イエス様が拠り所としていたのは、父なる神様です

1月23日

「しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。」ヨハネ16:32cd

最後の晩餐のとき、語られたイエス様の言葉です。イエス様はそれまで寝食を共にした弟子たちがご自分を捨てて逃げ出すことを知っていました。しかし、イエス様が拠り所としていたのは、父なる神様です。家族や友人から離れると孤独だと言って不安になりやすい私たちです。イエス様はそうではないことを教えてくださいました。あなたもひとりでいるのではありません。主が共におられることを信じてください。(KE)

「愛」の反意語は「憎しみ」ではなく、「恐れ」です

1月22日

「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。」第一ヨハネ4:18

「愛」の反意語は「憎しみ」ではなく、「恐れ」です。「恐れ」があるところに「愛」はありません。どんなに親しい人でも、僅かでも「恐れ」を感じるならば、そこに「愛」はありません。「恐れ」がなくなると、出来るだけ近くにいたいと願うようになり、どんなことでも受容できます。そこに「愛」があります。「恐れ」を「愛」に変えるのは神様の力、聖霊です。(KE)

積極的に受けて立つ、前に踏み出すことが大切です

1月21日

「主よ、わたしをためし、わたしを試み、わたしの心と思いとを練りきよめてください。」詩篇26:2

私たちの信仰は、時として消極的な守りの姿勢になりがちです。問題も無く、事もないようにと願います。しかし、それでは神様の確かな手ごたえを感じることができません。さまざまな問題や悩み、苦しみに遭い、自分の信仰が試され、雑然とした思い、ちぢに乱れた心がきよめられるために、むしろ積極的に受けて立つ、前に踏み出すことが大切です。それによって私たちは成長するのです。(KE)

神様がまた取り除かれると信じて、自らの手を下しません

1月20日

「彼は主が油を注がれた者であるから、彼に敵して、わたしの手をのべるのは良くない。」第一サムエル24:6b

サウル王が在位しているうちに、ダビデが次なる王とされたので、命を狙われることになりました。隠れている同じ洞窟にサウル王が休息したのです。ダビデにとって千載一遇のチャンスです。仲間達も王の命を奪うようにと進言しました。しかし、ダビデは神様を畏れる人です。神様が立てられた人であるから、神様がまた取り除かれると信じて、自らの手を下しません。神様を畏れるとはこのようなことです。(KE)

神様はご自分が信頼するものに思いを語ってくださいます

1月19日

「時に主は言われた、『わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか』。」創世記18:17

私たちが神様を信頼することは恵であり、幸いです。しかし、神様に信頼されるのはさらに大きな恵です。信仰の父であるアブラハムは神様からの絶大な信頼を得たのです。それは彼が神様を信頼し、従ったからに外なりません。このとき、ソドムとゴモラの町に対する計画を明かしてくれました。今でも、神様はご自分が信頼するものに思いを語ってくださいます。あなたも神様の信頼を勝ち取ってください。(KE)

信じて、委ねるところに平安があります

1月18日

「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」イザヤ55:8-9

私たちは将来が分らないことで不安を感じます。しかし、分らないからこそ、私たちの思いとは違う神様の思いに導かれ、備えられていると言うほかありません。それを信じて、委ねるところに平安があります。いつまでも自分の思いの範囲にとどまり続ける限り、安心はありません。(KE)

自分が知らないことを認めて、神様を知りたいと願うことが大切です

1月17日

「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。」第一コリント8:2

人は“知らない”ことに抵抗があるようで、誰よりもはやく知ろうとします。また、自分は知っていることを誇ります。しかし、どんなに博学秀才であろうと、所詮人の知識は限られたものです。ましてや神様のことを全く知りません。自分が知らないことを認めて、神様を知りたいと願うことが大切です。知っていると思うと、そこで成長が止まります。(KE)

私たちの主人はだれでしょうか。勿論、神様です

1月16日

「主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。」ルカ12:47

  主人と僕の譬えをとおして、イエス様は神様と私たちの関係を語っておられます。私たちの主人はだれでしょうか。勿論、神様です。私たちは神様に仕える僕にすぎません。僕は常に主人の心、意図を汲んで仕えます。そのように、私たちも神様のこころに従って、言われなくても準備して、従うことが期待されています。主の期待に応えて、みこころにかなうよきしもべとなりましょう。(KE)

神様が喜ばれるそなえものは私たちの砕けた悔いた心です

1月15日

「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」詩篇51:17

神様が私達に求められるものは犠牲的なわざや奉げものではありません。神様が喜ばれるそなえものは私たちの砕けた悔いた心です。へりくだった謙遜な心にならなければ、神様を求めることも、寄り頼むこともしないからです。悩みに会い、失敗して苦しむ時、人は神様にすがらざるを得なくなります。それはとても幸いな恵みです。神様は寄り頼む者を喜んでくださるばかりか、助けてくださいます。(KE)

もはや神様から逃げ隠れできないのです

1月14日

「主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。」エレミヤ23:24

神様の特質として「遍在」ということを言います。あまねくいたるところに存在するという意味です。まるで私たちが包まれている空気のような存在です。そのなかに取り込まれているといえます。だから「神無き世界」はありえません。もはや神様から逃げ隠れできないのです。ですから、神様と共に生きようではありませんか。(KE)