4月30日
「主よ、この民にあなたが神であること、またあなたが彼らの心を翻されたのであることを知らせてください。」列王上18:37b
預言者エリヤとバアル神の預言者が対決したときのエリヤの祈りです。彼はこの事態を通して神様がご自分をあらわされるようにと祈りました。それに答えて天から火がくだり、燔祭などを焼き尽くしたのです。神様は常に神様固有の目的のもとに万物を支配しておられます。それは神様が神であることを知らしめることです。今も、神様はその立場から私たちを導かれます。(KE)
4月30日
「主よ、この民にあなたが神であること、またあなたが彼らの心を翻されたのであることを知らせてください。」列王上18:37b
預言者エリヤとバアル神の預言者が対決したときのエリヤの祈りです。彼はこの事態を通して神様がご自分をあらわされるようにと祈りました。それに答えて天から火がくだり、燔祭などを焼き尽くしたのです。神様は常に神様固有の目的のもとに万物を支配しておられます。それは神様が神であることを知らしめることです。今も、神様はその立場から私たちを導かれます。(KE)
4月29日
「今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。」ヨハネ12:27
主は決してスーパーマンではありません。私たちと同じ人となってくださいました。だから、十字架の死を前に心が騒いだと告白しています。しかし、主は果たさなければならない使命がありました。私たちにも一世一代の決断を迫られるときがあります。「このために、この時に」求められることを避けることはできません。神様があなたに求められるとき、覚悟して臨もうではありませんか。(KE)
4月28日
「主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。」エレミヤ23:24
神様と私たちは向こうとこちらのように対面関係にあるのではありません。パウロが言っているように、神様の中に生き、動いているのです。ですから、神様から隠れることはできません。それどころか、すべて見られており、知られているのですから、すっかり裸になって神様の手に陥るほかありません。(KE)
4月27日
「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」エレミヤ17:9
人の心ほど頼りなく、定まらないものはありません。その実態が見えないので気が付きませんが、心に去来する思いは自分でも驚くほどに「悪」に満ちたものです。瞬時に消えてしまうので、誰も自分の心の奥底まで知り尽くすことができません。悪から離れて、美しい思いに溢れる心を持ち続けられるように祈り求めようではありませんか。(KE)
4月26日
「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。」イザヤ55:8
神様のご計画、その思いは到底測り知ることができません。自分の力や知恵、経験などを土台にして、人生諸般を取り仕切っているかのように思っていますが、実は神様の見えないみ手に操られ、持ち運ばれ、仕切られているのです。失敗したことも、災難も、どんなことでも神様の仕掛けたワナのようなものです。それをきっかけに新しい物語がはじまります。現れた現象の背後にある見えない神様の手を見てください。(KE)
4月25日
「神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。」第一テサロニケ4:7
多くの人が求める救いは、家内安全、無病息災、家業繁栄、交通安全など、自分の利益になることです。しかし、聖書を通してあらわされた救いは、私たちが「清くなる」こと。神様が創造された目的にかなうものにすることが救いです。「清くなる」とは人が造られた本来の人になることです。それはまた私たちの利益となり、幸いなことであり、まさに救です。(KE)
4月24日
「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ、…」ガラテヤ1:1
これは強烈な自己意識です。自分の今が何によって存在しているかをこれほど明確に告白することができれば、何があっても揺れ動きません。私たちは自意識過剰でありながら、揺るがない確信がないために、世間の小さな物音で右往左往してしまいます。すべての第一原因である神様がはっきりした目的に従って自分自身を存在させていると確信して生きるものとなりましょう。(KE)
4月23日
「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」ガラテヤ6:7
神様は目に見えませんが、確かに存在しておられる方です。また、必ず報われる方でもあります。神様を大切にして御心に従うなら、そのように報われますが、軽んじたり侮ったりするなら、必ずそのように報われます。種を蒔いて作物を育てるとき、蒔いた種の数だけ収穫しますが、それ以上でも以下でもありません。また、稲を植えて麦を得ることも決してありません。主の報いはそれほど確実なのです。(KE)
4月22日
「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。」コロサイ3:23
これはイエス様の救を受けた者の基本原則です。私たちは主に召された僕です。私たちのすることはすべて主のためにしている事です。生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。日々の生活、家庭でも職場でも、どこにあっても、誰かのためにしているようですが、人のためではなく、主のためにするわざです。だから、それに報いてくださるのは人ではなく、神様です。エジプトへ売られたヨセフを見てください。彼の生涯は神様の手に委ねたものです。(KE)
4月21日
「それから彼らは、アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。」使徒16:6
パウロは地中海沿岸の町々に福音を述べ伝えていました。これは彼の野望や功名心によることではなく、聖霊に導かれたわざでした。御言を語ることが彼の使命ですが、「聖霊に禁じられた」とき、それに全く従いました。人が考えて「良い」と思うことであっても、「聖霊」に従うほうが大切です。聖霊は常識や良識をこえて、変幻自在に人や事を導かれます。このとき、パウロは思いがけずマケドニヤへ渡ることになります。(KE)