それを選び取っているのは、当事者である私たちです

11月17日

「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」ヨハネ3:18

 神様のさばきとはなにか特別な事態に遭うことではありません。それを選び取っているのは、当事者である私たちです。イエス様を信じればそのごとく救われ、恵みをいただきますが、信じなければ、そのこと自体がその人にとって不幸な結果だからです。ただ、それに気が付いていないのです。信じるか信じないか、こればかりは他人はどうにもできません。(KE)

僕たちのイエス様に従う従順さと忠実さがあったからなされたことです

11月16日

「母は僕(しもべ)たちに言った、『このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい』。」ヨハネ2:5

 イエス様は僕たちに甕いっぱいに水を汲ませました。その中から桶一杯を料理人のところへ持って行かせたところ、良質のブドウ酒になっていました。水がブドウ酒になるという奇跡が行われたのですが、僕たちのイエス様に従う従順さと忠実さがあったからなされたことです。今も、僕たちのようにイエス様の言葉に忠実に従うなら、奇跡といわれる結果を得ることができます。(KE)

実を結ぶ秘訣はイエス様につながることです

11月15日

「すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから』。」 ルカ13:8

 ブドウ畑の隅に植えられたイチジクの木が実らないため、主人は切り倒そうとしますが、園丁はとりなして猶予を願いました。私たちこそ場所ふさぎで、役立たない存在です。神様はすぐにでも切り倒したいほどでしょう。しかし、ただ御子イエス様の命を賭したお取り成しのゆえに、今年も猶予されたのです。実を結ぶ秘訣はイエス様につながることです。今年こそ実を結びましょう。(KE)

それぞれ託されたものを用いて収穫した僕達は、主人から称賛されました

11月14日

「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。」マタイ25:21

 これはタラントの譬えです。主人がしもべたちにそれぞれタラントを預けて出かけました。やがて帰宅した主人は僕たちと清算したのです。主人の意図を知ってそれぞれ託されたものを用いて収穫した僕達は、主人から称賛されました。これは私たちのことです。主人である神様が清算されるときが来ます。しっかり、主人の意図に従って喜ばれたいものです。(KE)

何をよりどころにして生きるかが人生のあり方を決めることになります

11月13日

「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」第二コリント5:7

 「歩く」とは生活することです。日々、何をよりどころにして生きるかが人生のあり方を決めることになります。目で見るところ、理解できる範囲、多数の趨勢など、様々な条件に左右されながら生きていますが、ただそれだけであれば、実に小さなものでしかありません。もう一つ、目に見えないもの、神様を信じて無なる地平、未知なる空間へ踏み出す時、人生の風景は激変します。あなたも神様のみわざを体験する冒険へ踏み出しましょう。(KE)

常に神様を恐れ、神の義を渇き求めようではありませんか

11月12日

「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」マタイ5:6

 不義や不正がはびこり、悪が跋扈(ばっこ)する世にありますが、だからといって、義を求める者が空しくなることはありません。ソドムの町にいた義人ロトのように、世に染まらず、流されず、常に神様を恐れ、神の義を渇き求めようではありませんか。神様はそのようなものたちを見捨てません。定められた時がくるなら、神様は必ず報いてくださいます。(KE)

置かれたところ、与えられたことのなかで徹底して従いました

11月11日

「しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。」創世記45:5

 神様のご計画、みわざはいかに大きなものでしょうか。ヨセフは兄弟の反感を買い、売られてエジプトへ来ました。その後、さまざまな苦難を経てエジプトの宰相となり、飢饉のため苦しむ家族を救う先立ちとなったのです。ヨセフは神様のみ手を信じて、置かれたところ、与えられたことのなかで徹底して従いました。すべてのことを導かれるのは神様であると信じたからです。(KE)

実際は何ひとつ確実なものはありません

11月10日

「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。」ヤコブ4:14

 自分のことはなんでも自分で決定できるかのように錯覚しています。実際は何ひとつ確実なものはありません。創造者なる神様のみ手に支配されているからです。明日が、来年がどんな日になるのか、皆目分りませんが、神様は明確な目的と計画で私たちを導いておられます。主がなさるわざを信じてゆだねようではありませんか。(KE)

人々が救われるその時を忍耐して待っておられるのです。

11月9日

「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」第二ペテロ3:9

 始まりがあれば、必ず終わりもあります。この宇宙も、世界も、やがて滅び失せるときがきますが、それがいつであるかわかりません。ただ神様の思いはすべての人々が救われることを願って、その時を忍耐して待っておられるのです。主のみ思いを無駄にしないで、主のご期待に応えようではありませんか。(KE)

試練を通るとき、不純物、汚れたものが心の内外から削り取られます

11月8日

「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」ヘブル12:14

 「きよい」とはどんなことでしょうか。簡単に言えば、混じりけがない、純粋であることです。それを人のこころに当てはめてみると、言葉と行動、思いと言葉がちぐはぐで、雑多な感情や情念にかき乱されているとき、「きよい」と言えません。試練と言われる困難や苦しみ、悩みを通るとき、不純物、汚れたものが心の内外から削り取られます。試練を逃げないで、自分を磨きましょう。(KE)