6月16日
「あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう。」申命記8:12-14
「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」と世間でも言われます。忘れることは人にとって救となる場合もありますが、決して忘れてはならないこともあります。それは神様の恵みや祝福です。物事が順調になると、高慢になり、神様を忘れますが、神様は決して忘れるかたではありません。必ず、報われるときがきます。(KE)
6月16日
「あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう。」申命記8:12-14
「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」と世間でも言われます。忘れることは人にとって救となる場合もありますが、決して忘れてはならないこともあります。それは神様の恵みや祝福です。物事が順調になると、高慢になり、神様を忘れますが、神様は決して忘れるかたではありません。必ず、報われるときがきます。(KE)
6月15日
「そこでイエスは言われた、『あなたも行って同じようにしなさい』。」ルカ10:37b
「隣り人とはだれか」と問われたとき、イエス様は強盗に襲われ瀕死の傷を負った人を助けたサマリヤ人の譬えを話しました。そのあとで言われたのがこの言葉です。私たちはともすると「隣り人とはだれか」と、言葉の定義や解釈に熱中して、それで事終わりとしやすいのです。どんなに議論し高尚な学説を打ちたてようと、それで「隣り人」になることはできません。大切なのは「あなたも行って同じように」することです。(KE)
6月14日
「人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。」マラキ3:8ab
私たちの健康も、家族も、仕事も、ことごとく神様から頂いたものばかりです。そのことを忘れて、まるで自分の力や知恵、努力によって得たと誇っている。まさに神様のものを「盗んで」いると言うほかありません。今日も、神様の慈愛によって生きるために必要な物を全て頂いているのです。まず、そのことを認めて、神様に感謝し、褒め称えましょう。また、言葉だけではなく感謝の奉げ物を主に奉げましょう。(KE)
6月13日
「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。」ホセア6:1
預言者ホセアを通して語られた神様の思いです。神様は私たちを愛するがゆえに、「かき裂き」、「打たれ」ますが、それは私たちが神様に立ち返ることを切に願っているからです。試練と言うべき困難や苦しみに遭う時、自暴自棄になって「神も仏もあるものか」と呪うのではなく、謙遜になり、素直になって神様の哀れみと恵みを求めましょう。それが神様の真意だからです。(KE)
6月12日
「人が富を得るときも、その家の栄えが増し加わるときも、恐れてはならない。彼が死ぬときは何ひとつ携え行くことができず、その栄えも彼に従って下って行くことはないからである。」詩篇49:16-17
確かに、人は空手でこの世に生を受けました。また、何も持たずに去っていきます。だからこそ、神様はこの世にあって人が楽しみ、喜び、感謝するようにと全ての必要を備えてくださいます。この世に生きる間は、思い煩わず、恐れず、神様のご愛のみ手を信じて、楽しもうではありませんか。(KE)
6月11日
「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、…」エペソ3:16
人には自分だけが知っている自分と、他人が見ている自分とがいます。それを内なる人と外なる人と呼びます。「他人が見ている自分」がどんなに明るく、快活で、躍動的であろうと、内なる人は暗く、寂しく、悲しみに満ち、無力になっていることがしばしばあります。そのような自分を強くし、輝くものにしてくれるのは御霊以外にありません。御霊は十字架の愛と勝利をあなたに注いで下さるからです。(KE)
6月10日
「あなたがたは、なにゆえ神のようにわたしを責め、わたしの肉をもって満足しないのか。」ヨブ19:22
不条理な苦しみに遭ったヨブのもとに、友人たちが慰め、励ましにきます。しかし、彼らの言葉はヨブにとって苦痛を増幅させるものにすぎません。彼らは自分を神のごときものとして、その義によってヨブを責め立てる結果になりました。私たちも彼らと同輩です。神様のように責める。これこそ人の心にある抜きがたい衝動です。また、このゆえに人間関係を不毛にし、この世を荒野にしているのです。(KE)
6月9日
「その子の父親はすぐ叫んで言った、『信じます。不信仰なわたしを、お助けください』。」マルコ9:24
息子の病気に悩む父親。なんとか信仰に立って勝利を得たいと願いつつも、不信仰の圧倒的な土石流が父親を生き埋めにしようとします。そうです。私たちにとって神様を信じることは冒険であり、大いなる賭けであり、挑戦です。しかし、それはやってみる価値のある大事業です。「信じます」と言うだけなら実に簡単ですが、この父親のように、「信なき」自分をさらけ出してがむしゃらにしがみつくのです。主は応えてくださいます。(KE)
6月8日
「イエスは言われた、『手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである』。」ルカ9:62
「すき」は田畑を耕す道具で、鋭い刃を備えた物です。この作業中にうかつに気を抜くと、命を失う危険があります。同様に、イエス様の声を聞いて従うのはまさに命がけでなすべきことです。主のみ声を聞きつつ、他のことに心奪われるなら、命を失う危険が大いにあります。救の完成と言う大事業に向かって踏み出した私たちは、イエス様の声にのみ全神経を集中させ、みことばに従おうではありませんか。(KE)
6月7日
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」マタイ11:28
古人いわく、人生は重き荷を負うて坂道を行くがごとしと。恐らく、生きることに苦労していない人はまずいないでしょう。なんとかして、その重荷を減らし、苦労をなくそうと労苦を重ねているのが現実です。イエス様は「わたしのもとにきなさい」と招いておられます。イエス様に祈って打ち明け、ゆだねようではありませんか。必ず、心が軽やかになり、生きることを喜べるようになります。(KE)