共に喜び、共に悲しむ。それが愛です。

8月25日

「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。」第一コリント12:26

体にはそれぞれの機能を持つ器官があって、それらが一つの身体になっています。どの器官も大切なもので不要なものはありません。同様に、家族や教会などの仕組みもそれぞれ異なった役割をになう構成員によって一体となっています。それぞれが大切な存在です。一つでも悩んだり、痛んだりするとき、そこに連なる全ての者が悩み憂います。共に喜び、共に悲しむ。それが愛です。(KE)

主人に受け入れられなければ使命を果たせません

8月24日

「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。」第二コリント6:8a

今、自分はどういう者として生きているか、常に自覚しておきたいものです。パウロは「神の僕」と告白しました。それは誰が自分の主人であるかを表明したのです。しもべは主人に忠実でなければなりません。また、主人を喜ばせることがしもべの役割でもあります。周囲の人々がどんな評価をしようとも、主人に受け入れられなければ使命を果たせません。私たちも「神の僕」として生きようではありませんか。(KE)

むしろ、人が真似の出来ないことだから、神様はなさるのです

8月23日

「神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか。」使徒26:8

キリスト教のつまずきの石として、処女降誕、イエス様の復活などが言われます。しかし、そのようなことが信じられない人はそもそも神様自体を信じられないのです。まず神様を信じるなら、神様は全能者ですから、人の知恵や知識を越えたどんなことでも出来ないことがないと信じるはずではないでしょうか。否むしろ、人が真似の出来ないことだから、神様はなさるのです。(KE)

狭い門、細い道を通るには、その目標がはっきりしていなければ挫折します

8月22日

「命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」マタイ7:14

永遠の命を得るにはイエス様に従う以外にありません。しかし、それは世間の大勢に逆らうことになるから、困難の多い道です。一方、時流に流され、情欲のおもむくままに生きるのは容易いことです。その結果、人は少しでも楽な道を選び、結局滅びに向かうことになります。狭い門、細い道を通るには、その目標がはっきりしていなければ挫折します。私たちの求めているものをしっかり自覚して、命の道を進もうではありませんか。(KE)

人が死ぬのは病気などによるのではなく、神様が召されるからです

8月21日

「モーセは死んだ時、百二十歳であったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった。」申命記34:7

モーセは平穏な羊飼いの生活から引き出され、神様の命令によって神の民の指導者として立てられました。四十年余にわたる困難な事業を完成しようとしたとき、天に召されました。残念無念であったでしょうが、神様は使命を終わった者を天に召されたのです。高齢のため役に立たないからではなく、また、病弱だったからでもありません。人が死ぬのは病気などによるのではなく、神様が召されるからです。(KE)

私たちの一挙手一投足はすべて神様に覚えられていることを知るべきです

8月20日

「あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ。」使徒5:4c

アナニヤとその妻サッピラは地所を売った代金を神様に奉げましたが、一部を誤魔化していました。ペテロはそのことを指摘して、どうして正直にしなかったのかと問いました。奉げものは自由意志ですから、誰からも強制されることなく、非難されるものではありません。それなのに、彼らは人の手前で見栄のためにしたのです。私たちの一挙手一投足はすべて神様に覚えられていることを知るべきです。人を騙しても神様を欺くことはできません。(KE)

イエス様は私たちの身代わりの子羊です

8月19日

「彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。」レビ1:4

神様に犠牲を奉げるとき、手順が決められていました。自分の身をささげる代償として牛や羊の完全なものが選ばれ、殺されました。その際にささげる人は生贄の動物の頭に手を置きました。その動物が自分と同一であることを告白する行為です。そうすることによって、その人が神様に受け入れられたのです。イエス様は私たちの身代わりの子羊です。この方と一体となり、主のあがないを体験してください。(KE)

イエス様は私たちに与えなさい、空にしなさいと勧めます

8月18日

「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。」ルカ6:38

人は握ったものは手放さないように、持っているものは減らさないようにしようと保守的になります。それでは信仰に立つことができません。イエス様は私たちに与えなさい、空にしなさいと勧めます。そうすれば満たされ、溢れるようになるからです。神様は必ず報いてくださいます。(KE)

なにゆえに神様に顧みられて今があるのでしょうか

8月17日

「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」詩篇8:4

なにゆえに神様に顧みられて今があるのでしょうか。神様から見れば、私たちは取り柄のない無価値なものです。この詩の表題に「ダビデの歌」とありますが、名もない羊飼いとして生まれたダビデが一国の王になるという事態は不思議としかいうことが出来ません。家柄も才能も学歴や身分によらず、ただ一方的な神様の選びと召しによったのです。彼の生涯を貫く神様への謙遜を私たちも持ち続けましょう。(KE)

神様の赦しとご愛を受け入れ、あなたの全てをゆだねることです。

8月20日

「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。」ヨブ22:21

私たちは意識して神様と仲違いをしているとは思いません。しかし、造り主を忘れ、自分を神の如く唯我独尊としていること自体が神様への反抗です。それを罪と言います。その結果、自分の思い、計画に沿わないと怒ったり、失望したり、不安や心配が募るのです。そうであるかぎり、幸福にはなれません。まず、神様に立ち返って、罪を悔改め、主の十字架に示された神様の赦しとご愛を受け入れ、あなたの全てをゆだねることです。(KE)