神様が王として立てられた以上、神様が除かれるに違いない

6月29日

「しかしダビデはアビシャイに言った、『彼を殺してはならない。主が油を注がれた者に向かって、手をのべ、罪を得ない者があろうか』。」サムエル上26:9

ダビデにとって宿敵サウル王を討つ絶好の機会が巡ってきました。忠実な部下アビシャイは一突きで殺そうとしますが、ダビデは止めます。神様を畏れるからです。サウル王がどうあろうと神様が王として立てられた以上、神様が除かれるに違いない。これがダビデの信仰です。主を待たずに手っ取り早く事を済ませようとしやすい私たちです。そのとき、神様から離れます。(KE)

彼女は確信を与えられ、もはや憂いはなくなったのです

6月28日

「彼女は言った、『どうぞ、はしためにも、あなたの前に恵みを得させてください』。こうして、その女は去って食事し、その顔は、もはや悲しげではなくなった。」サムエル上1:18

エルカナの妻ハンナは子供がなく、肩身の狭い思いをしていました。そのため、切に祈っていました。ある年、神殿で祭司エリに打ち明け、執り成しの祈りをしてもらいました。それ以来、彼女は確信を与えられ、もはや憂いはなくなったのです。いつまでも憂えず、祈って信仰に堅く立って、身も心も新しくなろうではありませんか。(KE)

神様が滅ぼされるのではなく、自分が死とのろいを選ぶからです

6月27日

「わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。」申命記30:19bc

神様の救のみわざはイエス様の十字架によって完成しています。それに付け加えるものはなにもありません。ただ選択と決断が私たちに委ねられています。事の大小を問わず、すべてのことには「命と死」「祝福とのろい」のいずれかを選び、決断することです。神様が私たちを滅ぼされるのではなく、自分が死とのろいを選ぶからです。どうぞ命を選んでください。(KE)

あなたが燃える柴となってください

6月26日

「モーセは言った、『行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう』。」出エジプト3:3

モーセは羊の群れを飼っていたとき、神の山ホレブで柴が燃えているのを見ました。すぐに燃え尽きるはずのものが、なかなか消えないので、不思議に思って近づいたのです。それによって彼の人生が大転回します。私たちも神様の霊に満たされ、どんななかでも喜び、讃美、感謝していれば、多くの人がその秘密を知りたいと近づいてきます。それによって主に出会い、人生が変るのです。あなたが燃える柴となってください。(KE)

私たちは神様のなさるわざに憤ることがなんと多いことでしょうか

6月25日

「カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。」創世記4:8b

人類最初の殺人事件です。下手人はカインであることがはっきりしています。ただその動機は不可解です。彼の言い分は神様がアベルの供え物を顧みられたからです。だからといって、アベルは殺されるほどの悪行をカインにしたのでしょうか。いいえ、なにもしていません。真の動機は神様の取り扱いに憤った結果、怒りの矛先が罪なきアベルに向かったのです。これが罪の実相です。私たちは神様のなさるわざに憤ることがなんと多いことでしょうか。(KE)

心のある場所によって、心が変わります。

6月24日

「あなたの宝のある所には、心もあるからである。」マタイ6:21

確かに、自分が宝としている最も大切なものに常時心が留まっています。寝ても覚めても心から離れません。となると、何を宝とし、どこに置いているかによって心のある場所が決まります。また、心のある場所によって、心が変わります。この世のものを宝としているなら、心は常にこの世にあって汚れに染まります。天にあるものを宝とすれば、心は常に天にあって、天来の恵みに満たされ、清くなります。あなたの宝はどこにありますか。(KE)

神様の許しがなければどんなことも実行されません。

6月23日

「人の歩みは主によって定められる、人はどうして自らその道を、明らかにすることができようか。」箴言20:24

「歩み」とは人生、日々の生活のことです。自分の人生は自分が決めているように思いますが、そうではないと言われます。なぜなら、明日のことも分からないからです。計画やスケジュールを立てますが、神様の許しがなければどんなことも実行されません。また、思わない、考えも計画もしないことをさせられています。自分の人生・生活だと言いつつ、自分ではなく神様が定めておられるのです。(KE)

人の命は神様によって決定されるのであって

6月22日

「あなたは人をちりに帰らせて言われます、『人の子よ、帰れ』と。」詩篇90:3

伝道の書には「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る」と語られています。いずれにしても、人の命は神様によって決定されるのであって、たとえ瀕死の病にあろうと人の死は病気によるのではなく、神様の手によるのです。それまで人は決して死ぬことはありません。反対に主が「帰れ」と呼ばれたら、何をしても逆らうことはできません。だから生まれる時、死ぬときは誰にも分らないのです。(KE)

神様の臨在を感得させることは親の務めです

6月21日

「その子らが神をけがしているのに、彼がそれをとめなかったからである。」第一サムエル3:13b

神様は祭司エリになそうとすることを幼子サムエルに語りました。エリ先生の問題は彼の子らが神様を恐れない、傍若無人なふるまいをしているのに叱らなかったことです。子供や家族に神様を畏れ敬うことを教育し、神様の臨在を感得させることは親の務めです。子供は神様から養育するように託されたものですから、親が親としての役割を果たさなければ神様から取り除けられます。神の子に育てることが期待されているのです。(KE)

まさに信仰の試練のときです。あなたはどの道を選びますか。

6月20日

「さばきづかさが世を治めているころ、国に飢きんがあったので、ひとりの人がその妻とふたりの男の子を連れてユダのベツレヘムを去り、モアブの地へ行ってそこに滞在した。」ルツ1:1

エリメレク一家は飢きんによって、「ユダのベツレヘム」を去りました。これが不幸の始まりです。彼らは神様の祝福の地を離れたのです。確かに飢きんは苦しい事でしょうが、そこに留まる人もいました。モアブの地で食糧は得ましたが多くのものを失いました。まさに信仰の試練のときです。あなたはどの道を選びますか。(KE)