決断は私たちにも日々求められていることです。

3月9日

「話がすむと、シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた。」ルカ5:4

イエス様がペテロに言われた言葉です。ペテロは代々漁師の家庭に育ち、漁の専門家です。イエス様は大工ヨセフの子で、漁については全くの素人です。しかし、イエス様はまた神の子です。イエス様の言葉にどのように答えるか、ペテロの信仰が試されます。自分の経験や知識を離れて、イエス様の言葉を信じ、「沖へこぎ出し、網をおろす」決断は私たちにも日々求められていることです。ペテロは思いがけない体験をしました。(KE)

神様の前に心を低くして栄光を主にお返ししましょう。

3月8日

「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。」申命記8:17

世間でも“喉元過ぎれば熱さ忘れる”というように、人は忘れやすいものです。神様の恵みもたやすく忘れてしまいます。そればかりか、全てが自分の才覚と努力で獲得したかのように思い上がって、高慢不遜な鼻持ちならない人間に成り下がってしまいます。そうならないように、事あるごとに、神様の前に心を低くして栄光を主にお返ししましょう。主はそのような人をますます祝福してくださいます。(KE)

「しばらく待て」「聞こう」、これが私たちにも求められることです。

3月7日

「モーセは彼らに言った、『しばらく待て。主があなたがたについて、どう仰せになるかを聞こう』。」民数記9:8

民は指導者モーセの判断を聞こうと一つの問題を持ってきました。さてどう答えるべきか。モーセは即答を避け、神様のみこころを求めます。「しばらく待て」「聞こう」、これが私たちにも求められることです。ともすると、過去の経験、周囲の人々の意見、自分の感情や思いに振り回されて失敗します。焦って仕損じるより、主を待って結果を得るほうが幸いです。あなたはどちらを選びますか。(KE)

神様ご自身が救を備えておられるのです。

3月6日

「モーセは民に言った、『あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい』。」出エジプト14:13

神の民がエジプトから解放され約束の地を目指して行く途中、前方に紅海があり後ろからエジプトの軍隊が攻めてきました。まさに絶体絶命の窮地にあるとき、モーセを通して神様は民に語られたのです。人の力や知恵によるのではなく、神様ご自身が救を備えておられるのです。今、あなたがどのような絶望的状況にあるとも、神様だからこそなしえる救があります。信じてください。(KE)

イエス様に救われた私たちは前に向かって進むのみです。

3月5日

「彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、『のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない』。」創世記19:17a

ソドムの町が滅ぼされるとき、神様はロトの家族を憐み、救ってくださいました。神の使いは彼らを町から連れ出して、「うしろをふりかえるな」と命じました。イエス様に救われた私たちは前に向かって進むのみです。過去の様々な事態や状況がどんなであれ、善悪にかかわらず、振り返ってはダメです。命を失います。振り返ったロトの妻は「塩の柱」になったといわれています。(KE)

主は恵み豊かな方ですから、決して絶望に終わらせることはありません

3月4日

「その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。」詩篇30:5

明けない夜はなく、出口のないトンネルはありません。主の試練に会うとき永遠に続くもののごとく思われますが、主は恵み豊かな方ですから、決して絶望に終わらせることはありません。ご愛のみ手を信じて、耐え忍びましょう。また、泣きたい時にはおおいに泣き、遠慮なく悲しもうではありませんか。必ず、喜びの朝が来ます。(KE)

全ての人が救われることを願って忍耐しているときです。

3月3日

「わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。」エゼキエル22:30

イエス様は世の終りの時、裁き主として世に再び来られると約束しています。今は、神様の怒りが注がれる前に全ての人が救われることを願って忍耐しているときです。神様は決して滅ぼすことを願いません。振り上げた拳を下ろす仲立ちを求めておられます。あなたが、家族の、友人知人の執り成し手とならなければ、誰がそれをするでしょうか。(KE)

心惑わされて祈る力を失っている姿です。

3月2日

「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。」イザヤ35:3

これは加齢によって足腰が弱ったというのではありません。かつて祈る時、立って両手を天に差し伸べて祈ったのです。「弱った手」「よろめくひざ」とは信仰が萎えたたとえです。周囲の事情・境遇、見える状態、耳に入る情報などに心惑わされて祈る力を失っている姿です。私たちも知らないうちにそのような状況に落ちます。謙って、神様を求め、力を与えられ、確信に満たされて祈る者となりましょう。(KE)

目指すべき規範は「良心に責められることのない」生き方です。

3月1日

「わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています。」使徒24:16

人は天涯孤独で絶海の孤島に住んでいるのではありません。神様との関係、人との関係の中で生きています。そのかかわりから自分の行動や思考が左右され、自分が正しい道に歩んでいるのかどうかわからなくなります。そのなかで、目指すべき規範は「良心に責められることのない」生き方です。自らの行動や言葉によって「良心」に咎められる思い、呵責を感じるなら、悔改めて道を正すべきです。(KE)

私たちの魂もみことばによって成長します。

2月28日

「今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。」第一ペテロ2:2

生まれたばかりの赤ちゃんは乳を飲み、眠り、排泄するだけですが、それによって成長していきます。また、飲むべきものは乳であって、スープやジュースではダメです。私たちの魂も「霊の乳」であるみことばによって成長します。みことばを薄めたり、他のものを混ぜたりしては害となっても益にはなりません。単純素朴にみことばだけを素直に信じ心に蓄えましょう。(KE)