ダメな自分だと卑下することは奥ゆかしく聞こえますが、信仰においては失格です

2月22日

「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。」ローマ8:33

神様の救、罪の許しは何ひとつ欠けたところのない完全なる救です。神様は多くの人々の中から、あなたを選び、この大きな恵みを与えておられます。しかし、現実の自分の姿、行動をみるとき、出来ていない、不足ばかりが目につき、こんな状態で救われたのだろうかとささやく声が聞こえてきます。ダメな自分だと卑下することは奥ゆかしく聞こえますが、信仰においては失格です。現実がどうであれ、神様の救を確信してください。(KE)

神様に祈り求めて、神様に動かしていただくのが最善な道です

2月21日

「王の心は、主の手のうちにあって、水の流れのようだ、主はみこころのままにこれを導かれる。」箴言21:1

我がままで手のつけようのない人物は王様でしょう。専制君主です。心のまま、思いの向くまま生殺与奪の権を振り回すから、危険です。そのような人の心すら、神様の手に握られているのです。頑固この上ない人にも、神様がみ手を動かされればどんなにでも変ります。ですから、説得して人を動かそうとしても出来ませんが、神様に祈り求めて、神様に動かしていただくのが最善な道です。(KE)

イエス様を信じてどんなことにも耐え忍ぶのです

2月20日

「あなたがたは耐え忍ぶことによって、自分の魂をかち取るであろう。」ルカ21:19

信仰に生きる生涯は、事情・境遇など、生活環境や状態がより良くなることではありません。勿論、それも願わしいことですが、私たちの求めるものは「永遠の命」、魂の救いを得ることです。そう言われても、何のことか分かりませんが、あえて言い換えると「究極の安心」を得ることです。そのために必要なのはイエス様を信じてどんなことにも耐え忍ぶのです。神様は必ず「究極の安心」、魂の救いを与えてくださいます。(KE)

恵みを具体的に体験する過程で出会う試練です

2月19日

「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。」マタイ4:1

イエス様はヨハネによってバプテスマを受けられた後、救い主としての使命に導かれます。その最初が荒野の誘惑です。それは私たちも神様に仕える者になるために通らねばならない道を示すためでした。主の十字架の恵みによって救われた者たちが、その恵みを具体的に体験する過程で出会う試練です。それは神様の深いご愛のご計画であって、いじめて苦しめようというのではありません。むしろ、みことばによる神様の力を味わい知るためです。(KE)

主は人々を避けて父なる神様との交わり、祈りの時を得ていました

2月18日

「そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。」マルコ6:46

イエス様はこの世に在りし日々、一時も休む間なく忙しくしておられました。しかも、イエス様を求める多くの人々が絶えず周りにいました。しかし、そのような中で、時折、主は人々を避けて父なる神様との交わり、祈りの時を得ていました。これは現代社会に生きる私たちへの生き方を示唆する言葉ではないでしょうか。日々、忙しく休む間もありませんが、その中にあっても、僅かな時間であっても静思のとき、神様に祈るときを確保することが大切です。(KE)

自分の罪を認め、神様の赦しをねがう人です

2月17日

「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。」ルカ18:13

神様が求めておられるのはどのような人であるか、イエス様が話された譬えです。人は他者に対して完全で、不足のないことを期待し要求します。しかし、自分を義人だと自認する人ではなく、自分の罪を認め、神様の赦しをねがう人です。そのような人は、自分の弱さを克服し、変わりたいと切に願います。神様はそれに応えてくださいます。(KE)

まさに神様の訓練であったといえます

2月16日

「そして約四十年にわたって、荒野で彼らをはぐくみ、…」使徒13:18

神の民はエジプトから救い出されて、約束の地カナンを目指して旅をしました。いよいよカナンの地というところで、神様に背き、さらに40年の荒野の旅を続けました。考えるととてつもない年月です。広いと言ってもシナイ半島ですから、人の計画でやれば数年も掛けずに終わるものでしょう。まさに神様の訓練であったといえます。神の民を清め、整え、育ててくださったのです。私たちの日々も同様に神様の教育がなされているのです。(KE)

自分の内側から沸いてくる力こそ、本当の力です

2月15日

「そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。」第二テモテ2:1

誰でも強くなりたいと願います。それは常に自分が弱いことを知っているからです。そのため知力、体力、金力、政治力、学力など、いろんな力を求めます。しかし、それらは一時しのぎになりますが、外側から貼り付けた力なので、事にあたると脆くもはがれてしまいます。自分の内側から沸いてくる力こそ、本当の力です。それは私たちがキリストのものとなりきってしまうことです。(KE)

神様のなさることは人の思いを越え、想像を越えたことです

2月14日

「『見よ、これは新しいものだ』と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。」伝道1:10

人の世の様々な事象は常に繰り返されているものばかりです。世間で新しいといわれるものも、過去の例を探れば似たもの、それらしきものはすでにあったことです。ただ、神様のなさることは人の思いを越え、想像を越えたことです。神様らしいわざをなさって、私たちを驚嘆させ、神様を崇めさせるのです。思いがけないこと、予期しないことが起る時、まさに神業です。(KE)

「主が見て」という視点で判断し、行動するなら

2月13日

「あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならい。」申命記6:18a

人はとかく自分が良いと思うこと、自分が正しいと思うことを基準にして生活します。その結果、人を裁き、批判し、判断が恣意的になり、支離滅裂になってしまいます。「主が見て」という視点で判断し、行動するなら、他者がどうであろうと気にならず、また、自分のすることに自身が持てます。「主が見て」などという曖昧な基準では得手勝手な行動になると思われがちですが、決してそうはなりません。神様の霊が導いてくださるからです。(KE)