町中へ出掛けて大胆にイエス様の救いを語りました。誰に指示されたわけでもなく、内部から突き動かす力に押し出されたのです。聖霊あるいは御霊は私達にたえず干渉して来られます。その時、自分ではない思いが与えられ、行動に促されます。じっとしておられない、言わなければ居られない事態におかれます。あなたにも神様は臨んでおられます。(KE)

あなたがしていることが神様のみこころであると確信するなら天に宝をつむことです

9月27日

「自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである。」ルカ12:21

 自分の欲望や情動に動かされて、それらを満たすことは「自分のために宝を積む」ことです。一方、あなたがしていることが神様のみこころであると確信するなら、そのことは「神に対して富む」ものです。これが天に宝をつむことです。同じ事をしていても、その動機が自分のためなのか、主のためなのかによって、大きく違ってきます。神に対して富む行為はこの世で報われませんが、天国銀行の口座に積み立てられているのです。(KE)

神様のことばも歳を重ねて来るにつれて含蓄のある言葉に変わってきます

9月26日

「わが子よ、あなたの父の戒めを守り、あなたの母の教を捨てるな。つねに、これをあなたの心に結び、あなたの首のまわりにつけよ。」箴言6:20-21

 世間でも、「親の意見となすびの花は、千に一つの無駄もない」と言われます。親の意見や小言はうるさくて無駄なように思われますが、歳を重ねて来るにつれて含蓄のある言葉に変わってきます。神様のことばも同じです。若いときはみことばに心を留めませんが、人生半ばを超えてくると、しみじみ得心が行きます。今はわからなくても、しっかり御言を心に蓄えましょう。(KE)