1月27日
「悔い改めよ、天国は近づいた。」マタイ3:2
これはバプテスマのヨハネが宣教のわざを始めたときの言葉です。またイエス様もその公生涯をはじめた時、同じ言葉で語りました。これが福音の真髄だからです。神様が備えてくださった救いは、すでに万事万端整っています。まさに「天国は近づいた」のです。ただ欠けているものがあります。それは私たちの「悔い改め」です。投げられたボールをどうするか、それはあなたにかかっています。「悔い改め」とは主の十字架、神様の赦しを感謝して受けることです。(KE)
1月27日
「悔い改めよ、天国は近づいた。」マタイ3:2
これはバプテスマのヨハネが宣教のわざを始めたときの言葉です。またイエス様もその公生涯をはじめた時、同じ言葉で語りました。これが福音の真髄だからです。神様が備えてくださった救いは、すでに万事万端整っています。まさに「天国は近づいた」のです。ただ欠けているものがあります。それは私たちの「悔い改め」です。投げられたボールをどうするか、それはあなたにかかっています。「悔い改め」とは主の十字架、神様の赦しを感謝して受けることです。(KE)
1月26日
「しかし、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない。」エゼキエル28:2b
これは人である私たちの守るべき大切な一線です。しばしばこの線を越えて思い上がるものですから、苦しみます。あなたが苦しみ悩む時、自分の手に負えない事態や状況におかれる時、このみことばに立ちかえって、神様の前に心を低くしようではありませんか。そうすれば肩から力が抜けて、生きることが軽くなります。人は被造物であって、造物主には決してなれないのです。(KE)
1月25日
「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。」イザヤ60:1
夜空に輝く月は自分自身で光っているのではありません。太陽の光を受けて、それを反射しています。私たちには月と同様に自分で輝く力がありません。不安と恐れ、悲しみと失望、怒りとつぶやきなど、闇に覆われて見る影もないのが実情です。しかし、神様はみことばの光を照らして、「起きよ、光を放て」と命じられます。どんなに深い暗黒にあろうとも、光の源なる神様に思いを向け、心を開くなら、あなたが輝くものとなります。(KE)
1月24日
「ペテロは力をこめて言った、『たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません』。みんなの者もまた、同じようなことを言った。」マルコ14:31
ペテロは主を裏切った者と言われますが、人の決心・決断ほど脆いものはありません。私たちもペテロを非難する資格はありません。思いや願いはあっても、現実になると怖気づきます。しかし、神様の霊、聖霊に満たされたペテロは全く違った人になりました。自分の力では出来なくても、神様がさせてくださるとき、出来ないことはありません。(KE)
1月23日
「しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。」ヨハネ16:32cd
最後の晩餐のとき、語られたイエス様の言葉です。イエス様はそれまで寝食を共にした弟子たちがご自分を捨てて逃げ出すことを知っていました。しかし、イエス様が拠り所としていたのは、父なる神様です。家族や友人から離れると孤独だと言って不安になりやすい私たちです。イエス様はそうではないことを教えてくださいました。あなたもひとりでいるのではありません。主が共におられることを信じてください。(KE)
1月22日
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。」第一ヨハネ4:18
「愛」の反意語は「憎しみ」ではなく、「恐れ」です。「恐れ」があるところに「愛」はありません。どんなに親しい人でも、僅かでも「恐れ」を感じるならば、そこに「愛」はありません。「恐れ」がなくなると、出来るだけ近くにいたいと願うようになり、どんなことでも受容できます。そこに「愛」があります。「恐れ」を「愛」に変えるのは神様の力、聖霊です。(KE)
1月21日
「主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください。」詩篇26:2
私たちの信仰は、時として消極的な守りの姿勢になりがちです。問題も無く、事もないようにと願います。しかし、それでは神様の確かな手ごたえを感じることができません。さまざまな問題や悩み、苦しみに遭い、自分の信仰が試され、雑然とした思い、ちぢに乱れた心がきよめられるために、むしろ積極的に受けて立つ、前に踏み出すことが大切です。それによって私たちは成長するのです。(KE)
1月20日
「彼は主が油を注がれた者であるから、彼に敵して、わたしの手をのべるのは良くない。」第一サムエル24:6b
サウル王が在位しているうちに、ダビデが次なる王とされたので、命を狙われることになりました。隠れている同じ洞窟にサウル王が休息したのです。ダビデにとって千載一遇のチャンスです。仲間達も王の命を奪うようにと進言しました。しかし、ダビデは神様を畏れる人です。神様が立てられた人であるから、神様がまた取り除かれると信じて、自らの手を下しません。神様を畏れるとはこのようなことです。(KE)
1月19日
「時に主は言われた、『わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか』。」創世記18:17
私たちが神様を信頼することは恵であり、幸いです。しかし、神様に信頼されるのはさらに大きな恵です。信仰の父であるアブラハムは神様からの絶大な信頼を得たのです。それは彼が神様を信頼し、従ったからに外なりません。このとき、ソドムとゴモラの町に対する計画を明かしてくれました。今でも、神様はご自分が信頼するものに思いを語ってくださいます。あなたも神様の信頼を勝ち取ってください。(KE)
1月18日
「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」イザヤ55:8-9
私たちは将来が分らないことで不安を感じます。しかし、分らないからこそ、私たちの思いとは違う神様の思いに導かれ、備えられていると言うほかありません。それを信じて、委ねるところに平安があります。いつまでも自分の思いの範囲にとどまり続ける限り、安心はありません。(KE)