2月16日
「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。」マタイ6:8b
神様は全知全能な方です。私たちの必要なものを知らないはずはありません。人の親でも限りある知恵で子供が必要なものを知り、備えようとします。ただ、だからと言って、何でも全部与えればよいわけではありません。それぞれの「もの」や「こと」に時があり、規模や内容も変化します。私たちが喜び、感謝し、主を称えることができるような方法や時期を神様は待っているのです。(KE)
2月16日
「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。」マタイ6:8b
神様は全知全能な方です。私たちの必要なものを知らないはずはありません。人の親でも限りある知恵で子供が必要なものを知り、備えようとします。ただ、だからと言って、何でも全部与えればよいわけではありません。それぞれの「もの」や「こと」に時があり、規模や内容も変化します。私たちが喜び、感謝し、主を称えることができるような方法や時期を神様は待っているのです。(KE)
2月15日
「おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。主はとこしえにこのような人を捨てられないからである。」哀歌3:30-31
右の頬を打つなら、左の頬を出せとは有名な言葉ですが、多くの人は誤解しているようです。打たれることが主眼ではなく、どんなことでも見ておられる方がいること、また必ず報いてくださることを信じるからです。どんなときにも神様に期待しているとき、心にゆとりが出来て望みを持つことができます。そうでないと、袋小路に追い詰められて自滅するほかありません。(KE)
2月14日
「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。」エレミヤ32:27
カード遊びをするとき、どんなカードよりも強いものをオールマイティと言います。まさに神様はそのような方です。天地万物、森羅万象をすべて創造された方は、いまも変ることなく、創造のみわざを日々続けておられます。私たちの全てを知り、すべてのわざを導き、生ける者の「主」です。今日の一日もこの方によってあなたのために備えられた日です。あなたは自分が「主」だと思っていませんか。(KE)
2月13日
「キリストは彼のためにも、死なれたのである。」ローマ14:15c
これは大変重い言葉です。主の救を受けた私たちは、気がつかないうちに自分を義としています。その結果、まだ主を知らない人たちを批判し、“未信者”と称して差別します。しかし、神様から見ると、彼もわたしも同じ者です。イエス様の十字架の死によって、罪を許された者です。ただ、それをすでに信じた者か、これから信じる者であるかの違いにすぎません。神様の側に立つなら、過去現在未来に渡ってすべての人のために救は完成しているのです。(KE)
2月12日
「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」ヨハネ4:14
イエス様はスカルの町で一人の女に出会います。彼女は五人もの夫に仕えた人でした。それは彼女の心に渇くものがあって、次々と求めた結果でした。それを満たすにはイエス様による以外にありません。私たちの仕えるべき夫はイエス様です。あなたが主の花嫁となり、花婿の言葉に従うとき、永遠の命をいただくのです。(KE)
2月11日
「それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。」マルコ1:12
主はバプテスマを受けられた後、荒野で試みに遭いました。それは神様の深いご計画で、御霊に導かれた結果です。神様は私たちの信仰が成長し、堅固になるよう願っています。それゆえ、救われた者は期待が大きいだけに、試練も多くなります。しかし、イエス様が試みられているときも、御使いが仕えていたとあります。試練のとき、無力さと孤独を感じますが、御使いがあなたと共にいることを覚えていてください。(KE)
2月10日
「だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。」マタイ24:42
終末の時、イエス様が再び世に来てくださるとの約束を信じて、今の時を生きています。再臨の時がいつであるか、誰にもわかりません。その時がいつであっても、喜んで、恥ずかしくなく、主のみ前に立てるように生きることが、私たちの日々の目標です。毎日の行動規範、世間で言う「倫理」は、私たちにとって「今、主が来られても恥じることなくみ前に立てるか」を問うことです。(KE)
2月9日
「見よ、わたしは、たなごごろにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。」イザヤ49:16
忘れてはならないことを書き留めるに、手近なものとして手のひらに記すことがあります。神様はあなたをご自分の手のひらに「彫り刻んだ」と言われます。刻印したものはどんなことをしても消えません。神様はそのような堅固な思いで私たちを覚えておられますが、私たちは神様を忘れやすいものです。自分では小さな目に留まらない存在と思っても、神様には「石がき」のように見えているのです。(KE)
2月8日
「もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい。迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。」マタイ18:13
どんなに多くの人がいようと、神様が心を向けておられるのはたった一人のあなたに対してです。ともすると、集団の中の一人になろうとします。神様の目にとまらない存在だと不満に思いますが、小さく、無きに等しい者にこそ主は目を向けて、あなたを捜しておられます。他の人はどうであれ、まず主とあなたとの愛による信頼を堅くしてください。(KE)
2月7日
「そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。」ルカ19:6
ザアカイは強欲のゆえに多くの人から嫌われていました。彼の町に来られたイエス様が、思いがけず彼の家に泊まったのです。愛されたことのない彼にとって、これは彼の心の琴線に触れる事態でした。主は一言も言いませんが、主の愛に感動した彼の生活態度は全く変りました。イエス様は人の心の奥深くに届いて、心を造り変える方です。心が変われば生活が変ります。私たちも「よろこんで」主を迎えましょう。(KE)