3月24日
「なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」ローマ8:5-6
「肉」とは人の生まれながらの性質、神様を認めず、我利我欲に支配され、自分こそ正しいとする性質です。一方、「霊」とは神様から与えられる力で、神様を畏れ、敬い、御心に従うことを喜び、神様とつながる力です。私たちはこの二つのものに常に引き回されています。物事の選択と決断を迫られるとき、霊に従う者となってください。(KE)
3月24日
「なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」ローマ8:5-6
「肉」とは人の生まれながらの性質、神様を認めず、我利我欲に支配され、自分こそ正しいとする性質です。一方、「霊」とは神様から与えられる力で、神様を畏れ、敬い、御心に従うことを喜び、神様とつながる力です。私たちはこの二つのものに常に引き回されています。物事の選択と決断を迫られるとき、霊に従う者となってください。(KE)
3月23日
「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。」ガラテヤ4:6
私たちに与えられる御霊は、私たちを神の子にしてくださる霊です。それによって、父なる神様を知り、イエス様を救い主と信じることができ、いつでも、どこでも祈ることができるのです。御霊が働いてくださらなければ、神様からの恵みを受けることができません。高度な学問的知識も、熱心なわざでも、役に立ちません。聖霊は信仰生活の必須条件です。(KE)
3月22日
「そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ』。」ヨハネ20:22
イエス様は甦られて、弟子たちのところに来てくださいました。その時、言われたのがこの言葉です。イエス様の使命が終わり、天に帰られるので、ご自分の代わりに弟子たちと共に居てくださる方として、聖霊を送ってくださったのです。今も、神の御霊、聖霊は私達の内に宿ってくださいます。主は「受けよ」と言われますから、「ハイ、いただきます」と素直に信じる人のなかに住んでくださるのです。(KE)
3月21日
「おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。主はとこしえにこのような人を捨てられないからである。」哀歌3:30-31
非難中傷を甘んじて受けるには大変な忍耐が必要です。忍び抜くためには、神様が全てをご存じで、公平な裁きをなさること、報いて下さることを信じる以外にありません。イエス様も同じ道を歩まれました。ともすると、感情に駆られ、堪忍袋の緒が切れて、罵詈雑言、ありったけの罵声を投げつけることになりやすいものです。神様に一切を委ねて、審判を待ちましょう。(KE)
3月20日
「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。」ルカ12:25
“死”の不安と恐れが、人の思い煩いの中心にあります。死の影に脅かされて、萎縮し、大胆になれず、憂いと嘆きのうちに過ごしています。しかし、この言葉につづいて、「そんな小さな事さえできないのに」と言われています。確かに、何でも自分の思うように出来ると思い上がっているのです。実は何も出来ず、ただ神様のみ手に握られ、持ち運ばれているだけです。何を心配することがあるでしょうか。(KE)
3月19日
「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。」ヨハネ14:2
イエス様はよみがえられて、40日にわたって多くの人々にそのことを証しなさいました。その後、天に帰られましたが、それは私たちに場所を用意して、迎えてくださるためです。私たちの地上での生活は必ず終わりますが、そのあとはどうなるのでしょうか。消えて無になるのでなく、神様のみもとに場所が備えられているのです。(KE)
3月18日
「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない。」エペソ4:26-27
人はすべて感情豊かな存在です。どんなに立派な聖人君子であっても、時に、激しい感情に支配され、怒ることがあります。これは当然ですが、大切なのはそれをどのように納めるかです。一日が終わるまでに心を整えなければ、悪魔は力を振るってきます。悪魔は絶えずあなたを狙ってきますから、お互い十分に気をつけたいものです。(KE)
3月17日
「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」第二コリント1:4
患難や悲しみの中にあるとき、慰めはどんなに大きな力でしょうか。それを与える方は神様以外にありません。人の同情や憐憫は慰めにならないばかりか、むしろ苦痛です。また、神様の慰めを受けるのはそれを他の人々へ持ち運ぶためにほかなりません。主の慰めを求め、受けて、伝えてください。(KE)
3月16日
「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。」ローマ8:31b
世間には「鬼に金棒」という言葉がありますが、このみことばはそれ以上の力があります。なんといっても、神様が味方となってくださると言うのですから、当る所敵なしです。ところが、神様が味方であると信じられないところに私たちの弱さがあります。その原因は神様との信頼関係が壊れているからです。信頼関係を修復するには謙遜になって神様に近づき、赦しを乞い、相手の真実に触れる以外にありません。(KE)
3月15日
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3:16
人は愛を見える形で求めようとします。神様に対しても同じです。神様が愛ならば、それらしいことをしてほしいと。しかし、神様の愛はなでたり、おんぶに抱っこではありません。ひとり子を私たちの罪の贖いの供え物として差し出してくださったことにあるのです。それ以上に愛を現す術がありません。まさに、十字架こそ、あなたに対する神様の愛の証です。(KE)