しかし、信仰に立つとき、条件や境遇は揃わなくても、全てが神様によって進められると信じるのです

6月28日

「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」第二コリント5:7

 信仰によって歩くとは神様を信じて生きることです。一方、見えるものとは自分の置かれた境遇や与えられた能力などです。何か事を始めるとき、万事万端納得し、これで大丈夫と言える条件を満たして踏み出す。これが見えるものによる生き方です。しかし、信仰に立つとき、そのような条件や境遇は揃わなくても、神様の導きを信じ、力をいただき、全てが神様によって進められると信じるのです。あなたはどちらによって生きていますか。(KE)

神様のご計画と目的のもとに今日の一日が備えられているのです

6月27日

「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。」ローマ11:33

 神様の「知恵と知識」は人の到底及びがたいものです。その人知を越えたわざによって、私たちは生かされ、持ち運ばれ、様々な事のなかに置かれています。自分の人生であっても、自分の力、知恵によるものではありません。神様のご計画と目的のもとに今日の一日が備えられているのです。人の思い通り、願いどおりに事が運ばないのは至極当然のことです。謙遜になって、神様のみわざにゆだねましょう。(KE)

時代がどのように変ろうとも、神様の言葉は永遠不変です

6月26日

「神の言葉はみな真実である、神は彼に寄り頼む者の盾である。」箴言30:5

 現代は言葉が軽く、不真実な時代です。言葉による犯罪、詐欺、偽証、粉飾などが多発して、言葉はすっかり信用を失いました。しかし、時代がどのように変ろうとも、神様の言葉は永遠不変です。しかも、信じる者を裏切ることがありません。神様の言葉は真実だからこそ、神様ご自身が「寄り頼む」者の盾となってくださいます。しばしば、人の言葉に裏切られたと嘆きますが、そうなるのは当然です。信ずべきはただ神様の言葉だけです。(KE)

昨日だけでも神様のくすしきみわざとみおもいに満ちていると言うほかありません

6月25日

「わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはない。わたしはこれを語り述べようとしても多くて数えることはできない。」詩篇40:5

 毎日、同じようなことを繰り返しているので、取り立てて事もなく過ぎたと思われますが、昨日一日を振り返るだけでも神様の「くすしきみわざ」と「みおもい」に満ちていると言うほかありません。日常茶飯のことですら、神様のわざによらないものはありません。私たちは神様の許しがなければ何もできないのですから。(KE)

私たちを養う「マナ」はイエス様のみことばです

6月24日

「わたしは命のパンである。」ヨハネ6:48

 カナンの地を目指して、荒野の旅をした神の民は日ごとに天から降って来る「マナ」によって養われました。この世はまさに荒野であり、私たちは約束の地であるカナンに向かって進んでいます。この旅路にある私たちを養う「マナ」はイエス様のみことばです。肉体のためには三度の食事を欠かしませんが、命に活力を与えるパンを食べようとしないのは片手落ちです。永遠の命にいたるパンを日々いただいて、カナンの地である御国に入ろうではありませんか。(KE)

自分がどんな状態であっても、神様は清めてくださったのです

6月23日

「すると、声が二度目にかかってきた、『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』。」使徒10:15

 ペテロは夢の中でいろんな動物が入った布の入れ物が天から下ってくるのをみました。「ほふって食べよ」との声がしましたが、彼は拒みました。神様は十字架によって私たちを清めてくださいました。完全な清めです。自分がどんな状態であっても、神様は清めてくださったのです。いつまでも、救われないとか、ダメな自分だとか言わないで、清められた自分であることを確信してください。(KE)

この世で不遇だったとしても、神様の救いを受けて生きるなら

6月22日

「そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。」ルカ16:23

 「肥えた豚になるより、痩せたソクラテスになれ」と語った人がいました。ラザロは生きているとき、金持ちの家の前で物乞いをしていましたが、死んでから天国に移されました。金持ちは死んで黄泉にあって苦しんでいました。確かに、この世で不遇だったとしても、神様の救いを受けて生きるなら、物質的に豊かであるよりはるかに幸いです。あなたも「痩せたラザロ」になってください。(KE)

「愛する」とはその人のために「祈る」ことですから、実は大変容易なことです

6月21日

「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」マタイ5:44

 これは言うには易く、行うには至難の言葉です。しかし、「愛する」とはその人のために「祈る」ことですから、実は大変容易なことです。「祈り」は自分のために何事かを願い求めること思われますが、それ以上に、祈りは他者のためにとりなす愛のわざでもあります。あなたが敵対する者や害する者のために、神様の憐みと慈愛を祈ってあげるなら、その人を変えてくださるだけでなく、祈るあなたに神様の恵みが注がれます。(KE)

それを疑い、まだ自分は赦されない者だと失望し、落胆します

6月20日

「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」ローマ8:34

 イエス様による救いは完全な赦しであって、すでに完成したものです。また、この救から漏れる人もいません。ところが、それを疑い、まだ自分は赦されない者だと失望し、落胆します。疑わせて、攻撃するのは自分自身です。それはあなたを救いから罪の支配に引き入れようとするサタンの仕業です。十字架を仰いで、今日も主の赦しに生きてください。(KE)

主人に喜ばれ、受け入れられるなら、それがすべてです

6月19日

「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。」第二コリント6:8a

 イエス様の十字架の救いを信じた者たちは「神の子」と呼ばれますが、同時に「神の僕(しもべ)」でもあります。「しもべ」は主人であるイエス様に仕え、従うのが仕事です。また、主人に喜ばれ、受け入れられるなら、それがすべてです。他の人がどうであるとか、自分の事をどういわれようと、何も関係はありません。常に「しもべ」となりきって、主イエス様だけに目をとめておきましょう。(KE)