人のわざに見えても、その背後に神様のわざがあると信じるのです

7月19日

「われわれの神、主は、何事をされるにも、正しくあらせられます。」ダニエル9:14b

どんなことであっても、神様のなさることには間違いがないとする。これが神様を尊ぶ基本です。現実の生活は人のやっていることばかりだから、間違いもあれば、失敗もあります。神様がしておられるという保証があれば、なにがあっても安心しておれるのですが、それがない。しかし、信仰に立つとは、人のわざに見えても、その背後に神様のわざがあると信じるのです。人のわざも、大小を問わず、神様の企みと計画に導かれていると知るべきです。(KE)

なんとか助けたい、赦したいとの神様のみ思いを知ってください。

7月18日

「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』。」創世記3:9

天地創造によって造られた人(アダム)とその助け人(エバ)とは神様の言葉に従わないで罪を犯しました。その結果、エデンの園を追放されました。一連の記事は神様の処罰の経過を記したものに思われますが、その背後に神様の愛が潜んでいます。繁みに隠れた二人に神様は呼びかけました。「あなたはどこにいるのか」と。これはまさに神様が二人を愛しているあかしです。なんとか助けたい、赦したいとの神様のみ思いを知ってください。(KE)

ただ神様の恵みによって今あるのです。

7月17日

「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び…。」エペソ1:4

私たちが天地創造の神を知り、救い主イエス様を信じるようになったのは何ゆえであったか、考えると不思議です。世間には数え切れないほどに神仏と称するものがあります。間違って他のものに帰依したかもしれません。しかし、神様はあなたを救うことをはるか昔から決めて、神様の選びによってこうなるようにと定め、導かれたのです。ただ神様の恵みによって今あるのです。(KE)

「無きに等しい者」を選んでくださるのです。

7月16日

「有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」第一コリント1:28

各種の選挙がおこなわれますが、候補者は自分がいかに有能かを訴えて、選ばれようとします。しかし、神様の選びは正反対です。有るか無いか分らない存在、「無きに等しい者」を選んでくださるのです。それは、神様の力、栄光をあらわす器として用いるためです。この世で重んじられる者であったら、神様の力より、その人の力が賞賛されるでしょう。神様の道具とされることは幸いです。(KE)

全てを最善にしてくださると言えるからです。

7月15日

「わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。」第一ヨハネ4:16ab

なんと頼もしい確信ではないでしょうか。神様が愛であると信じるほど幸いなことはありません。神様は人生諸般あらゆることを知り、支配し、備えられる方です。その方が愛であるなら、どんなことをされても動揺しません。全てを最善にしてくださると言えるからです。しかも、その愛を知っているばかりか、信じていると告白しています。私たちも負けずに告白しましょう、神は愛であると。(KE)

それがいつであるかは誰も知りません。

7月14日

「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」 マルコ13:32

「その日、その時」とは終末のとき、世の終わりの日のことです。人心が荒廃し、世が衰退し始めると、終末を説く者たちに惑わされます。確かに、存在する全てのものは消滅するときがきますが、それがいつであるかは誰も知りません。こればかりは神様の専権事項です。しかし、分らないから無関心でいいとは言えません。いつ、どんなときにそうなっても大丈夫なように、備えを怠ってはなりません。(KE)

「さいわい」の条件は変化し、消失してしまいます。

7月13日

「万軍の主よ、あなたに信頼する人はさいわいです。」詩篇84:12

「さいわい」の条件は人それぞれで違います。「お金があれば幸い」と言う人、「友達がいるから幸い」と言う人、「熱中できる仕事があるから幸いだ」と言う人などなど。また、そのような「さいわい」の条件は変化し、消失してしまいます。しかし、神様は永遠不変です。そればかりか、出来ないことのない方、全てのものの供給者です。この方により頼むならば、なにひとつ不足はありません。これこそ「さいわい」の極みです。(KE)

聖書に明かされている信仰にしっかり立つものとなりましょう

7月12日

「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ』。」イザヤ40:3

「荒野」「さばく」とは文字通り不毛の地、楽しませ、喜ばせるものもない状況です。人生にもたびたびそのような境遇に出会いますが、そこで何をすべきでしょうか。「主の道」「大路」を備え、真っ直ぐにせよと言われます。神様に対する姿勢、信仰の内実を神様の求めておられる標準にあわせることです。自我流の信仰ではなく、聖書に明かされている信仰にしっかり立つものとなりましょう。(KE)

私たちが喜び、感謝し、驚きと讃美が絶えないように神様がなさいます

7月11日

「この民は、わが誉を述べさせるためにわたしが自分のために造ったものである。」イザヤ43:21

イエス様の救をいただくことは古い自分を捨てて、キリストを着る者となることです。これはまさに“新創造”です。なんのためでしょうか。それは「わが誉を述べさせる」ためです。神様はご自分の目的のために私たちを救い、清め、新しくしようとするのです。私たちが喜び、感謝し、驚きと讃美が絶えないように神様がなさいます。神様の巧みな手に委ねて、どのようなわざがなされるか期待しましょう。(KE)

疑わないで、支配しておられる主の命令に服従してみましょう

7月10日

「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」コロサイ1:13

私たちがイエス様を知らなかったとき、やみの中を歩いていました。しかし、今は「やみ」の支配から、イエス様の支配へ移しかえられました。このことは客観的に証明できないので、なんだか言葉だけのように思われます。それを現実のものとするには救い出されたと信じ、また、御子の支配下に移された自分であることを認めなければなりません。疑わないで、支配しておられる主の命令に服従してみましょう。手ごたえを感じます。(KE)