ですから、神様は繰り返し「思いわずらうな」と言われるのです

8月5日

「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」マタイ6:31

神様は私たちが思い煩うことを喜ばれません。それどころか、嫌われます。なぜなら、神様は「天の父」であって、私たちはその子供たちだからです。親が付いていながら、子供が心配し思い煩って落ち込んでいれば、親は悲しむでしょう。信頼されない親ほど情けないものはありません。ですから、神様は繰り返し「思いわずらうな」と言われるのです。神様はお父さんですから、安心して委ねきってしまいましょう。(KE)

モーセはその度に主の前に立ち、民の許しを執り成したのです

8月4日

「それゆえ、主は彼らを滅ぼそうと言われた。しかし主のお選びになったモーセは破れ口で主のみ前に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた。」詩篇106:23

荒野を旅する神の民はしばしば神様に逆らい、不平不満のつぶやきで神様の怒りを受けました。しかし、モーセはその度に主の前に立ち、民の許しを執り成したのです。モーセのとりなしがなければ、とっくに滅ぼされていたでしょう。イエス様も私たちの罪をあがなう者となって神様の怒りから救い出してくださいました。それゆえ、私たちもまた和解の使者となろうではありませんか。(KE)

神様は天の軍勢を送ってあなたを守っておられます

8月3日

「エリシャは言った、『恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから』。」列王下6:16

スリヤ王が軍勢を率いて、預言者エリシャの町を包囲しました。エリシャの召使が朝起きて見ると、大軍に囲まれていることを知ってうろたえました。彼には神様の軍勢が見えなかったのです。私たちはスリヤの大軍でなくてもいろいろな敵に攻撃されますが、決して失望することはいりません。神様は天の軍勢を送ってあなたを守っておられます。心の目をひらいて見てください。(KE)

神様は人の心を支配し、導き、自在に動かされます

8月2日

「王の心は、主の手のうちにあって、水の流れのようだ、主はみこころのままにこれを導かれる。」箴言21:1

人の心ほど分りにくいものはありません。自分の心ですら、つかめずにいます。まして、家族だ、夫婦だといっても、それぞれの思いや心は全く違います。誤解・曲解があるのは当然でしょう。ただ、神様は人の心を支配し、導き、自在に動かされます。相手の心が読めないとき、自分の心が不明な時、神様に祈って教えていただくと、はっきりします。(KE)

喜び、祈り、感謝。これは福音の全てである

8月1日

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」第一テサロニケ5:16-18

喜び、祈り、感謝。これは福音の全てであると言っても過言ではありません。しかも、個別のこととしてではなく、この三つは相互に深く関わっています。ですから、一つでも欠かすなら、他のものも失われます。しかも、神様が求めておられることだと言われています。あなたは喜んでいますか、祈り、感謝していますか。(KE)

神様のみわざであると言う以外にありません

7月31日

「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」箴言19:21

人の心に思い計ることは次から次へ湧いてきます。しかし実現に至るものは実にわずかです。そればかりか、思いも寄らない、計画にもないことがどれほど沢山あることでしょうか。だからこそ、人の知恵や計画によるのでなく、神様のみわざであると言う以外にありません。神様のみ旨を堅く信じて、与えられた事態や事柄のなかで、神様のみ手に委ね、導かれたいものです。たとえそれが自分の意に反するものであっても。(KE)

神様が求められる使命があるからです

7月30日

「あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう。」エステル4:14c

王妃エステルは同胞のユダヤ人が存亡の危機に瀕したとき、叔父のモルデカイから王に助命嘆願を求められました。しかし、王妃が王に会うには許しがなければ会えません。そうでなければ命を失う危険がありました。エステルは命を賭して決行します。人には人生に何度かこのような命がけの決断をしなければならないときがあります。神様が求められる使命があるからです。イエス様も同じ道を歩みました。(KE)

「一心に」「尋ね求める」ことです

7月29日

「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。」エレミヤ29:13-14a

私たちの信じる神様はどこにおられるのか、どのような方なのか、秘密のベールに覆われた方ではありません。ご自分を知ってほしいと切に願っておられます。唯一つ条件がありますが、それは「一心に」「尋ね求める」ことです。「目移りする」と言う言葉があるように、あれもこれもと、心が乱れるのを主は嫌われるのです。一心に主を求めましょう。(KE)

万物の主である全能の神様の前に立つとき、「沈黙」以外にありません

7月28日

「主なる神の前に沈黙せよ。主の日は近づき、主はすでに犠牲を備え、その招いた者を聖別されたからである。」ゼパニヤ1:7

人の心には、不平、憤り、嘆きなどのつぶやきの声が沸騰する水の如く絶え間なく湧いてきます。しかし、万物の主である全能の神様の前に立つとき、「沈黙」以外にありません。神様のなさることは完全無欠です。ひとり子イエス様を犠牲とし罪をあがない、招かれた私たちを「聖別」して下さいました。これ以外に何の不足があるでしょうか。主のみ手に一切を委ねるほかありません。(KE)

自分を知るには自分の顔を見ることです。

7月27日

「水にうつせば顔と顔とが応じるように、人の心はその人をうつす。」 箴言27:19

「水にうつせば」とは詩的な表現ですが、言うならば鏡に映る自分のことです。その人の心がそこに表れていると言われます。しかし、残念なことに、自分の顔を常時見ているわけではありません。いつもは他人の顔ばかり見ています。自分の心は自分が知っているように思いますが、自分を知るには自分の顔を見ることです。意識して、時折、鏡に自分を映して見てください。今朝は憂い顔ですか、それとも平安な顔ですか。(KE)