9月18日
「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。」ホセア6:1
世間では“苦しいときの神頼み”と言いますが、ご都合主義を揶揄している言葉でしょう。しかし、真の神様はむしろそれすらも喜んでくださるのです。順境のときは勿論ですが、逆境のときに神様に頼るなら、それも幸いなことです。神様は私たちがどうであれ、主に帰るなら、無条件で迎えてくださいます。そればかりか、苦しみからも救ってくださいます。(KE)
9月18日
「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。」ホセア6:1
世間では“苦しいときの神頼み”と言いますが、ご都合主義を揶揄している言葉でしょう。しかし、真の神様はむしろそれすらも喜んでくださるのです。順境のときは勿論ですが、逆境のときに神様に頼るなら、それも幸いなことです。神様は私たちがどうであれ、主に帰るなら、無条件で迎えてくださいます。そればかりか、苦しみからも救ってくださいます。(KE)
9月17日
「枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。」ヨハネ15:4c
今は収穫の秋を迎えました。いろんな果実が実を結びますが一年に一度のことです。そのために木々は風雨、風雪に負けず、日照の中も耐え忍んで結実の時を待ちます。枝が木から離れたら、枯れて死んでしまい実を結ぶことはありません。私たちもイエス様にしっかりつながって、どんな中でも耐え忍び、農夫なる神様に喜ばれる実を結びましょう。(KE)
9月16日
「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。」ヘブル3:13
人の心ほど掴み所のないものはありません。また扱いにくいものです。心がねじれたり、かたくなったりすると、元へ戻すのに一苦労です。「罪の惑わし」だと言われています。心が罪に惑わされないように守らねばなりませんが、自分の力ではどうにもなりません。惑わされやすいものであることを自覚して、神様の力に寄りすがり、素直な柔らかい心を持ち続けましょう。(KE)
9月15日
「悪人の道がさかえ、不信実な者がみな繁栄するのはなにゆえですか。」エレミヤ12:1c
義人が苦しみにあい、悪人が栄える世の不条理を嘆くのは昔からのようです。確かに、この世は不公正や不公平がはびこって、その報いを受けないかのように見えます。しかし、それはこの世に限ってのことであって、人の魂は過去現在未来にわたって存在し続けるものですから、神様の義が貫かれるときが必ず来ます。悪人や不真実な者がさかえようと、それに惑わされず、しっかり見えないものに目をとめて生きてください。(KE)
9月14日
「罪びとで百度悪をなして、なお長生きするものがあるけれども、神をかしこみ、み前に恐れをいだく者には幸福があることを、わたしは知っている。」伝道8:12
日本は長寿社会となって人口に占める高齢者の割合が年々高くなってきました。その背景に“長生きは善”という考えがあるようです。しかし、人の人生は長さによって評価されるのではなく、生き方によります。勿論、評価なさる方(神様)がおられることを知らねばなりません。常に神様が喜んでくださる生きかたを求めつつ日々を過ごしましょう。(KE)
9月13日
「わざわいなるかな、おのが計りごとを主に深く隠す者。彼らは暗い中でわざを行い、『だれがわれわれを見るか、だれがわれわれのことを知るか』と言う。」イザヤ29:15
人の目だけを気にする生き方は不幸です。神様を認めず畏れないから、人の目だけが全てとなります。人の目はいくらでも誤魔化せますが、神様の目を欺くことはできません。すべてを見ておられます。また、神様は善悪ともに裁かれる方でもあります。ですから、神様の目を気にすることのほうが賢明です。主の眼差しを感じていますか。(KE)
9月12日
「ヨタムはその神、主の前にその行いを堅くしたので力ある者となった。」歴代下27:6
ヨタムはユダの王でした。彼の治世は16年でしたが、その間、神様の前に自らの行いを正しくし、揺るぐことなく貫いたのです。外部に現れる行為はその人の内にあるものから生まれます。ヨタムは神様への真実な思いを持ち続けたのでしょう。その結果、力をいただいたのです。人は力を得て強くなり人生に勝利しようとしますが、問題はその力をどこから得るかです。学力、財力、体力などと違って、神様からの力こそ真の力です。(KE)
9月11日
「あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。」詩篇18:25-26
神様は私たちの姿を映す鏡のような方です。私たちの信仰の有りようによって、ご自身を表してくださるからです。神様の力を信じて寄り頼むなら、そのように答えてくださるでしょうし、この程度だというなら、そのようになさいます。あなたはどのような方と信じますか。(KE)
9月10日
「キリストは彼のためにも、死なれたのである。」ローマ14:15c
イエス様の十字架のあがないは例外なく全ての人々のためです。それは主がすべての人を大切なものとしておられるからです。主の死によって生かされていると信じるなら、当然自分以外の人々もその恵みを頂いていると信ずべきです。そうなると、人の事をあれこれあげつらうのはイエス様のみこころに添わないことです。キリストの死に連なる者であると知るなら、何も言えなくなります。そればかりか、ある種の連帯感が生まれます。(KE)
9月9日
「ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた。」ルツ2:3
モアブ人のルツは夫を失いましたが、姑ナオミについてベツレヘムに戻ってきました。落ち穂をひろいながら「はからずも」舅エリメレクの縁者の畑に導かれました。この背後に神様のご計画があったのです。思いがけない、予期しないことに狼狽して不安になり思い煩いますが、そのときこそ神様の隠されたわざが進行しているのです。ルツはキリストの系図に名を残すことになります。(KE)