今日、あなたの王となっているのは誰でしょうか

10月24日

「しかしわたしが王になることを好まなかったあの敵どもを、ここにひっぱってきて、わたしの前で打ち殺せ。」ルカ19:27

イエス様は私たちの王となるために来られました。しかし、主を受け入れる人はなく、十字架にかけたのです。神様はイエス様を墓からよみがえらせ、天に引き上げ、王となさいました。世の終わりのとき、この王の前で裁かれます。今日、あなたの王となっているのは誰でしょうか。「俺」、「私」という王様に仕えている限り滅ぼされます。真の王を迎え、崇め、その方に仕えようではありませんか。(KE)

いのちの言葉を握って、輝き、キリストへの道しるべとなるためです

10月23日

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」ピリピ2:15b

イエス様の救は例外なくすべての人々に与えられるものです。神様はすべての人が救われることを願って、まず私たちを先に救へ導いたのです。それは救を知らない人々の中で、私たちが「いのちの言葉」を握って、輝き、キリストへの道しるべとなるためです。東の国の博士達は一つの星に導かれて救い主イエス様に出会うことが出来ました。いのちの言葉によって輝く星となるとき、救い主に出会う人がおられます。(KE)

信仰の勇者ダビデの生涯に一貫した姿勢は「主に問う」ことです

10月22日

「ダビデは主に問うて言った、『ペリシテびとに向かって上るべきでしょうか。あなたは彼らをわたしの手に渡されるでしょうか』。」サムエル下5:19

信仰の勇者ダビデの生涯に一貫した姿勢は「主に問う」ことです。彼は波乱万丈、幾多の戦いや困難をとおりましたが、自分を神様の前に置くことを努めました。これは私たちの信仰生活を実り豊かにする秘訣です。王となってまだ日も浅い時、敵が大軍で攻めてきました。戦いに勝利して民の賞賛を受ける絶好の機会ですが、民よりもまず「主に問う」事を選びました。あなたはいかがですか。(KE)

家庭でも、国でも、持つべきは神様を恐れる指導者です

10月21日

「彼は主の良しと見られることをなし、その父ダビデの道を歩んで、右にも左にも曲らなかった。」歴代下34:2

旧約聖書の王様たちのなかで、ユダのヨシヤ王は神様の前に真っ直ぐに生きた稀なる人物です。彼は信仰に立って、国中から汚れた行い、習慣などをとり除き、神様の律法にしたがい、みこころを行いました。指導者である王の姿勢は国の人々にも影響を与え、「ヨシヤが世にある日の間は、彼らは先祖の神、主に従って離れなかった」とあります。家庭でも、国でも、持つべきは神様を恐れる指導者です。(KE)

悲しみや苦しみはないほうがいいと願います

10月20日

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」詩篇119:71

人生を生きるにあたって、悲しみや苦しみはないほうがいいと願います。しかし、生きる限りのがれることはできません。では、試練・悩みは何のためでしょうか。いろんな説明が出来るでしょうが、聖書が語っているのは、神様と出会い、神様を知り、信じて、神様と共に在る平安と喜び、望みと力を体験するためです。苦難は決してマイナスではなく、私たちを真の命に結びつける大いなる恵みです。(KE)

それは誰でもない自分自身の直接体験だからです

10月19日

「すると彼は言った、『あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです』。」ヨハネ9:25

生まれつき目が見えなかった人が、イエス様によって見えるようになりました。そのため大騒ぎになり、彼の家族にまで不利益が及ぶほどでした。しかし、彼には確信があったので決して動揺しません。それは誰でもない自分自身の直接体験だからです。信仰も同様に実体験によらなければ、何か事があるとすぐに消えてしまいます。(KE)

神様を信じるとはまさに人の理解や想像を超えたことです

10月18日

「時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたは口がきけなくなり、この事の起る日まで、ものが言えなくなる」ルカ1:20

イエス様の御降誕に先だって、年老いたザカリヤとエリサベツに子供が与えられると御使が伝えました。ザカリヤは到底信じがたいことだったので、そんなことはありえないと思いました。神様を信じるとはまさに人の理解や想像を超えたことです。自分の知識や智恵で考えられる範囲にとどまりながら、神様を信じることはできません。神様の支配、「時」に委ねましょう。(KE)

あなたにはあなたでなければ出来ないことを備えておられます

10月17日

「多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。」ルカ12:48b

なんでも同じようにすることが平等であるかのように思いますが、それは決して平等ではありません。神様はそれぞれの能力に応じて取り扱われる方です。だから、他者と比較することは無意味です。あなたにはあなたでなければ出来ないことを備えておられます。神様が自分だけを懲らしめているように思われるとき、それはあなたに期待するところが大きいからです。主のご期待に応えようではありませんか。(KE)

これによって赦されない罪はなく、完全なあがないが完成したのです

10月16日

「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」マタイ26:28

最後の晩餐の席でイエス様が弟子たちにぶどう酒の杯を与えながら語った言葉です。この後すぐに十字架にかけられることを知っていたイエス様は、ご自分の死が何のためであるか、はっきりと宣言しました。私たちの罪を赦すために流された血、即ち命であり、保証としての契約の血判でもあります。これによって赦されない罪はなく、現在のみならず、過去・未来に及ぶ完全なあがないが完成したのです。(KE)

それらはこの世だけのことであって、天に宝を積むことは出来ません

10月15日

「すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。」マタイ6:18b

神様は報いて下さる方であると信じなければ神様を信じたと言うことはできません。なぜなら、神様は生き、働き、全ての根源である方ですから。人はとかく他者からの賞賛や名誉、誉れや報いを期待します。しかし、それらはこの世だけのことであって、天に宝を積むことは出来ません。人に知られずとも、神様は全てをご存じで、報いてくださいます。神様からの報いを期待しつつ生きることは痛快です。(KE)