それを教えてくださるのは神様だけです。

7月6日

「主よ、わたしを懲らしてください。正しい道にしたがって、怒らずに懲らしてください。さもないと、わたしは無に帰してしまうでしょう。」エレミヤ10:24

人は科学や芸術、政治や経済を誇り、知恵や知識を自慢しますが、もっと身近な人の道、正邪の区別などを知りません。それを教えてくださるのは神様だけです。神様の懲らしめは嫌なことですが、それによらなければ悟れないほど、人は愚かな者です。怒りを伴わない懲らしめは教育であり、怒りによる懲らしめは懲罰です。たとえ懲らしめによってでも、神様の知恵をいただきましょう。(KE)

「心砕けて、へりくだる者」と住んでくださるのです

7月5日

「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす』。」イザヤ57:15

神様が住み賜う所が「高く、聖なる」ところであるのはしごく当然だと思いますが、それでは私たちが神様に近づくことは出来ません。しかし、幸いなことに神様はまた「心砕けて、へりくだる者」と住んでくださるのです。今日も、「心砕け、へりくだる者」となって、神様と共に生きてください。(KE)

誰のものであるかを常にあきらかにしておくべきです。

7月4日

「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のものである。」詩篇24:1

人は勝手に自分のものだと決めていますが、全ての創られたものは創造者である神様のものです。私たちの体も、健康も、家族も、仕事も、すべて主のもので、私たちに使用権が付与されているだけです。だから、所有者の意向に従って用いなければならないばかりか、誰のものであるかを常にあきらかにしておくべきです。それを忘れて、まるで自分の所有物であるかのように扱うことが、神様に対する罪の一つです。(KE)

イエス様の死とよみがえりは、私たちにとって信仰の原点です

7月3日

「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。」ローマ4:25

イエス様の死とよみがえりは、私たちにとって信仰の原点です。神様のひとり子であるイエス様が罪人である私のために、神様からの刑罰を受けてくださった。それによって、私たちの罪は完全に赦されました。さらに進んで、神様はイエス様を死からよみがえらせて、私たちの命として与えてくださったのです。今日も、その命に生きているものであることを自覚し、感謝しようではありませんか。(KE)

 

期待すべき相手を間違えているのです

7月2日

「あなたは善にして善を行われます。あなたの定めをわたしに教えてください。」詩篇119:68

神様は「善」だと言われています。新約では神様を「愛」と呼びます。いずれにしても、神様は私たちによきことをなそうとされる、心の温かい、情愛に溢れた方です。ところが、人はそれを信じようとしないで、人の優しさや、情け深さに期待して、裏切られ、失望します。期待すべき相手を間違えているのですから、自業自得です。信頼すべき方は神様だけです。また、神様は常に「善」をあなたに図っておられます。(KE)

神様は思いがけない、想像すらしないことをおこなわれます

7月1日

「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」イザヤ55:8-9

神様が思い計られることと、人が計画することはまったく違います。自分の人生だと思って、計画通りに事を運ぼうとしますが、そうはなりません。実は、神様が導かれるものです。神様は思いがけない、想像すらしないことをおこなわれます。今日も、神様の知恵とわざに導かれましょう。(KE)

これは彼の事業ではなく、神様のみわざだからです。

6月30日

「モーセは死んだ時、百二十歳であったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった。」申命記34:7

神様から大事業に召されたモーセはやがて使命をおわり、神様のもとに召されました。そのとき、約束の地カナンが目前にありましたが、彼はそこに渡ることができなかったのです。これは彼の事業ではなく、神様のみわざだからです。彼は老いさらばえて、見るも無残な老人となって亡くなったのではなく、まだ元気に満ち、溌剌としたままで召されました。それは神様の祝福であり、神様が引き上げられたゆえです。(KE)

神様が王として立てられた以上、神様が除かれるに違いない

6月29日

「しかしダビデはアビシャイに言った、『彼を殺してはならない。主が油を注がれた者に向かって、手をのべ、罪を得ない者があろうか』。」サムエル上26:9

ダビデにとって宿敵サウル王を討つ絶好の機会が巡ってきました。忠実な部下アビシャイは一突きで殺そうとしますが、ダビデは止めます。神様を畏れるからです。サウル王がどうあろうと神様が王として立てられた以上、神様が除かれるに違いない。これがダビデの信仰です。主を待たずに手っ取り早く事を済ませようとしやすい私たちです。そのとき、神様から離れます。(KE)

彼女は確信を与えられ、もはや憂いはなくなったのです

6月28日

「彼女は言った、『どうぞ、はしためにも、あなたの前に恵みを得させてください』。こうして、その女は去って食事し、その顔は、もはや悲しげではなくなった。」サムエル上1:18

エルカナの妻ハンナは子供がなく、肩身の狭い思いをしていました。そのため、切に祈っていました。ある年、神殿で祭司エリに打ち明け、執り成しの祈りをしてもらいました。それ以来、彼女は確信を与えられ、もはや憂いはなくなったのです。いつまでも憂えず、祈って信仰に堅く立って、身も心も新しくなろうではありませんか。(KE)

神様が滅ぼされるのではなく、自分が死とのろいを選ぶからです

6月27日

「わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。」申命記30:19bc

神様の救のみわざはイエス様の十字架によって完成しています。それに付け加えるものはなにもありません。ただ選択と決断が私たちに委ねられています。事の大小を問わず、すべてのことには「命と死」「祝福とのろい」のいずれかを選び、決断することです。神様が私たちを滅ぼされるのではなく、自分が死とのろいを選ぶからです。どうぞ命を選んでください。(KE)