10月8日
「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。」ヨナ3:10
ニネベの人々が神様を離れた悪い道のゆえに、神様の裁きを伝えるために預言者ヨナは遣わされました。ニネベの人々は彼の警告を聞き、王様をはじめ全ての人々が悔改めました。神様は彼らの様子をご覧になって災いを思いかえしたのです。神様は実に豊かな赦しとあわれみに富む方です。私たちも絶えず神様の憐みにすがって、赦しを味わいましょう。(KE)
10月8日
「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。」ヨナ3:10
ニネベの人々が神様を離れた悪い道のゆえに、神様の裁きを伝えるために預言者ヨナは遣わされました。ニネベの人々は彼の警告を聞き、王様をはじめ全ての人々が悔改めました。神様は彼らの様子をご覧になって災いを思いかえしたのです。神様は実に豊かな赦しとあわれみに富む方です。私たちも絶えず神様の憐みにすがって、赦しを味わいましょう。(KE)
10月7日
「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。」エレミヤ32:27
「主」とは中心、根源などの意味を含むことばです。いうならば、全ての始まり、中心は神様であるという宣言です。人は自分が人生の「主」だと思っていますが、そうではなく、神様があなたの人生の「主」であり、「神」であるというのです。しかも「できない事」がない方です。この神様があなたを生かし、持ち運び、人生を終わらせるのです。神様の大能のみ手の中で、限りない愛によって生かされている幸いを感謝しましょう。(KE)
10月6日
「うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。」箴言30:8
これは人が生きるうえの必須条件ではないでしょうか。世間は「うそ、偽り」で塗り固められています。その中にあって、人の心を探り知り、公平に裁かれる神様を前に、うそ、偽りなく生きるのは至難の技です。しかし、神様の力にすがるとき、それをまっとうすることができます。また、必要なものを、必要なとき、必要なだけ満たしてくださるのも神様です。この二つを祈り求めましょう。(KE)
10月5日
「その子の父親はすぐ叫んで言った、『信じます。不信仰なわたしを、お助けください』。」 マルコ9:24
息子の病気を癒していただきたいとイエス様のところに来ました。父親は「できますれば」と願いましたが、主は信じるならどんなことでもできると答えました。神様に求めるにあたって、出来なければ仕方がないというなら、それだけのことで終わります。しかし、たとえ不信仰であっても、主の憐みにすがって求めるなら、主はそれに答えてくださいます。問題はいかにへりくだり、どれほど切実に求めるかにかかっています。(KE)
10月4日
「しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。」ヨハネ12:27d
人生を受身的に生きるのか、能動的に生きるのかによって生きがいが違ってきます。人生にはいろいろな事が次々と起ってきます。願わしいこともあれば、嫌なこともあります。しかし、なにがあっても、すべてのことについて、自分が生きているのはこの事のためである、あるいはこの時のためであると、積極的に受容し、そこに生かされている目的を置くならば、実に充実した日々を送ることができます。(KE)
10月3日
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」詩篇23:1-3
羊を飼育する様子を身近に見ることができませんが、神様と私たちは羊飼いとその養われる羊との関係にあります。羊飼いがいなければ羊は命をまっとう出来ません。また、正しく生きることも出来ないのです。今日も、神様の牧場にある羊となりきって、導かれるままに従いましょう。(KE)
10月2日
「しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。」哀歌3:21
人は望みがなければ生きることができません。それゆえ、どんなに困難や苦難があっても、なにかにすがって一縷の望みを持とうとします。“溺れる者は藁をも掴む”とはそのようなことではないでしょうか。しかし、「藁」ではどうにもなりません。ついには絶望です。この聖言は人が何に望みを置くべきかを語っています。「この事」とは神様の慈愛と憐みです。なにがあっても、とことん神様の愛を信じ続けることです。(KE)
10月1日
「善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。またあなたがたが言うように、万軍の神、主はあなたがたと共におられる。」アモス5:14
ところが「悪」は魅力的で、人はそれに惹かれやすいものです。しかし、長い目でみるなら、悪は必ず滅びです。一方、「善」とは神様が喜ばれるものですが、地味で、見栄えも悪く、魅力がありません。しかし、実は命と力と望みを与えてくれます。なぜなら、善を求める者と共に神様がいてくださるからです。善を求めて生きようではありませんか。(KE)
9月30日
「人が自分で神々を造ることができましょうか。そういうものは神ではありません。」エレミヤ16:20
創世記には、神様が居られたから森羅万象が創造されたと語られています。人は神様によって造られたもの、被造物です。だから、神様を造るなどは言語道断です。ところが、人は神のようになるとの誘惑に負けて、罪を犯しました。それ以来、自分を神として自我に仕える者となった結果、様々な神々が祭られ、拝まれているのです。まことの神様はただ一人、万物の創造者、全能なる神様です。(KE)
9月29日
「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。」詩篇126:5
農作物を育てるには大変な苦労を伴いますが、すべての始まりは種をまくことからです。種を蒔かずに収穫はできません。また収穫するまでには風雨炎暑に耐え、施肥、除草、防虫など休む間なく作業が続きます。そこを耐え忍んでやがて実を刈り取るのです。信仰も同じです。みことばを信じて、一心に主を信頼し続けるなら、時いたって、結果が出ます。その間に様々なサタンの妨害が起りますが、忍耐した者だけが収穫し、喜びを味わいます。(KE)