4月20日
「ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った。すなわち彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした。」歴代下26:16
ウジヤ王は若くして王位につき、神様を畏れて敬虔に従いました。その結果、神様は大いに祝福して国を栄えさせたのです。しかし、豊かに強くなり、恵みに慣れて、彼は祭司だけに許された務めを自分勝手にして神様を侮りました。神様の恵みと慈愛に感謝し、いつも心低くして謙遜でありたいものです。(KE)
4月20日
「ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った。すなわち彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした。」歴代下26:16
ウジヤ王は若くして王位につき、神様を畏れて敬虔に従いました。その結果、神様は大いに祝福して国を栄えさせたのです。しかし、豊かに強くなり、恵みに慣れて、彼は祭司だけに許された務めを自分勝手にして神様を侮りました。神様の恵みと慈愛に感謝し、いつも心低くして謙遜でありたいものです。(KE)
4月19日
「そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである。」第一コリント3:23
そうです、私たちは神のものです。私たちのものはありません。今日も、神様から預かった時間、仕事、お金、家族、自分ですから、自分勝手に使うことはできません。所有者である神様の意向を伺いつつ、用いてください。
また、壊れやすく、傷つきやすい預かりものですから、大切に扱わなければなりません。間もなく、ご主人の前で精算する時が来ます。(KE)
4月18日
「すると彼は言った、『あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです』。」ヨハネ9:25
生まれつき目の見えない人がイエス様の言葉に従ったとき、見えるようになりました。彼はどうしてそうなったのか説明できませんが、見えるようになった事実は体験したことですから、少しの疑いもありません。この確かさこそ力です。イエス様を体験することがない信仰は砂上の楼閣です。みことばに従って主を手でさわろうではありませんか。(KE)
4月17日
「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい。」ルカ8:39a
「神様を褒め称える」「主の栄光をあらわす」などと言いますが、具体的に何をすることでしょうか。その答えがこのみことばです。悪霊につかれていた人がイエス様によって正気に戻りました。彼はイエス様にどのように感謝すべきか、なすすべがありません。主が求められたのは神様のわざを語ることです。私たちも主がしてくださったわざを大胆に語ろうではありませんか。日々、主のみわざによって生かされているのですから。(KE)
4月16日
「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。」使徒17:24
神様をどのような方と信じるか、これは信仰の姿勢を決定することです。日本人の神観は分業化したもののようです。商売の神、学問の神、病気治癒の神、安産の神、交通安全の神など専門化されています。神様がそのようなものであったら、とうてい付き合いきれません。本来、神様はオールマイティで、例外なくすべてのものを造り、すべてを御心のままに支配する方ではないでしょうか。(KE)
4月15日
「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。」ローマ13:14
キリストを着るとはキリストに似るものとなることです。そのためには、常時、「キリストならどうなさるか」「キリストなら何と言うだろうか」を問わなければなりません。尊敬する人、愛する人と常に一緒に行動すると、立ち居振る舞い、言葉遣い、考え方や価値観に至るまで似てきます。みことばをくりかえし心に味わいかみしめていると、気づかないうちにキリストを着る者となります。(KE)
「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。」第二コリント12:7
パウロは肉体的な障害を持っていました。なんとかしてそれをとり除いて欲しいと神様に願ったのです。しかし自分にとって不都合なことであっても、それを受けるべき理由があるのです。「高慢にならないように」と、神様は罪の原因からあなたを遠ざけようとして、弱さを与えておられるのです。感謝しようではありませんか。(KE)
4月12日
「あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。」ローマ2:5
神様は慈愛と寛容な心で、今の時を忍耐してすべての人が悔改めるのを待っておられます。しかし、多くの人々は神様の思いを悟らず、むしろ恵みの時を軽んじています。やがて神様の怒りがくだる時が来ます。その結果は自らが蒔いたものですから、自分が甘んじて受けなければなりません。人は自分から滅びていくのですから悲しいことです。(KE)
4月11日
「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない。」ルカ7:47
「罪のゆるし」と「愛」は密接に関係しています。「ゆるす」とはただ特定の行為や罪を許すだけでなく、相手のすべてを(好き嫌いにかかわらず)無条件で受容することです。だから、「愛される」とは「ゆるされる」ことでもあります。神様は私たちの有りのままの状態で受けいれてくださいました。そこには十字架による「ゆるし」があるのです。(KE)
4月10日
「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。」ホセア6:1
悩みに会い、苦しみに遭うとき、あなたはまず何をしますか。神様が願っておられることは「主に帰ろう」と神様のもとに立ち返ることです。悩みや苦しみは人や状況によって生じるのではなく、すべての根源である神様に立ち帰らなければ何ひとつ解決できません。事態や境遇を造りかえる神様はあなたに善き事をしてくださいます。(KE)