2月16日
「そして約四十年にわたって、荒野で彼らをはぐくみ、…」使徒13:18
神の民はエジプトから救い出されて、約束の地カナンを目指して旅をしました。いよいよカナンの地というところで、神様に背き、さらに40年の荒野の旅を続けました。考えるととてつもない年月です。広いと言ってもシナイ半島ですから、人の計画でやれば数年も掛けずに終わるものでしょう。まさに神様の訓練であったといえます。神の民を清め、整え、育ててくださったのです。私たちの日々も同様に神様の教育がなされているのです。(KE)
2月16日
「そして約四十年にわたって、荒野で彼らをはぐくみ、…」使徒13:18
神の民はエジプトから救い出されて、約束の地カナンを目指して旅をしました。いよいよカナンの地というところで、神様に背き、さらに40年の荒野の旅を続けました。考えるととてつもない年月です。広いと言ってもシナイ半島ですから、人の計画でやれば数年も掛けずに終わるものでしょう。まさに神様の訓練であったといえます。神の民を清め、整え、育ててくださったのです。私たちの日々も同様に神様の教育がなされているのです。(KE)
2月15日
「そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。」第二テモテ2:1
誰でも強くなりたいと願います。それは常に自分が弱いことを知っているからです。そのため知力、体力、金力、政治力、学力など、いろんな力を求めます。しかし、それらは一時しのぎになりますが、外側から貼り付けた力なので、事にあたると脆くもはがれてしまいます。自分の内側から沸いてくる力こそ、本当の力です。それは私たちがキリストのものとなりきってしまうことです。(KE)
2月14日
「『見よ、これは新しいものだ』と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。」伝道1:10
人の世の様々な事象は常に繰り返されているものばかりです。世間で新しいといわれるものも、過去の例を探れば似たもの、それらしきものはすでにあったことです。ただ、神様のなさることは人の思いを越え、想像を越えたことです。神様らしいわざをなさって、私たちを驚嘆させ、神様を崇めさせるのです。思いがけないこと、予期しないことが起る時、まさに神業です。(KE)
2月13日
「あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならい。」申命記6:18a
人はとかく自分が良いと思うこと、自分が正しいと思うことを基準にして生活します。その結果、人を裁き、批判し、判断が恣意的になり、支離滅裂になってしまいます。「主が見て」という視点で判断し、行動するなら、他者がどうであろうと気にならず、また、自分のすることに自身が持てます。「主が見て」などという曖昧な基準では得手勝手な行動になると思われがちですが、決してそうはなりません。神様の霊が導いてくださるからです。(KE)
2月12日
「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何ひとつ捨てるべきものはない。」第一テモテ4:4
人が幸不幸というもの、良い悪いと決めるのは、人の勝手な区分けであって、そのもの自体の価値とは関係ありません。自分にとってどうであるかというにすぎないのです。神様が森羅万象を創造されたとき、「はなはだ良かった」と喜ばれました。有形無形、どんなものも、どんな状況や事態も神様の創造によるものです。それを感謝して受けるかどうか、あなたにかかっています。(KE)
2月11日
「わたしはあなたのほかに、だれを天にもち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。」詩篇73:25-26
世にあっては、天涯孤独、頼るものなしという状態は悲惨なものです。しかし、人は本来孤独者というか単独者なのです。大家族に囲まれようとも、友人が多数居ても、それは変りません。ただ、神様を頼りとし、その方にしっかりつながるなら、孤独のようでそうではなく、単独であってそうではない強さを持つことが出来ます。(KE)
2月10日
「シオンにおり、エルサレムに住む民よ、あなたはもはや泣くことはない。主はあなたの呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される。主がそれを聞かれるとき、直ちに答えられる。」イザヤ30:19
なんと慰みに満ちた言葉ではないでしょうか。神様は十字架を立てて、隔ての壁を取り除いてくださいました。「泣くことはない」と。泣き声を聞かれた主は、私たちが主に呼ばわるのを待っておられます。しかも、答えようと約束しておられます。遠慮なく、躊躇せず、大胆に信頼して、大きな声で主を呼んでください。(KE)
2月9日
「だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい。」ピリピ4:1
このような情愛深い呼びかけを受ける者はだれでしょうか。実は、神様のあなたに対する呼びかけにほかなりません。自分に向けられたものと思うと、なんだか恥ずかしい気がしますが、このうえなく嬉しいではありませんか。こんな深い愛をもって、あなたを顧みていてくださるのです。今日も、見えるものに振り回されず、「主にあって」堅く立ち歩もうではありませんか。(KE)
2月8日
「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。」ヨハネ14:15
「愛する」とはどうすることでしょうか。おんぶに抱っこ、なでたりさすったりして、可愛がることでしょうか。みことばによれば、「愛する」とは、その人の「いましめ」を守ることです。広い意味で、その人の語ることばを信頼し、従うことです。目に見えない方であるイエス様を愛するなど、どうやればいいのか当惑しますが、実に単純明快なことです。ただ、聖書を通して語られる主のことばを守り行うとき、主を愛しているのです。(KE)
2月7日
「彼は拝して言った、『あなたは、しもべを何とおぼしめして、死んだ犬のようなわたしを顧みられるのですか』。」サムエル下9:8
ダビデが王位についたとき、かつての親友ヨナタンの家族を捜したところ、足の不自由なメピボセテだけが生存していました。王は彼を王宮に住まわせ、王の食卓で食事をさせたのです。それはヨナタンに対するダビデの愛情から出た行為でした。私たちも御子イエス様のゆえに、父なる神様から破格の恵みをいただいています。メピボセテのように謙遜になって神様に感謝しましょう。(KE)