日々なすわざを主の名によってするとき、そこで主に出会うのです。

4月9日

「また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。」マタイ18:5

ここで大切なのは「わたしの名のゆえに」です。幼な子が可愛いとか、可憐であるとか、そのようなことは一切関係ありません。イエス様の代理者として受ける時、イエス様を受けいれることでもあります。その他のことでも同様です。日々なすわざを主の名によってするとき、そこで主に出会うのです。今日も、主の名によって生きようではありませんか。(KE)

あなたの心を支配している者は誰ですか。

4月8日

「また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」ルカ17:21

「神の国はいつ来るのか」と尋ねた弟子たちに答えた主の言葉です。「神の国」は神様が主権者で、神様が統治する国のこと。それは見える形ではなく、私たちの心の状態です。あなたの心を支配している者は誰ですか。「俺だ」というなら、そこは神の国ではなく、俺の国です。イエス様に王となっていただくこと、これが神の国です。私たちは神の国の住人となり、王様に仕え、従う民です。(KE)

すべての人が悔改めて、神様に立ち返るときを残しておられるからです。

4月7日

「しかしあなたの父ダビデのために、あなたの世にはそれをしないが、あなたの子の手からそれを裂き離す。」列王上11:12

ダビデ王の子、ソロモンは父のように神様を敬わず、主から離れてしまいました。しかし神様はダビデのゆえに、ソロモンを哀れんでくださったのです。彼の世に災いは臨みませんでした。同様に、今御子のゆえに神様の怒りが猶予されているのです。それはすべての人が悔改めて、神様に立ち返るときを残しておられるからです。ソロモンが態度を改め神様に従っていたら、歴史は変っていたでしょう。(KE)

イエス様の言葉にどのように答えるか

4月6日

「話がすむと、シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた。」ルカ5:4

イエス様がペテロに言われた言葉です。ペテロは代々漁師の家庭に育ち、漁の専門家です。イエス様は大工ヨセフの子で、漁については全くの素人です。しかし、イエス様はまた神の子です。イエス様の言葉にどのように答えるか、ペテロの信仰が試されます。自分の経験や知識を離れて、イエス様の言葉を信じ、「沖へこぎ出し、網をおろす」決断は私たちにも日々求められていることです。ペテロは思いがけない体験をしました。(KE)

最善は神様の導きを信じて腹を括る(心定める)ことです。

4月5日

「神よ、わが心は定まりました。わが心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。わが魂よ、さめよ。」詩篇108:1

人生には幾度となく決断せねばならないときがあります。日常茶飯なことならばたいして悩むこともありませんが、生きるか死ぬかに係るとき人は迷います。自分にとっては生涯に一度のことです。人に聞き、専門家に意見を求め、ネットで情報を集めても確かな安心はありません。最善は神様の導きを信じて腹を括る(心定める)ことです。まだ結果はわからなくても神様からの平安が心に溢れます。(KE)

それでも主は立ち去らず、常にあなたのそばにおられます。

4月4日

「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。」ヨハネ21:4

ガリラヤに戻った弟子たちは夜通し漁をしましたが、なにも獲れません。イエス様が見ておられたのですが誰も気がつかない。私達の慌しく、忙しい生活の只中にも主は立って見ておられます。しかし、それに気付かない私達は悪戦苦闘、努力の甲斐も無く空手で終わるのです。それでも主は立ち去らず、常にあなたのそばにおられます。はやく気付いて欲しい、み声を聞いてほしいと願いつつ。今、主が見えていますか。(KE)

信じる私達をキリストの義によって生きるものとしてくださいました

4月3日

「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」ローマ8:34

神様は十字架によって文字通りすべての罪を取り除き、信じる私達をキリストの義によって生きるものとしてくださいました。しかし、現実の自分を見ると、許されなければならないことが多くて、自分は「ダメ」だと思います。それはサタンの巧妙な企みです。神様から引き離そうとしているのです。見ること、聞くこと、なんであっても、十字架を見上げてください。(KE)

 

自分が主と共に十字架に死んだことを絶えず自覚することです。

4月2日

「断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。」ローマ6:2

主の十字架は私たちを罪から解放するものです。もはや、私たちに罪の力はおよびません。そのことを実感するには自分が主と共に十字架に死んだことを絶えず自覚することです。それは説得や理屈ではなく、聖霊が働いて、あなたに主の死と一体であるという確信を与えてくださいます。今なお自分は「ダメ」だと言うのでしたら、主を再び十字架にかけることになります。(KE)

主はあなたのそばにいるではありませんか。

4月1日

「そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。」ヨハネ20:14

ご復活の朝、女達が墓に来て見ると主の体がありません。マリヤはひとり残って泣いていました。よみがえられた主は彼女のそばに立っていましたが、気がつきません。自分の固定観念に囚われていました。わたし達も同じように主を見失っているのではないでしょうか。「~のはずがない」、「~のはずだ」という思い込みは禁物です。主はあなたのそばにいるではありませんか。(KE)

信じて主にならい、すべてのことにみこころを行うこと。これが救です

3月31日

「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが終った』と言われ、首をたれて息をひきとられた。」ヨハネ19:30

十字架上での最後の言葉です。イエス様は父なる神様の使命を受けてこの世に来てくださいました。その使命はあなたに救を与えるためです。十字架の死をもって使命は完成し、救に必要なものは欠けなく備えられました。私たちが主を信じて主にならい、すべてのことにみこころを行うこと。これが救であり、主の十字架を受け継いで生きることです。十字架を負いつつ生きようではありませんか。(KE)