11月25日
「かのエジプトびとは人であって、神ではない。その馬は肉であって、霊ではない。主がみ手を伸ばされるとき、助ける者はつまずき、助けられる者も倒れて、皆ともに滅びる。」イザヤ31:3
エジプトはかつて権勢を誇り、不滅を思わせる大国でした。また、馬は戦力を表す象徴です。人はそのようなものに惑わされ、神様を忘れますが、なにものも神様にとって代わるものはありません。この世のものはひと時の繁栄を謳歌しても、夏草のごとく枯れてしまうのです。神様を畏れ尊ぶことに勝る幸いはありません。(KE)
11月25日
「かのエジプトびとは人であって、神ではない。その馬は肉であって、霊ではない。主がみ手を伸ばされるとき、助ける者はつまずき、助けられる者も倒れて、皆ともに滅びる。」イザヤ31:3
エジプトはかつて権勢を誇り、不滅を思わせる大国でした。また、馬は戦力を表す象徴です。人はそのようなものに惑わされ、神様を忘れますが、なにものも神様にとって代わるものはありません。この世のものはひと時の繁栄を謳歌しても、夏草のごとく枯れてしまうのです。神様を畏れ尊ぶことに勝る幸いはありません。(KE)
11月24日
「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」詩篇119:71
苦しみにあうことが良い事とは驚きです。世の常識として、苦しみは避けたい、いやなことの第一です。誰もそれを好むものはいませんが、生きているかぎり苦しみは避けられません。となると、「苦しみ」もまた何か必要な役割があると言えます。神様のなさることに一つとして無駄なことはありません。ならば、むしろ「苦しみ」から積極的に収穫を得ようではありませんか。(KE)
11月23日
「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。」使徒3:19
本音と建前、表と裏などという言葉で人の心が掴みにくいことを表します。このように二つ、三つのものに心が分散するところに嘘偽りが生じ、「罪」という闇の力が働きます。「本心に立ちかえる」とは心が表裏一体、一つ心になることです。ときには、自分にとって苦しいことだったり、嫌だったりしますが、「本心」に生きるとき、平安があり、力を得ることができます。なによりも、神様に喜ばれるのです。(KE)
11月22日
「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。」第一コリント3:16
神様はイエス様を信じる私たちに、御霊を宿らせてくださいました。それはなにか特殊な力とか超自然のわざというものではなく、私たちの言葉や行動、感じ方や考え方など、全身的な影響を与える存在であって、それがどんなものかわかりませんが、必ず御霊の働きを結果として見ることはできます。私たちの功績や値打ちによっていただくものではなく、神様が一方的に与えてくださるものです。御霊の内住を信じることが大切です。(KE)
11月20日
「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」 エペソ2:10a
人はすべて神様の作品であり、神様のみこころに適うように仕組まれていたのですが、ウィルスが忍び込んでパソコンを狂わせるように、サタンが罪を投げ込んだのです。「良い行い」とは神様の喜ばれることですが、それをする力がありません。神様はイエス様を世に遣わして悪と罪を排除し、再び造りなおして下さいました。そればかりか、みこころを行う力(聖霊)を与えて下さいました。(KE)
11月19日
「すべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。」第一コリント6:12
私たちはキリストに従う以外に、なにものにも支配されません。だからと言って、気ままで放縦になることではなく、むしろ主に喜ばれることに精力を尽くします。それこそが本当の意味での自由だからです。人は常に何かにすがりますし、なにが益になるかも知り得ません。ゆえに、ただイエス様にすがり、知恵を与えてもらうのです。(KE)
11月18日
「イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』。」ヨハネ20:29
私たちは目で見て、耳で聞き、手で触りなど、五感を通していろんな事象を理解し納得しようとします。その結果、わからないこと、理解できないことを出来るだけ排除します。自分が確かだと言えないものは信じようとしません。信仰に立つとは見えない世界、理解を越えた世界、自分をこえた領域に踏み出すことです。ただ、めくらめっぽうにではなく、神様のことばを信じて未知の世界へ踏み出すのです。(KE)
11月17日
「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」ヨハネ3:18
神様のさばきとはなにか特別な事態に遭うことではありません。それを選び取っているのは、当事者である私たちです。イエス様を信じればそのごとく救われ、恵みをいただきますが、信じなければ、そのこと自体がその人にとって不幸な結果だからです。ただ、それに気が付いていないのです。信じるか信じないか、こればかりは他人はどうにもできません。(KE)
11月16日
「母は僕(しもべ)たちに言った、『このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい』。」ヨハネ2:5
イエス様は僕たちに甕いっぱいに水を汲ませました。その中から桶一杯を料理人のところへ持って行かせたところ、良質のブドウ酒になっていました。水がブドウ酒になるという奇跡が行われたのですが、僕たちのイエス様に従う従順さと忠実さがあったからなされたことです。今も、僕たちのようにイエス様の言葉に忠実に従うなら、奇跡といわれる結果を得ることができます。(KE)
11月15日
「すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから』。」 ルカ13:8
ブドウ畑の隅に植えられたイチジクの木が実らないため、主人は切り倒そうとしますが、園丁はとりなして猶予を願いました。私たちこそ場所ふさぎで、役立たない存在です。神様はすぐにでも切り倒したいほどでしょう。しかし、ただ御子イエス様の命を賭したお取り成しのゆえに、今年も猶予されたのです。実を結ぶ秘訣はイエス様につながることです。今年こそ実を結びましょう。(KE)