真実なところ、主を信じて救われても、悩みはなくなりません

2月4日

「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」ヨハネ16:33bc

イエス様を信じたら、悩みや苦しみが無くなるかと問われます。世間では、信仰すれば楽になると期待されているので、なんと答えようか迷いますが、真実なところ、主を信じて救われても、悩みはなくなりません。時には信仰ゆえに、困難や苦しみが増します。ただ、イエス様は死からよみがえって、私たちと共に生きて、悩み苦しみに戦って、勝利させてくださいます。この喜びこそ、救です。(KE)

主の生涯を現すキーワードは「従順」です

2月3日

「おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」ピリピ2:8

これはイエス様の生涯を語った一言です。主の生涯を現すキーワードは「従順」です。では、誰に対して「従順」なのでしょうか。それは父なる神様に対してです。神の位にあった御子が人となること自体、とてつもないことであり、人の世にあっても、自分の思いのままではなく、神様の御旨に徹底して従われました。十字架の死をも父のみこころと信じたのです。これは救いを受けた私たちの生き方でもあります。(KE)

人や事柄を信じるのではなく、神様に、主に「賭ける」のです。

2月2日

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」ヨハネ14:1

イエス様が最後の晩餐の席で語られた最初の言葉です。これから心を騒がせる事態が始まろうとしていました。そのなかで平安を得る秘訣はただ「神を信じ」またイエス様を信じることです。人や事柄を信じるのではなく、神様に、主に「賭ける」のです。私たちも思いがけない出来事や、願わない事態に周章狼狽し、心を騒がせます。主は今日も「神を信じ、またわたしを信じなさい」と、あなたに語っています。(KE)

もはや誰も、何も、あなたを責めるものはありません

2月1日

「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。」ローマ8:33

イエス様の十字架による罪の赦しは、なにひとつ不足のない完全なものです。この十字架によって赦されない罪はありません。しかし、赦しを信じつつも、なお自分を責めるものがあります。人は心の奥底にそのような赦されない思いをいだいて、自らを責めて苦しみます。そのような隠された罪にいたるまで、神様は知り尽くして十字架に処分してくださったのです。もはや誰も、何も、あなたを責めるものはありません。(KE)

今、なぜだかわからないことも、あとになって全てが明らかになります

1月31日

「イエスは彼に答えて言われた、『わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう』。」ヨハネ13:7

最後の晩餐の席で、イエス様は弟子たちの足を洗いました。弟子たちは驚いて、何をしているのかと怪訝に思いました。それは主の十字架を語る行為だったのですが、その意味が分らなかったのです。神様は私達に相談して事を進める方ではありません。そのため、周章狼狽します。今、なぜだかわからないことも、あとになって全てが明らかになります。主を信じて待ちましょう。(KE)

それは二千年以上も昔の人々のことではなく、私たちのことです

1月30日

「そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、『ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ』。」マルコ11:9

過越しの祭りのために、エルサレムへ来られたイエス様を群集が迎えました。しかし、この後、彼らは「十字架につけよ」と叫ぶのです。なんと大きな落差でしょうか。理解しがたいことですが、それは二千年以上も昔の人々のことではなく、私たちのことです。祝福と呪いが同じ口から出ます。自分勝手なご都合によってどんなにでも変るところに、主を死に追いやる人の罪があります。(KE)

父なる神様と共にいる確信。これがイエス様の力の源泉です

1月29日

「しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。」ヨハネ16:32cd

この言葉の前に「わたしをひとりだけ残す時がくるであろう」とあります。主は寝食を共にした弟子たちが去っていくことを知っておられました。何とも悲しい事態ですが、主は決して泣き言をいいません。その秘訣はこの言葉にあります。父なる神様と共にいる確信。これがイエス様の力の源泉です。あなたの愛する人も、信頼する人も、早晩離れて行きます。そのとき、あなたは共におられる方を知っていますか。(KE)

今だれのしもべであるか点検警戒したいものです

1月28日

「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。」ローマ6:16

お金はそれ自体色も香りもありませんが、それを使う人によって害にも、益にもなります。同様に、私たちも何かに支配された結果、無益なものにも有益なものにもなるのです。常に自分を振り返って、今だれのしもべであるか点検警戒したいものです。主のしもべであるならまことに幸いです。(KE)

ただ欠けているものがあります。それは私たちの「悔い改め」です

1月27日

「悔い改めよ、天国は近づいた。」マタイ3:2

これはバプテスマのヨハネが宣教のわざを始めたときの言葉です。またイエス様もその公生涯をはじめた時、同じ言葉で語りました。これが福音の真髄だからです。神様が備えてくださった救いは、すでに万事万端整っています。まさに「天国は近づいた」のです。ただ欠けているものがあります。それは私たちの「悔い改め」です。投げられたボールをどうするか、それはあなたにかかっています。「悔い改め」とは主の十字架、神様の赦しを感謝して受けることです。(KE)

肩から力が抜けて、生きることが軽くなります

1月26日

「しかし、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない。」エゼキエル28:2b

これは人である私たちの守るべき大切な一線です。しばしばこの線を越えて思い上がるものですから、苦しみます。あなたが苦しみ悩む時、自分の手に負えない事態や状況におかれる時、このみことばに立ちかえって、神様の前に心を低くしようではありませんか。そうすれば肩から力が抜けて、生きることが軽くなります。人は被造物であって、造物主には決してなれないのです。(KE)