5月13日
「わたしは荒野で、またかわいた地で、あなたを知った。しかし彼らは食べて飽き、飽きて、その心が高ぶり、わたしを忘れた。」ホセア13:5-6
「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」と言いますが、私たちも神様をすぐに忘れます。「荒野」「かわいた地」とは困難や苦しみ、悲しみのときです。そんなとき、片ときも忘れず神様を呼び求めますが、事情・境遇が良くなると、心が神様から離れて、世の営みに没頭します。まことに忘恩の徒です。絶えず、神様に立ち返って、その憐みとご愛を感謝したいものです。(KE)
5月13日
「わたしは荒野で、またかわいた地で、あなたを知った。しかし彼らは食べて飽き、飽きて、その心が高ぶり、わたしを忘れた。」ホセア13:5-6
「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」と言いますが、私たちも神様をすぐに忘れます。「荒野」「かわいた地」とは困難や苦しみ、悲しみのときです。そんなとき、片ときも忘れず神様を呼び求めますが、事情・境遇が良くなると、心が神様から離れて、世の営みに没頭します。まことに忘恩の徒です。絶えず、神様に立ち返って、その憐みとご愛を感謝したいものです。(KE)
5月12日
「おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。主はとこしえにこのような人を捨てられないからである。」哀歌3:30-31
世にあってしばしば体験することですが、不当な苦しみに会ったり、他人から誤解されたり、曲解されたりします。そのとき、なんとかそれをとり除こうともがきます。誰彼にと味方を求め、同情を期待しますが、失望するだけです。そうなると四面楚歌、出口の無い孤独を味わいます。しかし、神様は公平な方、義なる方です。神様はあなたのことを全て見ておられます。(KE)
5月11日
「主よ、栄光をわれらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください。」詩篇115:1
人は賞賛や誉れ、名誉を得たいと願いますが、本来、人の力や知恵で何かが出来るのではありません。ただ、神様の憐みと許しによって、知恵や力が与えられ、幾らかのことがなしえるに過ぎないのです。だから、私達のなすべきことはすべての賞賛、誉れ、栄光を神様に帰することです。そうすることで、自分の無知無能を認め、謙遜になることができます。(KE)
5月10日
「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。」イザヤ51:1
私たちはどのような状態から今に至ったか、その始まりを忘れやすいものです。思いが今のことに囚われて、不平や不満をいだきますが、始まりを考えるなら、望外の恵みと言うほかありません。殊に、神様もイエス様も知らずに、罪と愆とに死んでいた者がイエス様を信じる者とされ、主の恵みに生かされていることを思うとき、ただ感謝です。(KE)
5月9日
「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。」ローマ8:33
神様の救は一方的なものです。私達の同意や承認を得てなされるものではありません。すでに、私たちが生れるはるか昔にイエス様の十字架によって救は完成しました。これは完全無欠、完璧なものです。ただ、必要なのはこの救が「私のものだ」と、あなたが受け入れるかどうかにかかっています。たとえ、心に自分は相応しくない、こんな者が救われないと非難する思いがあっても、信じる者を主は「よし」とされます。(KE)
5月8日
「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。」イザヤ40:26ab
都会に住んでいると、人の力と知恵によるものに取り囲まれています。また、人、人、人のなかで生活しています。その結果、思うこと、考えることが矮小化され、近視眼的になり、閉塞状態になります。そんなとき、「目を高くあげて」造物主に心を向けましょう。壮大なスケールで万物を造り、動かし、存在させています。きっと、あなたの心が大きく膨らみます。(KE)
5月7日
「彼らは女に言った、『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである』。」ヨハネ4:42
デパートの食品売り場には味見の品があります。これほど説得力のある宣伝は他にありません。自分で実験体得するとき、言葉による説明や講釈はまったく無用です。信仰も人からの話や説明ではなく、あなた自身がイエス様を体験するなら、それだけで全てです。是非、主に出会ってください。(KE)
5月6日
「だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言(みことば)を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。」ヤコブ1:21
イエス様は種まきの譬えを語っていますが、そこで「種まきは御言をまく」と言っています。植物の種は見栄えしない小さな頼りないものです。しかし、種には不思議な命が宿っています。同様に、みことばにも命があり、それが心に留まるとき、想像できない力を発揮します。だからこそ、神様の言葉なのです。(KE)
5月5日
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」創世記2:7
あなたは生きていますか。「生きる」とは身体的に健康であるとか、生活できているというだけではありません。むしろ、それは外的条件であって、「生きる」とは神様から「命の息」をもらって、人は生きるのです。常に神様につながっていなければ命が途絶えてしまいます。また、つながるには神様の言葉、みことばを心に置き、いつもイエス様を覚えていくことです。(KE)
5月4日
「まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。」アモス3:7
神様は人と違ってご自身ですべてを完結される方です。相談したり、助けを頼んだり、不足を嘆くこともありません。ましてや、ご自分がなそうとすることを誰かに知らせることもしませんが、ただ神様の御心を求める人に御霊によって「隠れた事」を教えてくださいます。御霊(聖霊)は神様の思いを全て知っておられ、それを私たちの霊に語ってくださるのです。(KE)