「無きに等しい者」を選んでくださるのです。

7月16日

「有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」第一コリント1:28

各種の選挙がおこなわれますが、候補者は自分がいかに有能かを訴えて、選ばれようとします。しかし、神様の選びは正反対です。有るか無いか分らない存在、「無きに等しい者」を選んでくださるのです。それは、神様の力、栄光をあらわす器として用いるためです。この世で重んじられる者であったら、神様の力より、その人の力が賞賛されるでしょう。神様の道具とされることは幸いです。(KE)

全てを最善にしてくださると言えるからです。

7月15日

「わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。」第一ヨハネ4:16ab

なんと頼もしい確信ではないでしょうか。神様が愛であると信じるほど幸いなことはありません。神様は人生諸般あらゆることを知り、支配し、備えられる方です。その方が愛であるなら、どんなことをされても動揺しません。全てを最善にしてくださると言えるからです。しかも、その愛を知っているばかりか、信じていると告白しています。私たちも負けずに告白しましょう、神は愛であると。(KE)

それがいつであるかは誰も知りません。

7月14日

「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」 マルコ13:32

「その日、その時」とは終末のとき、世の終わりの日のことです。人心が荒廃し、世が衰退し始めると、終末を説く者たちに惑わされます。確かに、存在する全てのものは消滅するときがきますが、それがいつであるかは誰も知りません。こればかりは神様の専権事項です。しかし、分らないから無関心でいいとは言えません。いつ、どんなときにそうなっても大丈夫なように、備えを怠ってはなりません。(KE)

「さいわい」の条件は変化し、消失してしまいます。

7月13日

「万軍の主よ、あなたに信頼する人はさいわいです。」詩篇84:12

「さいわい」の条件は人それぞれで違います。「お金があれば幸い」と言う人、「友達がいるから幸い」と言う人、「熱中できる仕事があるから幸いだ」と言う人などなど。また、そのような「さいわい」の条件は変化し、消失してしまいます。しかし、神様は永遠不変です。そればかりか、出来ないことのない方、全てのものの供給者です。この方により頼むならば、なにひとつ不足はありません。これこそ「さいわい」の極みです。(KE)

聖書に明かされている信仰にしっかり立つものとなりましょう

7月12日

「呼ばわる者の声がする、『荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ』。」イザヤ40:3

「荒野」「さばく」とは文字通り不毛の地、楽しませ、喜ばせるものもない状況です。人生にもたびたびそのような境遇に出会いますが、そこで何をすべきでしょうか。「主の道」「大路」を備え、真っ直ぐにせよと言われます。神様に対する姿勢、信仰の内実を神様の求めておられる標準にあわせることです。自我流の信仰ではなく、聖書に明かされている信仰にしっかり立つものとなりましょう。(KE)

私たちが喜び、感謝し、驚きと讃美が絶えないように神様がなさいます

7月11日

「この民は、わが誉を述べさせるためにわたしが自分のために造ったものである。」イザヤ43:21

イエス様の救をいただくことは古い自分を捨てて、キリストを着る者となることです。これはまさに“新創造”です。なんのためでしょうか。それは「わが誉を述べさせる」ためです。神様はご自分の目的のために私たちを救い、清め、新しくしようとするのです。私たちが喜び、感謝し、驚きと讃美が絶えないように神様がなさいます。神様の巧みな手に委ねて、どのようなわざがなされるか期待しましょう。(KE)

疑わないで、支配しておられる主の命令に服従してみましょう

7月10日

「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」コロサイ1:13

私たちがイエス様を知らなかったとき、やみの中を歩いていました。しかし、今は「やみ」の支配から、イエス様の支配へ移しかえられました。このことは客観的に証明できないので、なんだか言葉だけのように思われます。それを現実のものとするには救い出されたと信じ、また、御子の支配下に移された自分であることを認めなければなりません。疑わないで、支配しておられる主の命令に服従してみましょう。手ごたえを感じます。(KE)

持てるものを奉げるならば、神様はそれに必ず応えてくださいます

7月9日

「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。」第二コリント9:6

多くの収穫を得るためには豊かに蒔かねば得られません。神様の祝福と恵みを受けるにも同様です。神様の限りないご愛に応答して、成し得る限りに持てるものを奉げるならば、神様はそれに必ず応えてくださいます。神様の報いを疑って、少ししか奉げなければいただく恵みも僅かになるのは当然です。問題は神様を信じて、大胆に一歩を踏み出すかどうかにかかっています。(KE)

自分が罪人であることを心から認める人を求めておられます

7月8日

「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」ルカ5:32

イエス様がこの世に来られたのは、罪人を救うためです。罪人とは刑法上の犯罪者ではなく、神様に対する罪を犯したものです。その意味で、人は全て罪人です。しかし、それを自覚し、救を求める人よりも、自分を「義人」とする人が多いのです。イエス様は自分が罪人であることを心から認める人を求めておられます。なぜなら、そのような人々のために、主はきてくださったのですから。(KE)

全てが神様の恵みによることを認めて、感謝する者となるならば

7月7日

「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。」箴言17:1

『衣食足りて礼節を知る』と昔は言われたものです。豊かになれば、人はみな穏やかになり、平和になると思われましたが、今やあり余るほどのものに囲まれながら、争い、不平、無気力がはびこっています。全てのものの根源であり、供給者である神様を忘れた結果です。小さなことから、大きなことに至るまで、全てが神様の恵みによることを認めて、喜びに溢れて感謝する者となるならば、「かわいたパン」も山海の珍味となるでしょう。(KE)