6月21日
「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」マタイ5:44
これは言うには易く、行うには至難の言葉です。しかし、「愛する」とはその人のために「祈る」ことですから、実は大変容易なことです。「祈り」は自分のために何事かを願い求めること思われますが、それ以上に、祈りは他者のためにとりなす愛のわざでもあります。あなたが敵対する者や害する者のために、神様の憐みと慈愛を祈ってあげるなら、その人を変えてくださるだけでなく、祈るあなたに神様の恵みが注がれます。(KE)
6月21日
「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」マタイ5:44
これは言うには易く、行うには至難の言葉です。しかし、「愛する」とはその人のために「祈る」ことですから、実は大変容易なことです。「祈り」は自分のために何事かを願い求めること思われますが、それ以上に、祈りは他者のためにとりなす愛のわざでもあります。あなたが敵対する者や害する者のために、神様の憐みと慈愛を祈ってあげるなら、その人を変えてくださるだけでなく、祈るあなたに神様の恵みが注がれます。(KE)
6月20日
「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」ローマ8:34
イエス様による救いは完全な赦しであって、すでに完成したものです。また、この救から漏れる人もいません。ところが、それを疑い、まだ自分は赦されない者だと失望し、落胆します。疑わせて、攻撃するのは自分自身です。それはあなたを救いから罪の支配に引き入れようとするサタンの仕業です。十字架を仰いで、今日も主の赦しに生きてください。(KE)
6月19日
「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。」第二コリント6:8a
イエス様の十字架の救いを信じた者たちは「神の子」と呼ばれますが、同時に「神の僕(しもべ)」でもあります。「しもべ」は主人であるイエス様に仕え、従うのが仕事です。また、主人に喜ばれ、受け入れられるなら、それがすべてです。他の人がどうであるとか、自分の事をどういわれようと、何も関係はありません。常に「しもべ」となりきって、主イエス様だけに目をとめておきましょう。(KE)
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」マタイ16:25
「捨てて拾う」、「死んで生きる」など、逆説と言われる修辞法でイエス様は真理を語っています。たしかに、人は失うまいとして握り、しがみつきますが、それでは増やすことができません。むしろ、イエス様のために、命(最も大切なもの)すらも惜しまなければ、主は豊かに報いてくださいます。今日、あなたは主のために何を捨てますか。お金ですか、時間ですか、健康ですか、友人ですか?(KE)
6月17日
「夜、初更に起きて叫べ。主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。町のかどで、飢えて息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ。」哀歌2:19
幼い子供たちの命がたやすく失われる時代になりました。家庭は崩壊し、マンホール・チルドレンや虐待、育児放棄から餓死に至るまで、心痛める事件が多発しています。なんともやるせない思いがします。行政や地域社会の働きも限界があります。今や神様の救いを待ち望むほかありません。今日も多くの幼い命が守られるように祈ろうではありませんか。(KE)
6月16日
「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。」エレミヤ29:13-14a
神様の切なる願いは私たちが神様を求めることです。とかく、神様を求めるよりも、人や物、制度や組織などにすがろうとします。しかし、結局、全ての人が帰るべきところは神様以外にありません。求めさえすれば、神様はあなたに会うと言われます。ただし、「一心」にです。行き詰って、お手上げになるとき、神様のすぐそばに立っているのです。(KE)
6月15日
「悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。」エペソ4:29
このような勧めがなされるのは人が「悪い言葉」を好むからです。他者を批判したり、裁いたり、ののしったり、悪口雑言はお手のものです。しかし、それでは神様に喜んでもらうことができません。“口は災いの元”と言われるように、何気ない一言が大火となります。「徳を高める」言葉は、そばで聞いている者にも心地よいものです。口に気をつけて。(KE)
6月14日
「しかし、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない。」エゼキエル28:2b
人はどんなに賢くても神様になることはできません。人の最大の罪は自分が神様になろうとすることです。「神童」、「天才」と呼ばれようとも、人はあくまでも人であって、被造物にすぎません。だから、欠けたところ、不完全なところ、不足があるのも当然です。非の打ち所のない、完璧な者になろうとすることは、神になろうとすることです。被造物である“分”を弁え、ありのままになって神様の前にへりくだりましょう。(KE)
6月13日
「主はこう言われる、『あなたがたはわかれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ』。」エレミヤ6:16a
私たちはしばしば選択と決断を求められる事態に直面します。そのとき、何を基準に選択し、決断するのでしょうか。その判断が間違うととんでもないことになります。大切な基準は「魂の安息が得られるか」です。利益や名誉を得る道であっても、魂の平安を失うなら、失敗です。岐路に立つとき、諸先輩の歩みを参考にしてください。(KE)
6月12日
「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。」詩篇121:1-2
危急のとき、あなたは何を助けとしますか。人を頼り、経済力を助けとし、社会制度や福祉を当てにしている限り、必ず失望する時が来ます。天地の造り主、神様が助けとなってくださると確信できる人は、なんと幸いな人でしょうか。この方に頼る限り、決して力不足になることはないし、失望させられることもありません。あなたもわが助けは「主から来る」と確信してください。(KE)