神様に仕え、わたしたちのためにとりなしをしてくださるためです

5月30日

「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。」ヘブル4:14

イエス様はよみがえられたのち、天にかえられました。それは私たちの「主」となり、祭司として父なる神様に仕え、わたしたちのためにとりなしをしてくださるためです。主は「もろもろの天」、すなわち裏切られ、捨てられ、十字架上での霊肉の苦しみを受け、死の闇などを通って天に凱旋しました。今日も、この主が大祭司となり、あなたの祈りを取次いでくださいます。(KE)

聖霊によって、心の目が開かれ、見えないものが見える者となって

5月29日

「するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。」使徒9:18a

クリスチャンを迫害したサウロ(のちのパウロ)はダマスコへの途中で、甦られたイエス様に出会い、人生が180度変りました。そのとき、彼は一時的な失明を体験します。これはそれまで見ていた世界とは違った新しい世界へ入ったことを証しした事態です。「目からうろこ」とはこのことです。聖霊によって、心の目が開かれ、見えないものが見える者となって、パウロのように主に仕える生涯を全うしましょう。(KE)

人はとかく他者に厳しく、自分に甘くなりがちです。

5月28日

「彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』。」ヨハネ8:7

姦淫の現場で捕らえられた女の人をイエス様に訴えて来たときの言葉です。人の罪を糾弾するのは痛快なことで、私たちは「裁く」側に立とうとします。しかし、ここでイエス様は裁く者達に自分自身を吟味するように求めました。人はとかく他者に厳しく、自分に甘くなりがちです。私たちも、常に自分に向かって「罪のない者が投げつけるがよい」と語るべきです。あなたはいかがですか。(KE)

第一は先ず初めにあなたが事を始めることです。

5月27日

「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。」ルカ6:31

イエス様が求められる行動基準です。第一は先ず初めにあなたが事を始めることです。相手の動きに対応しようとしますが、相手の動きがどうであれ、まずあなたが主導権をとって、するべきことをする。第二は「自分」を抜きにしてはならない。自分がしたくないことを人に要求してはなりません。また自分にされたら嫌なことを他者にしてはなりません。いずれにしても、相手の立場に自分を置くこと。これらを欠いた行動は偽善です。(KE)

私たちの信じるものはみ言葉だけです。

5月26日

「わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。」詩篇130:5

私たちの信仰は手でさわったり、目で見たり、耳で聞こえるようなものによって得られたものではありません。「待ち望む」とは信じることですが、私たちの信じるものはみ言葉だけです。聖書の言葉を通して伝えられる神様の約束、励まし、望み、諫言などを、神様からの語りかけと信じて生きるのが信仰です。み言葉を信じることが神様を信じることであり、み言葉によってのみ、力と命、望みが与えられます。(KE)

神様の深いみこころを汲み取ることが不可欠です。

5月25日

「主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか。災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか。」哀歌3:37-38

神様は万物を支配しておられる方です。人にとってさいわいも災いも神様が備えられたことですから、良し悪しを言うことはできません。しかし、それらは神様がなさることですから、すべてが私たちにとって良いことであって、そこには神様の意図、意思が必ずあります。神様の深いみこころを汲み取ることが不可欠です。今日出会う出来事にも、神様の大切なみこころがあります。(KE)

「神様によって今日がある」と認めることです。

5月24日

「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に、…」伝道12:1

「造り主」を覚えるとは、自分の力や努力、知恵や計画で生きているのではなく、造り主である「神様によって今日がある」と認めることです。そうなると、日々の生き方、考え方がガラリと変ります。思い通りにならないこと、予定と違うことを嘆いたり、失望したりすることはいりません。そのようにしている「造り主」が居られるのですから。(KE)

はやく神様のみこころを悟って、主に従おうではありませんか。

5月23日

「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。」マタイ6:13

「主の祈り」の一節です。確かに、試み、試練と言われるものは好ましいものではありません。しかし、私たちは頑固で、鈍く、不従順な者ですから、苦しみや困難に遭わなければ砕かれた心、謙った者となれません。どうぞ、試みに会う前に、はやく神様のみこころを悟って、主に従おうではありませんか。神様は私たちに試練を与えたいとは思っておらず、むしろ、痛い目に会わないようにと願っています。(KE)

目標がはっきりしていれば、今日の生き方も自ずから決まってきます

5月22日

「そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。」第一コリント9:26

スポーツ選手は日ごろ激しいトレーニングを繰り返して、生活を自制し、全国大会だとか国際試合に優秀な成績を残そうと目標を目指します。明確な目標や目的があると、どんな困難にも耐えることが出来ます。それはスポーツだけでなく、どんなことにも言えます。人生の目標がはっきりしていれば、今日の生き方も自ずから決まってきます。その目標は天の御国へ帰り、神様の報いを頂くことです。(KE)

その器を通して、神様は豊かな栄光をあらわそうとしておられます。

5月21日

「かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。」ローマ9:23

陶器師は自由自在に自分の思い通りの器を造ります。神様もご自分を陶器師に譬えておられますが、捨てられるべき私たちを「あわれみの器」として選んでくださったのです。その器を通して、神様は豊かな栄光をあらわそうとしておられます。それはイエス様が神様の備えられた栄光の生涯を生きたように、私たちも生きるためです。(KE)