マリヤは自分の身に起ったことを通して、神様に触れたのです

12月24日

「力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。」ルカ1:49a

マリヤの人生は思い描いたものとはかけ離れた破天荒な事態となりました。しかし、彼女同様、すべての人の人生は創造者なる神様の御手に握られ、造り出されています。確かに、自分の計画や願いどおりに進む事態もありますが、その人の努力や知恵で成し遂げたものではなく、神様がそうなるように許してくださったからです。マリヤは自分の身に起ったことを通して、神様に触れたのです。神様はあなたにもマリヤの喜びを与えようとしています。(KE)

僅かな犠牲すら惜しむなら、心から神様を崇めているとはなりません

12月23日

「感謝のいけにえをささげる者はわたしをあがめる。自分のおこないを慎む者にはわたしは神の救を示す。」詩篇50:23

神様、神様と口で何べん唱えようとも、感謝、感謝と連呼しようとも、ほんの僅かな犠牲(いけにえ)すら惜しむなら、心から神様を崇めているとはなりません。いや、むしろ神様をコケにしているのではないでしょうか。また、実際の行動やわざによって、神様を尊び、自らを自制する者は、神様の救を実体験することができます。神様を信じて、信仰を具体化して、みことばのように救を体験しましょう。(KE)

ただ優しいだけが愛ではありません。

12月22日

「イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。」マルコ3:5a

多くの人はイエス様のことを誤解しているようです。確かに、主は「ののしられて、ののしりかえさず、激しき言葉を出さず」、忍耐と愛に満ちた方です。しかし、優しいばかりではなく、時には激しく怒りを表されることがあります。人が神様を恐れず、みこころを損なったときです。ただ優しいだけが愛ではありません。怒るべき「時」や、事柄を知っておられるゆえ、主の愛が輝くのです。(KE)

人は常になにか得体の知れないものを恐れて、戦々恐々としています

12月21日

「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」マタイ10:28

人にとっての最大の敵は自分の心に巣くう“恐れ”、恐怖心です。人は常になにか得体の知れないものを恐れて、戦々恐々としています。そのために、大胆になれません。小さく縮こまって生きています。人を恐れ、事情・境遇を恐れますが、しかし、真に恐るべきものは、主の語られるように、永遠の滅びに定める権威ある方、神様です。(KE)

自らを省みること、自分がどのような状態にあるかを知ることが肝心です

12月20日

「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。」ルカ6:41

幸か不幸か、人の目は自分を見るためにではなく、主に周囲や外を見るように出来ています。そのため、自分のことを棚上げして、あれこれ人のことをあげつらうことになります。まずは自らを省みること、他の人のことはさておき、自分がどのような状態にあるかを知ることが肝心です。ある哲学者も“汝自身を知れ”と語っています。神様が常に問われるのはあなた自身がどうであるかです。(KE)

見るところを変えてみて下さい。「目を高くあげて」上をみるのです

12月19日

「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。」イザヤ40:26a

常日頃、見聞きすることは人、人、人のわざばかりです。どこを見ても人の手がつかないところはありません。そのため、全てのことが人の力や知恵で進んでいると錯覚しています。目の前の問題にしても、自分が考え付かなければ諦めるほかないと思っています。しかし、見るところを変えてみて下さい。「目を高くあげて」上をみるのです。神様に思いを向ける。見えるものの背後に見えないもの、神様をみるとき、望みが湧いてきます。(KE)

栄誉や称賛をあびるとき、その後の行動が大切です

12月18日

「るつぼによって銀をためし、炉によって金をためす、人はその称賛によってためされる。」箴言27:21

金銀はるつぼや炉によってますますその価値をたかめます。しかし、人は炉のような過酷な試練でためされるよりも、むしろ順境におかれたときです。さきごろ、ある自動車会社が製品の不具合により非難を受けていますが、世界の頂点に立つ企業と成ったときが真価を問われるのです。人も同様です。栄誉や称賛をあびるとき、その後の行動が大切です。高慢にならず、心を低くして、自らの価値を確かにしましょう。(KE)

神様の言葉、聖書のみことばは闇を照らしてくれる光です

12月17日

「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」詩篇119:105

この世にあって生きるのはさまざまな艱難や苦しみを通ります。しかも、それらは予期しない、思いがけないことばかりです。まるで闇夜を手探りしながら進むような状態です。そのため、人は何か確かな手がかりを得たいと求めますが、かえってそのためにますます酷い事態にはまってしまいます。しかし、神様の言葉、聖書のみことばは闇を照らしてくれる光です。また、進むべき道を教えてくれます。今日も、みことばの光を掲げて、前進しましょう。(KE)

私たちを常に神様と共に生きるようにしてくださいました

 

「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」ローマ4:25

神様の独り子であるイエス様が神の位を離れて、人の世にくだり、私たちの罪をあがなう犠牲となって十字架に死んでくださいました。これによって、信じる私たちをきよめてくださった。それだけでなく、イエス様を死からよみがえらせて、信じる私たちを常に神様と共に生きるようにしてくださいました。これが「義とされる」ことです。(KE)

イエス様が主となっていつも共にいてくださることです

12月15日

「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」ヨハネ16:33bcd

イエス様を信じて救われても、実際の生活にはこれと言って大きな変化はありません。住むところも、着るものも、食べるものも同じです。さらに悩みすらもあります。しかし、世のものと違うものがあります。イエス様が主となっていつも共にいてくださることです。主は人の世の悩み、苦しみ、悲しみ、病を知り、私たちの心を思いやり、慰め労わり、力を与え、知恵を満たして全てに勝利させてくださいます。(KE)