4月3日
「彼は拝して言った、『あなたは、しもべを何とおぼしめして、死んだ犬のようなわたしを顧みられるのですか』。」サムエル下9:8
ダビデは王位に着いた時、親友ヨナタンの遺児、メピボセテに恵みを施そうとします。彼は両足がともに不自由だったのです。王は彼を宮殿に住まわせ、自分の食卓で一緒に食事をするようにしました。彼は破格の取り扱いに、恐縮至極、謙って王様の処遇に感謝しました。私達も、ただイエス様のゆえに、「死んだ犬」同然なものが神の子とされたのです。神様の恵みを感謝しましょう。(KE)
4月3日
「彼は拝して言った、『あなたは、しもべを何とおぼしめして、死んだ犬のようなわたしを顧みられるのですか』。」サムエル下9:8
ダビデは王位に着いた時、親友ヨナタンの遺児、メピボセテに恵みを施そうとします。彼は両足がともに不自由だったのです。王は彼を宮殿に住まわせ、自分の食卓で一緒に食事をするようにしました。彼は破格の取り扱いに、恐縮至極、謙って王様の処遇に感謝しました。私達も、ただイエス様のゆえに、「死んだ犬」同然なものが神の子とされたのです。神様の恵みを感謝しましょう。(KE)
4月2日
「主の使は彼に言った、『わたしの名は不思議です。どうしてあなたはそれをたずねるのですか』。」士師記13:18
神様の別の名は「不思議」です。神様のわざが私たちには不思議なことと思われるからです。確かに、人が出来る程度のことしか出来ない神様なら、神様とは言えません。人の思い、考え、想像をはるかに越えたわざをなさるから、神様です。まさに不思議を行われます。英語ではname of wonderとなっています。言うならば、私たちに「ワンダフル」と驚嘆させるお方、それが神様です。(KE)
4月1日
「わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない。」ヨシュア1:9
神の民を率いてカナンの地へ入ろうとする指導者、ヨシュアに語られた言葉です。彼は重大な責任に潰れそうで、孤独でした。そのとき、神様は「私が共にいるよ」と語られました。今日一日も、神様はあなたと共にいるから、「恐れるな」「おののくな」と言われます。大胆に主を信頼して、未知なるものへ踏み出しましょう。(KE)
3月31日
「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」ヤコブ1:2
これはまた驚きの言葉です。誰だって試練は避けたいし、嫌なことです。出来れば会わないほうがいい。と言っても、人は生きている限り、試練を避けることができません。殊に、信仰に立って生きようとすると、試練が多くなります。それは神様の恵みです。試練を通ることによって、あなたのうちにある隠された能力が引き出され、神様の並外れたわざが現れるためです。(KE)
3月30日
「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」第二テモテ2:8
イエス様は神の子であり、神と等しい方ですが、あえて人となり世に来てくださいました。それは神様に対する私達の罪を負う犠牲となるためです。主は十字架に死んで葬られましたが、墓から甦り、信じる者たちの新しい命となってくださったのです。日々の生活のなかで、常にイエス様を覚えて、主のよみがえりの命に生きることが救であり、福音です。(KE)
3月29日
「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである。」エレミヤ17:10
神様が私たちを様々な事情や境遇におかれるのは、私達の心を知るためであり、また私たちが自分の心を知るためでもあります。なぜなら、自分の心であっても、それを知らないからです。苦しみ、悩み、悲しみ、喜び、楽しみなどを通して、自分の心にあるものがなんであるか、はじめて明らかになります。自分の知らない自分を知るのです。それは神様の恵みです。(KE)
3月28日
「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。」イザヤ30:15
何かの問題や事に当たると、人は狼狽し、右往左往します。なんとかのがれる道は、方法はないか、早くしなければ手遅れになると焦ります。しかし、すべての事を始め、導かれるのは神様です。まず、神様に立ち返り、信頼して拠り頼むこと。主が働かれるときを待つ。これが何よりも大切です。(KE)
3月27日
「それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。」伝道1:18
人の罪は知恵や知識を過剰に求めることです。知らないことがあるのは当然ですが、それでは満足しません。人は「どうして?」「なぜ」と問い始めて、悩みと憂いの底なしの沼にはまります。そうならないためには、自分は分らないが、神様は全知全能なる方であって、全てを知っておられると信じる以外にありません。情報過多の時代です。聞くこと、知ることに気をつけたいものです。(KE)
3月26日
「主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。」詩篇27:1
「恐れ」は私達の最大の敵です。「恐れ」にとりつかれると、力をなくし、心が萎えてしまいます。自分が強くなれば恐れることがないと思いますが、それは無理です。私たちはどんなにしても弱い者ですから。弱さを認めて、強いものに守ってもらうほかありません。神様を「光」とし、「救」となし、「命のとりで」とするなら、恐れるものはありません。神様のもとに逃げ込もうではありませんか。(KE)
3月25日
「しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。」ヘブル4:2b
「言葉」は聞くだけ、知っているだけでは役に立ちません。特に、神様の言葉である聖言は、実際生活の事柄に当てはめて、実行する時に力を発揮します。確かに、聖書の言葉と現実とはかけ離れて、どこもつながらないように思われますが、心に残る一つのみことばに信頼して、踏み出すとき、想像を越えた事態を体験します。聖書にはそのような実例が沢山あります。(KE)