7月26日
「主の使は彼女に言った、『あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい』。」創世記16:9
アブラハムの妻サライの奴隷ハガルが主人の子を身ごもったため高慢になり、女主人を見下げるようになりました。そのためハガルはいじめられて逃げ出します。荒野で神様の声を聞いたのです。過酷な女主人のもとに帰るなど、耐えられないことでしょう。しかし、ハガルは自分を見ておられる神様を知りました。主の目が常に注がれていることを知れば、恐れることはありません。あなたにも注がれています。(KE)
7月26日
「主の使は彼女に言った、『あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい』。」創世記16:9
アブラハムの妻サライの奴隷ハガルが主人の子を身ごもったため高慢になり、女主人を見下げるようになりました。そのためハガルはいじめられて逃げ出します。荒野で神様の声を聞いたのです。過酷な女主人のもとに帰るなど、耐えられないことでしょう。しかし、ハガルは自分を見ておられる神様を知りました。主の目が常に注がれていることを知れば、恐れることはありません。あなたにも注がれています。(KE)
7月25日
「しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。」ヘブル4:2b
神様の言葉は聞くだけで終わる限り、それはただの言葉にすぎません。大切なのは信じて心に受け入れ従うとき、神様の力が具体化されます。信仰に立ち生活の細部にわたって御言を実践するのです。それをしなかったために、神の民は約束の地カナンに入ることができませんでした。神様の言葉を知りながら、見ること、聞くことによって左右され信仰に立てなかったからです。(KE)
7月24日
「わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。」第一ヨハネ1:5
神様は「光」だと言われています。光自体に影も曇りもありません。しかし、私たちは光どころか、まるで暗やみに住む虫けらのようなものです。光と闇とは決して交わることができません。ところが、神様は私たちを光に住む者にしようと計画され、ひとり子を世に送ってくださったのです。十字架の救を信じて、光なる神様と共に生きてください。(KE)
7月23日
「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。」第一コリント15:10a
これはパウロの言葉ですが、よみがえったイエス様に出会い、彼の人生が180度変りました。それまで堅く信じてきた世界が完全に崩壊して、イエス様に身を捧げて生きる人生がゼロから始まりました。それゆえに、彼は今生きているのはただ主の恵みによると告白せざるをえないのです。私たちも同じです。イエス様を信じ、主のものとなって生きる。今日も神の恵みによって生きてください。(KE)
7月22日
「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。」第二コリント7:10
かつて「悲しみよ、さようなら」という映画があったことを覚えていますが、悲しみを喜ぶ人はだれもいません。避けられないとすれば、与えられた悲しみを無駄にする手はありません。悲しみの中で神様の御心に探り、神様のみ思いに添うとき、悔改めから救いへと導かれます。神様から離れて、悲しみを道連れにするとき、望みなき死へ落ち込んでしまいます。(KE)
7月21日
「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。」ローマ6:16
人は弱いもので、何かにすがらなければ生きていけません。それは人が神様にすがって生きるようにと造られたからです。問題は何にすがっているかによります。なにものにも従っていないと思っても、気づかないうちに、お金、仕事、友達など、神様以外のものを頼っています。今、あなたは何の僕でしょうか。(KE)
7月20日
「もしあなたのあだが飢えているならば、パンを与えて食べさせ、もしかわいているならば水を与えて飲ませよ。こうするのは、火を彼のこうべに積むのである、主はあなたに報いられる。」箴言25:21-22
「敵」にパンや水を与えるという場面を日常生活に想像することは出来ませんが、敵対する者に「善」をもって応答することはイエス様も薦めていることです。この言葉の真意は復讐を神様にゆだねることです。それには神様が居られること、全てをご存じであること、正しく報われる方であると信じなければ出来ません。(KE)
7月19日
「われわれの神、主は、何事をされるにも、正しくあらせられます。」ダニエル9:14b
どんなことであっても、神様のなさることには間違いがないとする。これが神様を尊ぶ基本です。現実の生活は人のやっていることばかりだから、間違いもあれば、失敗もあります。神様がしておられるという保証があれば、なにがあっても安心しておれるのですが、それがない。しかし、信仰に立つとは、人のわざに見えても、その背後に神様のわざがあると信じるのです。人のわざも、大小を問わず、神様の企みと計画に導かれていると知るべきです。(KE)
7月18日
「主なる神は人に呼びかけて言われた、『あなたはどこにいるのか』。」創世記3:9
天地創造によって造られた人(アダム)とその助け人(エバ)とは神様の言葉に従わないで罪を犯しました。その結果、エデンの園を追放されました。一連の記事は神様の処罰の経過を記したものに思われますが、その背後に神様の愛が潜んでいます。繁みに隠れた二人に神様は呼びかけました。「あなたはどこにいるのか」と。これはまさに神様が二人を愛しているあかしです。なんとか助けたい、赦したいとの神様のみ思いを知ってください。(KE)
7月17日
「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び…。」エペソ1:4
私たちが天地創造の神を知り、救い主イエス様を信じるようになったのは何ゆえであったか、考えると不思議です。世間には数え切れないほどに神仏と称するものがあります。間違って他のものに帰依したかもしれません。しかし、神様はあなたを救うことをはるか昔から決めて、神様の選びによってこうなるようにと定め、導かれたのです。ただ神様の恵みによって今あるのです。(KE)