3月19日
「その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、『主は今に至るまでわれわれを助けられた』と言って、その名をエベネゼルと名づけた。」サムエル上7:12
人々は心を一つにして神様に頼り、ペリシテ人との戦いに勝利した時、祭司サムエルは記念の石塚を立てました。それは戦勝記念碑や凱旋門ではなく、神様のみわざを感謝するものです。自分達の作戦や奮闘努力の結果ではなく、ただ神様の助けによる勝利であることをあかししたのです。毎週、日曜日毎の礼拝はこの石塚をすえるためです。(KE)
3月19日
「その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、『主は今に至るまでわれわれを助けられた』と言って、その名をエベネゼルと名づけた。」サムエル上7:12
人々は心を一つにして神様に頼り、ペリシテ人との戦いに勝利した時、祭司サムエルは記念の石塚を立てました。それは戦勝記念碑や凱旋門ではなく、神様のみわざを感謝するものです。自分達の作戦や奮闘努力の結果ではなく、ただ神様の助けによる勝利であることをあかししたのです。毎週、日曜日毎の礼拝はこの石塚をすえるためです。(KE)
3月18日
「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。」第一テモテ6:12a
「永遠のいのち」を得るには信仰を守り続けなければなりません。過去にどんなに立派な信仰があったとしても、今、それがなければ何の意味もありません。人生で信仰を続けることは容易なことではなく、様々な戦い(内にも外にも)に打ち勝って生涯を全うしなければなりません。しかし、その結果、受ける報いは「永遠のいのち」ですから、測り知れない価値があります。報いを望み見て、互いに励ましあい、ゴールを目指しましょう。(KE)
3月17日
「自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか。」マタイ20:15
朝早くに雇われた人も、夕方に雇われた人も同じ額の賃金をもらった譬えが語られています。人の世では平等が尊ばれます。確かに人と人との関係ではそのとおりですが、人と神様との関係では通用しません。神様と私たちはそれぞれ一対一の契約であって、神様の取り扱いはひとりひとり違います。横の人と比べるのは意味のない事です。神様と「私」の関係をしっかり築いてください。(KE)
3月16日
「それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。」第一コリント1:29
神様は常にご自身が主であることを求められます。そのため、この世の弱い者、軽んじられている者、無きに等しい者を選ばれたのです。なぜなら、彼らは誇るべきものはなく、神様に頼らなければどうにもならないものだからです。あなたが弱者であり、劣等生だと思うなら、感謝しようではありませんか。そのようなあなたを通して、神様は神様らしさを現してくださるのです。(KE)
3月15日
「神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。」ローマ4:21
アブラハムの信仰について語った言葉ですが、「約束」の成就を信じることが信仰です。聖書は神様の約束の書です。約束はまた成就されなければ単なる「絵に描いた餅」にすぎません。そのためには約束した当事者が真実に実行する能力が問われます。しかし、神様はできない事のない方ですから、約束の実現を忍耐強く待つことが大切です。アブラハムは神様の約束を確信して待ち続け、結果を手にしました。(KE)
3月14日
「彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。」ルカ20:36
イエス様が人の死後、どのようになるか語ったことばです。人は必ず死を迎えます。そのとき、肉体は朽ち果て失われますが、それですべてが終わるのではなく、魂は神様のもとへ帰り、霊の体を与えられます。天使のごとく、神様に仕え、神の子として永遠の命に生きるためです。そこでは親子、夫婦などの肉にあった関係は解消され、父なる神様のもとにある新しい関係が築かれます。(KE)
3月13日
「種まきは御言(みことば)をまくのである。」マルコ4:14
種まきのたとえ話の一節です。神様の言葉である御言は種のようなものです。種は何ひとつ特徴のない平凡なものです。こんなものから何がでるかしらと思われますが、ひとたび地に埋められ、時がたつと芽が出て成長し、種の姿から想像できない草花や大木、野菜などになります。小さな種の中に命が格納されています。同様に、みことばに命が宿っていて、心と言う農地に埋められると驚くべき結果をもたらします。みことばを受け入れ、信じて、命を受けましょう。(KE)
3月12日
「あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。」詩篇4:4
「怒り」自体は罪ではありませんが、怒りに任せて自分を忘れるとき、罪を犯します。そうならないために、独りになって、「静かに」事の次第を解きほぐすのです。自分を見ている目に気がつきます。また、自分の中のもう一つの声が聞こえるようになります。そのとき、怒りは消えて、何を怒っていたのか忘れています。だから、決して即応しないことです。待つことが大切です。でないと、後悔することになります。(KE)
3月11日
「しかしあなたの父ダビデのために、あなたの世にはそれをしないが、あなたの子の手からそれを裂き離す。」列王上11:12
ダビデ王の子、ソロモンは父のように神様を敬わず、主から離れてしまいました。しかし、神様はダビデのゆえに、ソロモンを哀れんでくださったのです。彼の世に災いは臨みませんでした。同様に、今、御子のゆえに神様の怒りが猶予されているのです。それはすべての人が悔改めて、神様に立ち返るときを残しておられるからです。ソロモンが態度を改め、神様に従っていたら、歴史は変っていたでしょう。(KE)
3月10日
「イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。」ルカ17:16
イエス様によって病を癒された十人のうち、たった一人だけが主のもとに帰って来て、感謝しました。なんと人はご都合主義でしょうか。どんなに恵まれても、たとえ不治の病が癒されようと、十分の一の感謝で終わるとは!しかし、これは他人事ではない。私たちは神様に感謝することがいかに乏しいことか。差別の中にあったサマリヤ人は受けた恵みを身に余るものと深く感じたのです。(KE)